日が沈む。
 地平線の向こうへと姿を隠す太陽はその沈む前の一瞬、世界を赤く染め上げる。その赤は昼が殺された証で、昼の血潮は熱くてぬめぬめしている。それが空気に触れて黒くなると、世界にはやっと夜がやって来る。だからきっと人々は夕日を眺めると酷くもの悲しい気持ちになるのだろう。
 命の灯火は強すぎて、より濃い影を生む。この時間は普段見えているものが見えずらくなって、見てはいけないものが見えてしまう。この世の理が揺らぐせいで、警戒区域は何度もあの日と同じ夜を迎えるのだ。
 今日の任務は十八時までなのでそろそろ交代の時間だ。その時ふと視線の端で、影が揺れた。ホルダーから銃を抜き汗の出ない手で構える。その影が人間の形をしていると気が付いた時には既に引き金を引いていた。無意識に引き金を引くなんてあってはならない。それなのに。狙いをつけていた通りに鉛弾は発射され、影の向こうでドサリと何かが落ちる音がした。
「秀次?」
 ハンドガンの銃声を聞いて距離を取っていた陽介が駆け寄ってきた。彼の背後でとうに沈みきった陽が最期の一瞬だけ煌いた。後にはただ眩んだ目の中に、藍色に染まった空があるだけだった。ふと数メートル先にいる陽介は本物だろうかと不安になる。目を細めてみるがもうこの暗さでは判断の仕様もない。ただこの警戒区域の中に彼以外の人間がいる筈もない。持っていた拳銃をホルダーに戻した。陽介は丁度表情が読み取れない位置で立ち止まると、それ以上こちらには近づいて来なかった。トリオン体の手の平に、じわりと汗が滲んだ気がした。
「何でもない」
「そ?じゃあ本部戻ろーぜ」
 陽介が頭の後ろで組んだ手から槍を消すと、くるりと背を向けて歩き出した。その仕草はいつもの陽介だ。そう思うのに、隣に並ぶのが怖かった。開いた距離をそのままにしてついて行く。音の割れた夕焼け小焼けが傾きかけたスピーカーから流れ出す。明日は雨が降るのかも知れない。先ほどの影と、自身が撃ち抜いたモノが気になって、もう一度立っていた所をじっと凝視する。影も撃った何かも、見つからなかった。
 奈良坂と古寺からも時間になったため引き上げると通信が入った。彼らが待機していたであろうビルを見上げるも、二人の姿はもう無かった。……オペレーターが不在だとやり難い。重くなった足を引きずる様にして歩いた。
 所定の時間になり三輪隊は防衛任務を交代した。





第一夜 繝槭Κ繧、繧ャ





 田んぼ間の畦道を、月明かりだけを頼りにして歩いていた。夜の野道は湿った風が吹き、足元で揺れる雑草は夜露で濡れている。妙に静かな夜で、自身の歩く音が暗闇に大きく響いた。その合間に、りぃんりぃんと鳴く虫の音が物悲しく耳朶を打った。街灯の類は無く、ただ月明かりだけがぼんやりと辺りを照らしている。見渡す限り、重そうにこうべを垂れた稲穂が水面のように揺蕩っている。北風が吹く様になったら稲刈りが始まるのだろう。
 空を見上げれば、朧月はちょうど真上に登っていた。特段急いでいた訳ではないのに、その山の入り口に着く頃には息が上がっていた。それで、一度立ち止まって呼吸を整えた。深呼吸を繰り返しているうちに、入り口の傍に小さな道祖神が祀ってあるのに気が付いた。それは長い間雨晒しにされて、刻まれた文字は擦れて読めなくなっていた。それなのに真新しい注連縄がしっかりと結んである。きっとここへ住む人にとってそれだけ重要なものなのだ。山と里の境界線は、人と人ならざるものが住む世界との境界線でもある。獣道の先にある深い闇に誘われる様に彼方へ足を踏み入れた。
 山の中は入り口で見たよりも鬱蒼としていた。それでさっきまでいた畦道の闇が月明かりのお陰で随分と浅かったのを知った。森の中は足元も覚束ない程真っ暗で、木々の間には更に濃い闇がうねうねと蠢いていた。山に棲む人はこんなに怖いものと暮らしているのだな、と古寺は思った。
 額に浮かんだ汗を袖口で乱暴に拭う。時計はしていなかったが、もう時間がないのがわかった。さっきより傾いた月を見上げ、疲れて鈍くなった足を叱咤し奥へと急いだ。
 暫くそうやって歩いていると真っ暗な闇の中にぽつんと、小さな灯りが見えた。歩を進めて行くにつれ、それが二つ三つと増えて行く。近づいてみるとその灯りは提灯で、黒く艶々と磨かれた門の柱にぶら下がっているのだった。敷地の中を覗くとその両手では抱えきれない様な柱を持つ門に恥じない、立派な屋敷が建っているのがわかった。
