三輪秀次は静かな山中にひとり佇んでいた。足元には松葉が積もり、ふかふかとした絨毯を作っている。深く息を吸うと清涼な気配で肺の中がいっぱいになった。街の中とは違う空気の匂いだな、と三輪は思った。
 暮れ方の陽は物事の輪郭を朧げにしか映さない。見えずらくなった視界に顔を上げると、山の中に深い闇がひたひたと満ちていくのがわかった。あたりを夕陽が照らしていたのはついさっきなのに、太陽が沈むとあっという間に闇が迫って来た。蠢く夜の闇に、三輪は無意識にホルスターに入れた銃に手をかけようとした。そうしてから自分が換装体ではない事に気が付いて首を力なく横に振った。
(これは訓練じゃない)
 ましてや任務中でもない。言うならば山には遊びに来ただけで、やっているのはただのキャンプである。そう、キャンプなのだ。
 三輪にはアウトドアの趣味はない。学業とボーダーの両立だけで三輪の世界は回っていた。それなのに。思ったよりも本格的な山の中に、三輪はそっとため息をついた。

 本部のラウンジを作戦室に向かって歩いていた三輪は前方に東が立っているのに気が付き、軽く頭を下げた。
「ちゃんと飯食ってるか」
 既に三輪は東隊を抜け自身が率いる隊を作ったと言うのに、東は三輪を見かけるとあれこれ声を掛けてくる。まだ彼に部下と認識されているのかと思うと、嬉しい反面、子ども扱いされている様で歯がゆい。それをいつだったか奈良坂に漏らした時に「弟子と言うのは相手がどんなに成長したとしてもずっと弟子のままだ」と彼は言っていた。
 その時はそう言うものなのかと流してしまったのだが、今思うとあれは日浦に対してだったのか、それとも古寺に対してだったのか。存外心配性な彼だから、片方ではなく二人に対してなのかも知れない。感情を感じさせない人形めいた顔をした彼が、弟子について口にしたのはそれきりだったので、言うつもりのない言葉が溢れてしまったのかも知れなかった。
「三輪くんもそれでいい?」
いつの間にか東だけではなく同じ隊の先輩だった二宮と加古まで揃っていた。三人の視線がジッとこちらに注がれているのに気が付き、反射的に頷いてしまう。多分みんなでご飯に行こうとかそんな話だろうと思ったのだ。
「最初だし道具は俺が持って行くから。秀次はキャンプ初めてだろ?」
「は?」
軽率に承諾してしまった自分を呪いながら、三輪は服装と持ち物の注意を受け、集合時間を頭に刻み込んだ。

