第二夜 莠亥相逕サ





 奈良坂透は夢を見ていた。
 夢を見ながら夢だと認識したのは初めてだったが、それ以外の可能性を思いつけなかった。気が付いたら自分の記憶にはない家の台所に、一人で立っているなんて事があるはずもない。しかも、ここへどうやって来たのかもわからなかった。突然、砂漠に投げ出されたみたいに途方に暮れた。夢など普段見ないので、勝手がわからなかった。いや、夢にルールなどあるものか。そう思ったら不安に思っていたのが馬鹿らしく思え、自嘲する笑いが口元に浮かんだ。
 落ち着くと、自分が裸足なのに気がついた。台所のビニールの床材は油でベトベトしており、所々に野菜の屑や埃が落ちている。この家の住人はあまり掃除をしないらしい。足が汚れるのも嫌だが、直接床に足をつけていると寒くて風邪を引きそうだと思った。夢なのにそんな事を思うのも、やっぱり可笑しい。スリッパが欲しかったが夢とはいえそう都合よくいかないらしい。いつも履いているブルーグレーの室内履きを思い描いてみたが、冷たい床の上にはいつまでも自分の素足があるだけだった。
 ここまで裸足で来た訳ではないと思うのだが、近くに自分の靴らしいものは無かった。それによく見ると寝間着を着ていたので、夢の中の自分と言うのは寝た時の格好のままなのかも知れない。
 古そうな冷蔵庫の横に、真っ黒に汚れた二口のガスコンロがある。流しの中には汚れた茶碗や箸が水に浸かっていた。誰か住んでいるらしい。鉢合わせしたらどうなるのだろう。勝手口の前には生ごみでも入っているのか、饐えた臭いのするレジ袋が二つ置かれている。あまり近寄りたくないが、ドアが開けば外に出られる。そう思い勝手口の扉を揺すってみたが、ガチャガチャと音が鳴るだけで開きそうにもなかった。脂っぽいぬるっとするドアノブから手を離して短い間考え事をする。どうにも長く滞在したくない場所だ。従姉妹の玲が話す、空を飛べる夢の様な心地良さも無く、陽介が話す自分が死ぬ夢(これは吉兆らしい)の様な波乱万丈なストーリーもない。ただひたすらに薄気味悪さが続く夢に、早く目を覚したいと思った。

 した、した、した。
 自分の足音だけが聞こえる。家の中は台所と同じ様に荒んでいて、そして異様なほど静かだった。耳をすませてみても外の音、車の走る音や風で木々の揺れる音、話し声だけでなく他人のたてるちょっとした物音すらしない。この世界にはこの家だけしか存在してないみたいだった。
 台所の横には食品貯蔵庫の様な部屋が付いていて、その他に扉がふたつあった。開きっぱなしになっている方へ進むと二階へ進む階段とお風呂場とトイレがあるのが見えた。磨りガラスの引き戸を開けると、黒っぽい石を敷き詰めたタイルの浴室があった。ステンレスか何かで銀色の小さく深い浴槽が、古い湯沸かし器に繋がっている。窓は薄く開いていたが、小さくてそこから出る事は出来なさそうだった。壁に掛けられた鏡は水垢がこびりついており、湯気も立っていないのに曇っていた。朧げに映る自身の姿は偽物みたいに見えた。
 室内はどこも埃っぽく黴臭かった。なんの期待も込めずトイレの扉を引くと、思ったより新しい水洗トイレが設置されていた。窓の下には農機具の大手メーカーの社名が入ったカレンダーがぶら下がっていた。日付は奈良坂の認識しているものと相違ない。
 二階には上がらずに、台所にあるもうひとつの扉から行けるだろう部屋に向かうと、そこは思った通り客間と居間が一緒になった様な部屋であった。黒いテレビが置いてあり、テレビ台にはぬいぐるみや人形などが秩序なく飾られていた。窓には模様の入ったガラスがはめられ、十字の星型に懐かしさを感じた。昔祖父の家にあったのもこれでは無かった。窓からは西日が赤赤と差し込んでいた。
 再び居間に視線を戻すと部屋の中には、子どもがいた。
 卓袱台の上で何かしているらしい。ここからだと畳の上にぺたっと座っていることしかわからない。その背中に近づくと、机の上に何枚も画用紙を広げ、その中の一枚に絵を描いているようだった。
「お前はこの家の子か」
 丸い後頭部に向かって話しかけたが、余程集中しているのか、その子どもには声が届かなかったらしい。その証拠にクレヨンを持った手を止めることもこちらを振り返ることもなかった。仕方がないので暫くその様子をぼうっと眺める。お世辞にも上手いとは言えないその絵は、どうやら生き物を描いているらしいのに気が付いた。紫で描かれた四本足の動物に愛らしさはない。何か食べているところなのか、口元にぐにゃぐにゃしたものが描かれている。
 それは水たまりか、吐瀉物のように見えた。それを見て奈良坂は気持ちが悪くなった。
 目も鼻もない動物を描き終わった子どもは、画用紙の空白の部分に数字のようなものを黒色で書き足した。
「1、1、千?」
 奈良坂は最後までその絵を理解する事は出来なかった。子どもはやっと彼を振り返ってから「にやあ」と笑った。