 しかし何故こんな山の中に立派な屋敷があるのだろう。変だと思ったが、それよりも間に合って良かったという気持ちの方が頭の中いっぱいに広がった。そうして古寺は門をくぐった。
 門を抜けると美しい庭が広がり、見たこともない様な花が咲き乱れている。芳しい香りがあたりに漂い、これまでの疲れも忘れ、暫くうっとりと庭を眺めた。鼻腔を擽る香りは梅の香だが、至るところで桃色の花びらがちらちらと舞い、地面に絨毯の様に降り積もっている。そうした所に山百合のひょろひょろした茎が出ている。風に揺れる花弁は何もかも丸呑みしてしまいそうな程大きく開いていた。甘い香りに酔いながら、ふらふらと玄関へ吸い寄せられる。
 靴を脱いだかどうかは覚えていない。気がついたら座敷に上がり、奥へと続く襖に手をかけていた。
 美しい装飾の取手に手をかけると力を入れる前に、するすると襖が滑るように開いた。畳の上には高級そうな漆の椀が載ったお膳がずらりと並んでいる。
「なにかお祝い事でもあるのかな」
 奥座敷には火鉢が設えてあって、鉄で出来た薬缶の中で湯が煮えている。もうまさにお茶を出すところといった風なのに、家の中に人の姿はない。誰か来るまで座って待っているべきかとも考えたが、結局はそのまま屋敷の中を人を探して歩いた。家中をぐるりと見て回ったが、誰もいないばかりか人がいる気配さえなかった。
 諦めて戻ってきた奥座敷では、鉄瓶の蓋がカタカタと鳴っている。湯は沸騰し、あとはただ客が来るのを待つばかりだった。
 古寺は美しく並べられたお膳を眺めた後、少しばかり逡巡し結局は下座に腰を下ろした。朱塗りの椀や盆はどれも見事な細工で、つるりとした漆塗りの向こうには自分の姿が映る程だった。この中に盛ってある料理もさぞ素晴らしいものだろう。
 蓋に伸ばした手が触れるか触れないかのその時、庭でぎゃあとけたたましく鶏が鳴いた。劈く様なその音にびくりと腕が震える。息を殺してじっとしていると、喉を引き裂かれたかのような鳴声が数度繰り返され、その後に、ばさばさと羽が打ちつけられる音がしたと思ったら、またもとの静寂に戻った。
 そこで、漸く少年は恐ろしさを覚えたのだった。
 突然夢から醒めたような心地になって、忽ちに足の裏から震えが喉にまであがってきた。それはまだこの屋敷に惹かれている心の部分へも強く訴えかけていた。この屋敷は今美しく取り繕っているが、その下には禍々しいものが潜んでいるのだ——という事が。
 それに気が付いてなおこの屋敷を去りがたい気持ちが湧いてくるのは一体何故だろう。とにかくこちらが真実に気がついた事を気取られてはならないと思った。
 走り出したい気持ちを抑えて、ゆっくり立ち上がり音を立てないように玄関へと向かう。しかしどれだけ歩き回っても玄関に辿り着けない。いくら立派な屋敷の中とはいえ、こんなには広くはなかったはずだ。
 気が動転しているからだろうか。息を潜めて辺りを伺ったが、屋敷は変わらずここに在るだけだったし、ここには誰もいなかった。耳を澄ませたが、もう鳥は鳴かなかった。
 霞んでいく視界でじいっと、座敷の畳の縁を見詰めた。眼鏡越しに見るそれは、どうやっても本物の畳にしか見えない。下を向いたせいで、顳顬から伝った汗がぱたぱたと音を立ててイグサの上に落ちた。水滴は弾けず、すうっと染み込んでいく。汗が落ちた事で、この屋敷は歓喜した。そうか、おれを喰おうとしているのだ。
 ぐぅうっと喉がなるのを止められなかった。
 突然湧き上がったはっきりした恐怖を悲鳴と共に無理やり飲み込んで奥に押し込めたせいだ。手遅れかも知れにないが、声は出さない方がいい。はっはっはっ、と短い犬みたいな呼吸をする。
 ぬるぬるとした脂汗が止まらず、何度眼鏡を持ち上げてもずり落ちてきた。震える指先に、一層気が狂ってしまえば良いのにと思った。浅く繰り返す呼吸を煩わしく思いながら顔をあげると、六尺程離れたところにさっきまで向き合っていた膳が並んでいるのが視界に入った。古寺が座っていた座布団がほんの僅かにずれている。直した方がいいのだろうか。違和感を感じて凝っと観察する様に見ていると、どうやらそこだけ陶器の湯のみ茶碗が増えていた。その茶碗からは湯気が立ち上っている。どうやら茶が入ったらしい。
