紫陽花の葉の濃い緑が視界の端で揺れている。
 痛む右目を押さえながら、首を横に向けると深緑色の随に白っぽい花弁が仄かに発光しているみたいに咲いていた。いや、あれは花ではなくてガクなのだったか。今にも雨が降り出しそうな空を仰ぎながら、梅雨の季節に咲く花らしく紫陽花には、曇天が似合うなと木虎は思った。
 左目だけで捉える世界は、普段生活している場所の合間に闇で出来た隙間を持つと言う事だと思った。人間の目は両目を使って物の距離を測るようで、片目が使えなくなった途端に世界にはぽっかりと穴が口をあけて待ち受けているようになった。物を掴み損ねては落とし、しっかり前を向いていていも見えない何かにぶつかる。一日で身体にいくつ痣が出来たのだろうか。木虎は黒板に書かれた数式をノートに写しながら、まわりに気取られないようにひっそりとため息をついた。
 授業を終えて校外に出ると小雨が降っていた。ただでさえ視界が狭いのに傘を差すのは億劫で、鞄の中に用意しておいた傘をそのままにして彼女は歩き出した。
 霧雨のような細かい雨粒はしっとりとして、一歩踏み出す毎に身体に纏わりついてくる。水気を含んだ髪が頰に張り付いて鬱陶しい。濡れた横髪を耳にかけていると、革靴のつま先がコツンと何かを蹴った。チリチリと音を立てて転がったそれの正体を確認しようと下を向くと、どうやら前の方から転がってきた鈴を蹴ってしまったらしい。それが元あった場所であろう電信柱の影には、花やペットボトルが供えるように置いてあった。
 まだ真新しいそれは、ここ二三日のうちに置かれたものに違いない。木虎は事故を阻止できなかった事(それを背負うのは傲慢だとしてもだ)と今まで気が付かなかった自分の不甲斐なさに、その整った眉を顰めた。警戒区域ギリギリの人通りの少ないこの道で交通事故など、起こる確率は少ないと言うのに。
 電信柱に貼り付けられている「三門ファミリー歯科」の看板に擦り傷が斜めに入っている他には、現場は綺麗な清掃された後なのか事故の痕跡と言えそうなものは無かった。故にどんな事故があったのかは分からない。
 目を伏せて一歩踏み出した際に、襤褸となった赤い首輪が視界に入って木虎はその生々しさに胸が痛んだ。拾った鈴はこの首輪についていた物のようだ———チリンと涼しげな音を立てるその鈴を電信柱の端に置くと短く黙祷を捧げた。





「藍ちゃん。もしかして最近眠れてないんじゃないかな?」
 本人は隠し切れているつもりのようだが、木虎の目の下には傍目にもわかる程くっきりと隈が浮いていた。才色兼備な自慢の後輩には珍しい状況に、綾辻はたまらず声を掛けた。他のメンバーも心配していたようで、無言で何度も頷いている。
「……なんでもありません」
 俯く彼女にいつもの元気はない。話したくない事を無理に話せとは言わないが、綾辻には彼女が助けて欲しがっている様に見えた。
「話してみると楽になることもあると思うよ?」
 白くなるほど握り締められた拳に優しく手を重ねながら言葉を続ける。彼女はいつだって自分だけでなんとかしようとするのだ。それが悪い事とは言わないけれど、折角彼女よりも先に生まれたのだから、たまには頼って欲しいと思う。
「お兄ちゃんが何でも聞くぞ!」
 嵐山さんが任せろと言った風に胸を反らすものだから、思わず笑ってしまう。藍ちゃんも力が抜けたのかきつく引き結んでいた唇を緩ませた。
 そうして緩んだ頰をまた引きつらせて「怖いんです」彼女はぽつりとこぼした。