 それから数日後の休日、三輪は三門市内の山の中で焚き火に必要な枝を集めていた。東が言った通り林間学校以外でこういった事をするのは初めてだったので、いまいち勝手がわからないまま、指示された通りに地面に落ちている枝を見つけ次第渡された布袋に入れるという作業を繰り返した。予め用意した薪もあるのだが、東さん曰く薪拾いもキャンプの醍醐味らしい。先に拾った松ぼっくりは何に使うのだろう。
 松ぼっくりのかさは乾燥すると開くのだと言うのも今日初めて知った。枝から落ちた種が勝手に開いたり閉じたりするなんて、想像した事もなかった。本当にこれは種子なのか?
 拾った松毬を観察しようとして、光源が足りないのに気がついた。あたりを見渡すと、夜の帳が完全に降りている。そろそろ戻った方が良いかも知れない。案外山の中にいると登りと下りの区別もつかないのだなと思った。確かに山中で遭難する人間がいるのも頷ける。
 「あっちにもたくさん落ちてるわよ」
 声がして振り向くと、いつの間にか背後に加古さんがいて驚く。半歩後退った拍子に、パキッと枝が折れる音がした。
 彼女の太陽の光みたいに明るい髪は、夜でも淡く光っているみたいに見えた。隊服に似た色合いのマウンテンパーカーはいつもの雰囲気とは違えど、とてもよく似合っている。見慣れているはずの薄い唇の下にある黒子から目が離さなくなり、胸がどきりとした。彼女は山の中でも匂い立つばかりに美しい。
 そればかりか、テントとは反対の暗闇を指差すその仕草にさえ、見る者をぼうっとさせるような力があった。
 もはやこの世のものとは思えない———そう思っているのが伝わらないように、集めていた木の枝を抱え直して誤魔化した。
「いえ、危ないのでもう戻りましょう」
「そう?なら、エスコートお願いね」
そうやってするりと絡められた白い指は、生きている人間の手とは思えない程冷たかった。夜の山ではこれ程までに気温が下がるのか。ぶるりと背筋を走った寒気に三輪は握った手に力を込めた。健気な彼の様子に彼女は暗がりの中でひっそりと微笑んだ。
 テントを張った場所へと戻ると、ランタンの煌々とした黄色い灯りと焚き火の影のある橙色の明かりに出迎えられた。暗闇は深さを増しているけれど、炎が照らしている場所は安全地帯に思えた。夜露で湿った下草の中に折り畳みのイスを広げて座った。
 焚き火の前に座った東さんは慣れた手付きで燃えている薪を動かした。その様子に三輪は、火を起こす所が見たかったなと思った。パチパチと音を立てて爆ぜる薪を、舐めるようにして絡んだ炎が揺らめく。
「焚き火はいいぞ。普段使わない感覚が研ぎ澄まされる」
三輪から枝の入った袋を受け取ると、東は細い枝を放り込みながら言った。
「トリオン体で戦闘に適した動きをしたいなら、まず生身の感覚を鍛えた方がいい」
「はい」
三輪は神妙に頷きながら牛乳の入ったコーヒーのマグカップを受け取った。カップの温かさに思わず吐息が出る。思いの外自分の手も冷えていたようで、カップを持つ指がじん、と痛んだ。炎に照らされる面は温かいのに、身体の芯が凍えるように寒い。加古はもう寒くないのか、クーラーボックスから飲み物を取り出している。
「ねぇ、コップはこれを使ってもいいの?」
「ああ。みんなで乾杯しようか」
立ち上がった東を加古が手で制すと、ナップザックからスタッキングされたカップをふたつ取り出した。
「あなたはこっち、はい焼肉のたれ」
「おい」
「何よ、焼肉好きでしょ?高い方を買ってあげたんだから文句は言わないで頂戴ね」
本当にカップに焼肉のたれを注ごうとする加古を二宮が椅子に座ったまま制止する。
「あいつらはいつでも元気だなぁ」
焚き火に照らされる横顔が随分と大人に見えた。いや、この人は初めて見た時からずっと大人だった気がする。日に焼けたその手が思っていたよりも男らしくゴツゴツしているのを見て、自分の生白い手が無力な子供のようだと思う。あの日大切な人を守ることが出来なかった、非力な子供の手だ。
 火は風に巻き上げられて何度も姿を変える。空に向かって縦に伸びたかと思うと、千切れて闇に飲み込まれていく。すぐ側まで迫ってきている闇が、炎の合間を縫ってうねうねと蠢いている———ように見えて、なんだか凄く恐ろしかった。
「山って夜の気配がすごく濃いのね……。私、さっきから胸がドキドキするの」
そう言って彼女はすらりとした長い足を魅力的な角度で組み替えた。怖がっていると言うより、興奮しているように瞳の中が煌めいた。
「せっかく素敵なロケーションなんだから、怖い話が聞きたいわ」
 加古の影が山の奥に向かってにゅうっと伸びている。手前に見えている木の向こうは、どんなに目を凝らしても黒いクレヨンで塗り潰したみたいに真っ暗だ。その代わり空にはプラネタリウムと見まごうばかりにたくさんの星が輝いていた。あまりにもよく見えるので逆に偽物みたいだと三輪は思った。
「怖い話だと?ふん、そんなものわざわざしなくても、おまえと一晩を明かすと思うとそっちの方がゾッとする」
「うふふ、忘れられない夜にしてあげる」
バチっと音を立て枝が爆ぜた。揺らめく炎の向こう側にいる加古はうっとりと見惚れるような笑みを作った。白い肌に包まれた柔らかな体躯がオレンジ色に艶かしく照らし出される。剥き出しの額が濡れたようにぬらぬらとしている。
「山も海も怖い話には事欠かないからなあ……」
東は三輪にちらりと視線を送った後、足元に落ちていた木の枝を焚き火へ放り込んだ。
「まずは山や海に行く場合は、体調管理をしっかりしろ。身体が本調子じゃない時は魅入られやすいんだ。勿論、気持ちの方もな。それに危険な場所には立ち入らないように。その土地の人間が立ち入らない場所にはそれなりの理由がある。まあ、どんなに気を付けてても、うっかりってことがある訳だけど」
そう苦笑しながら東は自身の体験を話しはじめた。
「いつだったか、キャンプじゃなくて山登りに出掛けたんだ。俺が選んだのは痩せ尾根を通るルートでまあまあ難易度が高いんだが、何故か難所と呼ばれる場所じゃなくてそこを過ぎたあたりで登山客が消えるって噂でな。まあ、木登りは登るより降りる時、しかも地面が近くなってから怪我をするから気をつけろって諺があるように、きっと尾根を抜けて緊張が緩んだ時に滑落事故が起きるてるんじゃないかと思って、それじゃあ難所を抜けたら一度休憩すれば良いと思ったんだ。
 当日は天気も悪くなくて計画した通りにペース良く難所まで行けたよ。お陰で焦る事なくじっくり難所に時間を使えた。そうやって抜けた後、少し開けた場所に出たからさて休憩しようと思ったら、ちょうど腰掛けるのに良さそうな岩があったんだ。逆に疲れるから登山の途中は立ったまま休む事が多いんだが、その時は吸い寄せられるようにしてその岩に近づいた。今思えば、それも可笑しいんだが……まあ疲れてたんだな。その時は気にせずその石の上に座って15分ほど休憩を取った。もっと早く休憩を切り上げてもよかったんだが、妙にその場所から離れ難くてな。疲れて体が重いって感じじゃなくて、後ろ髪引かれるようなそう言う感じだったよ。それでもまだ行程の半分くらいだったからそこに留まるわけには行かない。再び歩きそうと思った時に気が付いたんだ。腰掛けていた岩がただの石ではなく『墓石』だったって事に」
三輪は視界の開けた美しい稜線を渡り切った先にある、その墓石を想像しようとした。山の中に墓地がある事は珍しくないが、一見して墓だと分からないと東が言ったので、墓守が居なくなって随分と時間が経っているんだろう。そうしてついには、忘れ去られてしまった。でも、そんな昔からあれば噂の中に墓があると含まれていても良さそうなのに。通り過ぎる時には気が付かなくても、立ち止まって見れば墓石と判断出来るだけの要素は残っていたのだから。
「それは不味いですね」
東の話に二宮が相槌を打つ。
「だな。しかも普通の墓石じゃなさそうで、流石に俺も焦ったよ。襤褸襤褸になってはいたんだが、その石をぐるっと囲む様に紙垂の垂れたしめ縄が巻かれてたんだよ。神聖な墓なのか、邪悪なものを封じ込めてるのか。石に掘られた文字は風化して判読は出来なかったから結局分からないままだけどな。
 倒れた墓石を前にしていると、このままだと先に進もうが来た道を戻ろうが、良くない事が起きそうだなって感覚がざわざわと身体を駆け巡るんだ」
そう言う体が発する危険信号ってのは意外に馬鹿にならないんだぞ、と東はぐにゃりと顔を歪めて笑った。その顔にはっとするものの、他の二人は気が付かなかったようだ。もしかしたら光の加減で、目が錯覚したのかも知れない。そう思いたかった。
「それでどうしたんですか?」
「倒れた墓石をきちんと起こして、持ってた水を備えて手を合わせたよ。ちゃんとさっきの非礼も詫びてな。それでそこを発つ前に、思いっきりボコーッと墓石を蹴っ飛ばして走って逃げた。ははは、無事に帰ってこれて良かったよ」
それじゃあ道理もなにもないじゃないかと、三輪は目を丸くして驚いた。
「粗末にしても祟られるが、優しくすると憑かれるからなぁ」
 そういうものなんだろうか。訝しむ三輪に東は言った。
「山や海には魔物が住んでいる。そいつらは俺たちの隙をじーっと窺ってるんだよ。もし「おーい」と自分を呼ぶ声や美しい女性が現れたら気をつけた方がいい。返事をするのもいけないし、自分の領分に招きいれてもいけない。無視するのが一番だよ。
 狐や狸なら命まで取られないだろうが、魔物には人間の道理が通じないからな。そう言うものに出会ったら絶対について行ってはいけないぞ」と。
 三輪は焚き火で温まった身体がとろとろとした眠気に負けつつあるのを感じながら、生真面目に「わかりました」と返事をした。