 そこで目が覚めた。
 夢の後味の悪さがまだ身体の回りに纏わりついていた。夢を見る事も稀だが、こんな風に夢の余韻を引き摺っているものまた珍しい事だった。
 デジタル時計は、いつもの起床時間よりまだ一時間も早い数字を表示している。もう一度目を瞑っても良かったが、あの夢の中には戻りたくなかった。キッチンに飲み物でも取りに行こうとしてベッドから降りた時、勉強机に昨日の夜はなかったものが見えた。普段あまり動揺しても表面に出す事はないのだが、踏み出す足が震えているのに気がついた。
 それを見たくない。今すぐこの部屋から出て行って二度と戻って来たくない。安心をもたらしてくれる家の、更に自分の部屋でこんな感情を覚えるとは思わなかった。それともまだ夢の続きを見ているのか。
 奈良坂は叫び出したいのを抑え、机にある画用紙に手を伸ばした。整頓された勉強机には不釣合いの大きな画用紙。それには紫のクレヨンで歪な生き物のイラストが描かれていた。
 喉を迫り上がって来るのは、悲鳴か、それとも。
 目の前で子どもが薄気味の悪く「にちゃあ」と笑った気がした。







「奈良坂先輩っ!」
 踏み出した足が宙を蹴り一瞬の浮遊感の後、景色がスローモーションになる。その後に来るであろう衝撃に耐えようと身体を固くした時に、強い力が奈良坂の腕を引いた。
「……章平か、悪いな」
 間一髪落下する前に階段の踊り場に引き戻された奈良坂は、呆然と眼下を見下ろした。謝罪を口にしたまま動かない奈良坂の代わりに、古寺は散らばった教科書やノートを拾い集める。余計な物を持ち歩かない師匠の私物の中にひとつ場違いとも言えるものがあった。落書きと言って差し支えないだろうそれは、鞄にそのまま入れるには大きいのに広げたまま階段下に落ちていた。画用紙にぼこぼこと描かれる赤や黒、紫の線。ぐちゃぐちゃと斑らに塗り潰されるそれは威圧感さえあった。
 ぼうっとしたままの先輩はどうやらそれに気を取られているらしい。弟がまだ小さい頃はこんな風な絵も日常にあった気がするなと思い出した。そういえばクレヨンっていつから身の回りから消えてしまったんだろう。小学校へ上がるともっと細かい部分が描けるように色鉛筆やクーピーに取って代わられて、絵の具で色を作るのを学ぶのだ。いや、そもそも彼の兄弟はお姉さんだけだったはずだ。
「先輩が描いた——訳じゃないですよね」
「いや、俺にもわからない」
 半分冗談で言ったものの奈良坂の反応は予想とは違った。と言ってもおれは、そんな訳ないだろうと一刀両断されたかったのか、これは米屋先輩の誕生日プレゼントとして描いたものだと巫山戯て欲しかったのか。
 しかし奈良坂先輩にも分からないとは、どういうことなんだろう。最近奈良坂の体調が芳しくないことに関係があるのだろうか。踏み込んでいいのか。この先輩は自己管理をしっかりするタイプだし、必要ない事は口にしない。彼が話したくないと思っているのならば、無理に聞き出す訳にもいかないと思っていたのだが、そうも言っていられないだろう。先ほど自分が腕を掴み損ねていれば階段の、それもかなり高い位置から落ちていたのだ。そうしたら大怪我どころではない。教科書やノートが散らばったさっきの場所に倒れる彼を想像してーー背筋が寒くなった。生身の人間は簡単に死んでしまう。縁起でもない映像を頭を振って追い出し、深く息を吐いた。
「隊室で少し休んでから帰りましょう」
 古寺は残りの荷物を手早くかき集めると、血の気の引いた真っ白な顔で立ち尽くす冷たい男の手をしっかりと掴んだ。