◇◇◇

 木虎藍が異変に気が付いたのは、三門市が梅雨入りしてから数日経った蒸し暑い日の事だった。煩わしい眼帯も取れいつもの日常に戻ったのを喜んだのもつかの間、今度は自分の周りに視線や気配を感じるようになったのだ。嵐山隊としてボーダーの広報の仕事をするのである程度は他人に見られるのには慣れていたつもりだったが、ジッと凝視するような重たい視線や数歩後ろをついてくる小さな足音がするのに、振り返ると誰もいないと言う状況が幾たびもあると、徐々に気味が悪くなってきた。これならば疲れるし面倒だがまだ直接声を掛けられる方が何倍もマシだ。
「隠れてないで出てきなさい!」
 毎日少しづつ積み重ねられる恐怖と不安に、道端だと言うのに人目も憚らず振り返って叫んだ。さっきまで舐めるような視線を感じていたのに、灰色の町には木虎以外の人間の姿はない。
 アスファルトで舗装された道の脇に、急激に背が伸びた夏草が生い茂っている。それが風の吹く向きやタイミングとは無関係にガサッと音を立てて揺れた。腰丈ほどの雑草の中に人間が居るとは思えない。野良猫だろうか?それならば怖くない。
 安堵に胸を撫で下ろしていると、揺れは段々とこちらへ近づいてくる。それだけなのに、木虎は言葉では説明できない恐怖を感じた。根拠も理屈もなく「あれ」に出会ってはいけないと思った。彼女はガサガサと揺れる草むらに踵を返して、自宅に向かって逃げるように走り出した。
 一直線に帰宅して良いものか迷ったが、ついて来るものが何を頼りに追いかけてきているのかわからない。追い付かれる可能性も考えて、今は一秒でも早く安全な場所に身を隠す方を選んだ。家に着くと急いで玄関の扉を閉めて荷物を置く。全速力で走ったせいでぱた、と汗が机に落ちた。家の中に入ると幾分気持ちが落ち着いた。あれが何であれ、戸締まりのしてある建物には入って来れない、と思いたい。
(先にお風呂に入ってしまおう)
 汗もかいているし、暗くなってから一人で入るより明るいうちに入ってしまった方がいい様な気がして、木虎は浴室の電気を点けた。
 熱いシャワーを頭からかぶると張り詰めていた気分が解けて吐息が漏れる。ああ、お風呂は命の洗濯とはよく言ったものだ。身体に残っていた緊張が緩んでいくのを感じる。
 出しっ放しのシャワーが熱気で浴室を白っぽくしていく。さっき感じた恐怖がお湯とともに排水溝へ流れていった。
 木虎はお気に入りの花の香りがするシャンプーを泡だてて、鼻歌交じりに髪を洗う。これでもう大丈夫だとそう思った時、チリンと鈴の音が幽かに耳に届いた。身じろぎも出来ず泡だらけの身体のまま音のした方を凝視した。
 湯気で曇った浴室の窓にサッと動くものがあった。黒い影が浮かび上がり、その場でじっと立ち止まった。外に何かいる。木虎は必死に悲鳴を飲み込んだ。
 ザァァとシャワーが流れる音だけが耳朶を打つ。窓の外にいるものに耳を澄ませていると、水音にガラスを引っ掻く様な音が混じった。
カリ……カリ……カリカリ………
 洗い残しも気にせずに急いでシャワーでシャンプーの泡を流すと、濡れた髪をタオルで包んだまま自室のベッドの中へ飛び込んだ。布団で自身の体をぐるぐると包むと、絶対に朝が来るまでこの部屋から出まいと誓った。

◇◇◇

「木虎が優しいから、ついて来ちゃったんじゃないかな?」
 話を聞き終えた後、黙って聞いていた時枝がおもむろに口を開いた。
「ついて来たって、何がだ?」
 嵐山が腕組みしたまま首を捻る。他の三人も一体何の事なのか分からなかった。
「猫……だと思う。木虎は献花してあるのを見て、死を悼んだんでしょ?犬も首輪に鈴をつけるかもしれないけれど、猫の方が多いはずだし。お風呂に入れなかったのは水が苦手だからかなって思って。動物の霊って可哀想って言うと憑いてきちゃうって話、聞いたことない?」
時枝の話を聞いて佐鳥が相槌を打った。
「オレ聞いた事あるかも!憑いて来ちゃったら、それってどうすればいいの?」
「うーん。拾って来ちゃった場所に、お線香でもあげたらいいんじゃないかな……。供養は人も動物も変わらないと思うし」
話しながら彼女の方を窺うと、考え込む仕草のまま何度か頷いた。
「そう……ですね。そうしてみます。あの、今から行って来ても良いですか?」
そう言う彼女にみんなで行こうと提案したのだが、一人で平気だと断られてしまった。しかし作戦室を出る時の彼女の表情が明るかったのできっともう大丈夫だろう。それなら作戦室で待っているから、その後みんなでご飯でも食べに行こうと伝えると、彼女は嬉しそうに笑った。

◇◇◇

 木虎は警戒区域近くのコンビニでお線香とライターを購入し、真っ直ぐあの電信柱を目指した。そう言えばあの日以来この道は通っていなかったなと思い、無意識のうちに避けていたのに気が付いた。
 三日ぶりに細い路地を曲がると「三門ファミリー歯科」の看板が見えた。前回見た時と変わらず表面には、斜めに擦れた様な線が入ってたままだ。袋の中身をもう一度チェックした後。コンビニの袋を握りしめて、足を早めた。しかし彼女は電信柱の全体が見渡せる道に出た瞬間に、その歩みを止めざるを得なかった。
「お供え物が——ない?」
 誰かに片付けられてしまったのだろうか。たった三日前の出来事なのに、全て跡形も無くなっている。そんなはずないと、踏み出した足が何かを蹴飛ばし躓いた。
 ジワリと嫌な汗が背中をつたった。見たくないと言う意思に反して、首は地面へと視線を移す。激しく動揺した木虎の足元で「チリン」と鈴が鳴った。
                                                                                                                                 片目の少女/了