◇◇◇

「この前キャンプではお世話になりました」
三輪は後日ボーダー本部で忙しそうな東を捕まえると単刀直入にお礼をした。無作法かと思ったのだけれど彼は気にしないようで、嬉しそうに笑って秀次の頭を撫でた。
「意外に楽しいだろ?また行こうな」
「はい」
正直いまは近界民の討伐以外に時間を使う暇はないと思っていたが、ああ言う時間も悪くはない。現に、あの日帰って来てからもキャンプの事が忘れられず、また山に行きたいと言う気持ちが日に日に大きくなるばかりである。あの闇が、山全体が、己を呼んでいると錯覚するほどに体があの場所を欲していた。
「加古がテントを買ったから次は私も行きたいって騒いでたぞ。次は賑やかになりそうだな」
思わぬ一言に、一瞬殴られた様に目の前が真っ白になって、ぐらぐらした。あの時の加古の冷たい指も、炎のように揺らぐ瞳もまだ鮮明に覚えている。何度もキャンプに行っている東の記憶違いなのでは。
「あの、前回も加古さんは居ましたよね?」
「ん?あの時は、流石に年頃の女の子を男三人と一緒にひとつのテントに寝かせるのは……ってなっただろ?駄々を捏ねる加古を説得するのが大変だったよな、っとこれを聞かれたら不味いな。はは、秀次もずっと困った顔をしてたし。だから、三人で行ったろ?」
 目の前の東さんには冗談を言っている雰囲気はない。それに二宮さんに確認すれば直ぐに分かるような嘘をこの人が吐くだろうか。
 ぞわり、と悪寒が走る。頭から冷水をかけられたような気分だ。あの日の加古は他の二人とも話していたのに、覚えているのは自分だけなのだ。それはきっと彼女に選ばれたという事で、彼女はいまも山の中でオレを待っている。
「ふふ、」
ふと、山の中の森林の匂いが鼻先で香った。女の悲鳴のような甲高い音が耳元で木霊する。
「ねえ、待ち草臥れタわ」
 ———三輪はあの時のゾクゾクするほど艶やかな笑みを浮かべたあの女が、この世のものではなかったと、その時ようやく気がついた。

山に棲むもの/了