「あら、二人ともまだ帰っていなかったの。三輪くんと米屋くんならもう帰ってしまったわよ」
 作戦室にはまだ月見さんが残って作業をしていた。彼女は入って来たっきり口を噤んだままのおれ達に、困ったように笑いかけてからお湯を沸かしに席を立った。
 座敷に腰を下ろすと、遠くで夕方のチャイムが夕焼け小焼けを奏でているのが聞こえた。普段は聞こえないので明日は雨が降るのかもしれない。最近急に寒くなったので、雨は嫌だなと思った。   



 「最初は良くわかってなかった」
 机の上には画用紙が一枚ずつ綺麗に並べてあって、奈良坂はそれを前に話はじめた。古寺は月見が淹れた緑茶をひとくち飲んで奈良坂を見た。
「気がつくといつも知らない家の中にいるんだ。いや、夢の中で目が覚めるって言った方が正しい。それは湿った木と埃の混ざった臭いがする家で、畳は日に焼けて色が褪せている。そんな古くて生活感のある家だ。
部屋数は少なくて人の気配はしない。けれど俺は居間子どもがいるのを知っている。何故かって、そいつは俺を待ってるんだよ。ずっとそこで俺を待ってる。そいつに会わずに帰る事は出来ない。
だから俺は仕方なくそいつの居る部屋に向かうんだ。それで、歩くと床が鳴るんだ。した、した、したって。
 それは自分の足音だって分かっているのに、音がすると凄く嫌な気分になる」
 口火を切った奈良坂は、自分で記憶を確認するようにゆっくりと話した。そして古寺は納得する。だから最近矢鱈に背後を気にしていたのだ。他人の足音が夢の中を彷彿とさせるのかも知れない。
 そして夢のせいで、あまり眠れてないのだろう。あくまで淡々と話す先輩の精神力に尊敬した。睡眠不足は三日も続けば身体の機能に異常をきたすし、脳の判断能力や思考プロセスを低下させる。
「その子どもにも見覚えはない。男なのか女なのかも、わからない。おかっぱで目がぎょろぎょろとしている。ああ、赤いストラップのついたスカートを履いていたから女の子か。別に、危害を加えられる訳じゃない。ただ画用紙に絵を描いて、それを俺に見せるんだ。にたにたと嬉しそうに笑いながら……。
 それで朝起きると机の上にちゃんとその絵がある。それが何度か繰り返された」
 その絵と言うのが目の前にあるこの絵なのだろう。これが、もっと明るい色がたくさん使ってあるのびのびとした子どもの絵ならばどんなに良いだろう。実際に並べられた絵は、色と線の歪みが酷くて直視するのさえ躊躇わせる。どういう意図で描かれた絵なのかすら分からない。