 それを理解したと同時に、裸足のまま全速力で庭へ飛び出した。





 ———どさり。
 一瞬の浮遊感の後に短い衝撃が身体を貫いた。
「章平くん、大丈夫?」
 蛍光灯の眩しさに瞬きを繰り返していると、月見先輩が心配そうにこちらを見下ろしていた。喉が引っ付くように乾いていて、唾が思うように飲み込めなかった。
「ベイルアウトしてから出てこないから心配してたの。そしたら大きな音がして……」
 勝手に入ってきてごめんなさいね、と月見先輩の冷たい指先が額に触れた。熱を計るように押し付けられた手の甲が気持ち良くて自然と瞼が閉じた。
「顔色が悪いわ」
 再び目を開けて事態がやっと飲み込めてきた。月見先輩の指は名残惜しそうに頰の輪郭なぞってから離れていった。かあっと羞恥心で顔に熱が集まるのを感じた。
「その、すみません」
 穴があったら入りたいとはこういう気持ちなんだなと痛感した。回らない頭で、辛うじて謝罪の言葉を口にした。こんな風に心配された時どうしたらいいのか分からない。月見先輩はおれを安心させるように、にっこりと唇に笑みを浮かべた。
「お茶を淹れるわね」





 電気ケトルからお湯の沸騰する音が聞こえて、カチッとスイッチが切れた。目の前に湯気のたつマグカップが置かれる。いつものインスタントコーヒーの匂いがした。
「みんなが戻って来るまでまだ時間がありそうね」
 月見先輩は説明しろ、とは言わなかった。それはそうだ。おれだってなんだったのかまだ理解出来ていない。それでもなるべく簡潔に伝えられるように頭の中を整理した。話さないままではいられそうもない。ひとりで抱え込むには恐ろしすぎる出来事だった。
 まずはベイルアウト直前の記憶がない事を説明した。そして、気がついたら見知らぬ場所を歩いていた、と。山の中で大きな古い屋敷を見つけた後、屋敷の中では湯が煮えているのに人の気配がなくて怖ろしかった事も。月見先輩は荒唐無稽な話にも関わらず口を挟まず熱心に耳を傾けてくれた。それだけで随分と気持ちが解れた。あれはもう手の届かない場所にいるのだ。
 先輩は少し考えるような仕草をしてから口火を切った。
「章平くんはマヨイガって聞いた事あるかしら?」
「ええと、すみません。どういう漢字を書くんですか」
 聡いオペレーターはそれだけで、おれがなにも知らないのを見抜いた。確かに聞き覚えのない言葉だった。
「漢字にすると『迷い家』ね。山の中にあると言う幻の家よ。迷った先に現れる家だから迷い家なのかしら。私は初めて聞いた時『迷い蛾』だと思ったのだけれど。……光に吸い寄せられる蛾の様に、誘われてしまうから。その誘惑には誰も抗えないの。ふふ、冗談よ。遠野物語っていう岩手県の遠野地方に伝わる逸話や伝承を記録した本があってね、その中に章平くんが体験したようなお話があるの。それがマヨイガ」
 両手の中で珈琲がゆっくりと冷めていく。確かにあれは幻の家だろう。でも誘われるように敷地に入ったおれは灯りに集まる蛾ではなかったか。
「マヨイガは訪れた人に幸運を齎すと言われているの。その家にあるものを……、家具でも家畜でもなんでもいいから持ち帰ると良いらしいわ。ある家のお嫁さんは無欲で何も持ってこなかったら、後日お椀の方から川を流れてきたと書いてあった気がするから、章平くんにもあとからなにかやって来るかもね」
まだ逃げ切れた訳じゃないのかと、背筋が寒くなったおれとは反対に先輩はにこにこして「私も行けるものなら行ってみたいわ」と言った。
「その、マヨイガに選ばれる人ってなにか理由があるんですか?」
先輩は目を伏せて頭を振った。緑の黒髪が生き物のように揺れる。
「いいえ。行こうとして行ける場所ではないし、どうして行けるのかもわからないそうよ。この世のものではなくきっと異界の理があるのね」
「そう、なんですか」
 それでその話は終わったのだ。もしおれが行ったあの屋敷がマヨイガで、幸運を授かれるなら嬉しいと思う。
 だけど。
 戦慄が背中を走る。
 あれは、そんな良いものじゃなかった。もっと不気味で忌々しいものだった。もしも屋敷の物に触れていたら取り返しがつかない事になっていたに違いない。
 古寺章平はあれを禍つ家だと思った。
                          <第一夜 マヨイガ/了>