「でもそれで終わりじゃないのよね?」
奈良坂は月見を見て頷いてから話を続けた。
「夢で見た絵が机にあるくらいなら別に良かったんです。気持ち悪いですが実害がないわけですし。最初の、その紫色の動物の絵が一枚目なんですけど、一応どういう絵なんだろうって何日か考えてて。四本足で耳がある紫色の動物ってなんだろうとか、黒い数字は何を表しているのか?とか。数字に見えるだけで動物を囲ってる柵とか背景なのかとか色々。でもわかんないですよね?子どもが描く絵って抽象的ですし」
 奈良坂は一旦口を噤むと、躊躇うように視線を彷徨わせた。
「ちなみにその絵は捨ててもダメでした。いつの間にか戻って来るんです。まあ、そこまでは予想通りでした」
 それだけ投げやりに言うとひと呼吸置いて口を開いた。今度は気が動転しているような、勢いだけで話しているような雰囲気に変わった。
「でも数日後のある日、学校からの帰っている途中で近所の家が騒がしいのが気になったんです。自宅からひとつブロック手前の場所です。……道路の脇にU字を書くように、住宅地があるのってわかりますか?そこの手前の家がかなり慌てている感じで。
 普段は家の周りに低い柵があって、薔薇とか朝顔とか綺麗な花が咲いてる様な普通の家です。歩いているとそこの家の犬が柵に寄って来るんですよ。その犬の小屋は反対側にあるので、リードが許すギリギリまで走ってきて尻尾を振ってる人懐っこい犬が居るんです。俺は通り過ぎるだけなんですが、毎回寄ってくるんです。
 それで、その家のお母さんと娘さん、だと思うんですけど、が叫んでたんです。それでどうしたんだろうと思って立ち止まったら、その家の開きっぱなしだった門から庭が見えて……。その時はいつもの犬が居ないなって思って。多分雑種ですかね?茶色っぽい毛で、まだそんなに年とってないと思うんですけど。その犬が奥で震えながら何か吐いてるんですよ。それをお母さんと娘さんが抱きしめたりさすったりしてて。お父さんが病院か何かに電話してました。それで、ああ犬が具合悪いのかな可哀想だな、とか変なものでも食べたのかとか大丈夫なのかなと思って。でも手伝える事がある訳じゃないし、このまま野次馬みたいになるのも嫌だったので、通り過ぎようと思ったんです。
 そしたら娘さんが叫ぶんですよ。『ハチっ!しっかりして!ハチ!!』って。
 ……それで俺理解したんですよね。この絵の数字見えるやつはカタカナでハチって書きたかったんだって。多分あの子どもはまだ字を習ってなくて。見様見真似で書いたんですよ。だから俺には1、1、千って書いてあるように見えた」
 そこまで一息に奈良坂は喋った。普段あまり口数が多くない彼に違和感を覚える暇もなく、古寺は前にある一枚の画用紙に釘付けになっていた。そして、ああ、この紫色の獣がハチなのだと思った。
「奈良坂くん、この中で一番新しい絵はこれ?」
 月見先輩がほっそりとした指で示したのは、人間と思われるものが頭と胴体のところで千切れている絵だった。真っ赤なクレヨンで描かれたそれは首のところが真っ赤に塗りつぶされていて、そうじゃなければ人間が寝ているよう見えたかもしれない。
 余白には1ー1十11とある。いや今の奈良坂先輩の説明を聞いたらそれは———カタカナで「トオル」と書いてあるようにも見える。だがそれは穿った見方だろうか。そもそも夢や怪異に整合性を持った考え方が通じるものだろうか。そう、冷静に思考する脳とは別に身体の中をぐるぐると回るものがあった。
 古寺はその時湧き上がった感情がなんだかわからなかった。怖くて悲しくて、腸が煮えくり返りそうになって、悍ましくて、胃の中のものが逆流してくるのがわかった。
「そうです。俺の名前があるやつです」
 月見先輩が難しそうな顔をして画用紙と奈良坂先輩の顔を交互に見た。おれは冷たい水で口を濯ぎたくなったので、流しへ立つ。眼鏡を外して顔を洗いながら、背中で二人の会話を聞いていた。
「私が思ったことを話してもいいかしら?」
「はい」
「私はその絵を奈良坂くんが描いたと思っているわ。そうじゃなきゃその絵がある説明がつかないから」
「俺も……そうじゃないかと思っています」
 古寺は月見の考察にかなり動揺したが、奈良坂は割とあっさり同意を示した。その二人の落ち着いた様子を見て確かに現実的な解釈だと思った。他人が寝ている間に奈良坂の部屋へ侵入してその不可解な絵を置いたり、その絵が本当に夢から召喚されると言うよりは。実際それくらいしか可能性はないと思うのだが、奈良坂が無意識にそれを描いているのだって十分怖い、と古寺は思った。
「描いたときの記憶がない理由はひとつに絞れないのだけれど、それについては一旦置いておきましょう。奈良坂くん予告画って聞いたことある?」
「いえ、予知の一種……ですか?」
「私も専門ではなくて詳しくないだけれど、心理学の分野で絵を使って心理分析することがあるの。その研究書のひとつで『描画心理学双書7原色子どもの絵診断辞典』という本があってね。その中に予告画という話が載っていたのを思い出したの。確か開いてすぐのページにちょこっと載っているだけで、それ以降予告画の研究はされていなそうだったから、信憑性があるのかは分からないけれど。それでも、私は奈良坂くんのそれは予告画に類似するものかなと思ったわ」
奈良坂は頷くだけで先を促した。
「それでね、その絵の解釈なんだけれど。奈良坂くんの身の周りで起こり得る危険を知らせているんじゃないかなって思って」
絵は実際に現実にそれが起きる前に描かれているので、そう解釈出来なくもない。それにしては不親切な気がすると古寺は思った。どちらかと言うと、呪いじゃないのか。どちらにせよ、新しい絵に描かれている事が現実に起こる前に対処しなければならない。予知だろうが呪いであろうが、このままだと奈良坂先輩の首と胴体が真っ二つになってしまうのだから。キュッと音を立てて蛇口を強く閉めた。
「それで、危険回避するための提案がひとつあるの……。章平くん、この辺で椿が咲いているところを知らないかしら?」
「え?」
 ハンカチで手を拭きながら戻ってきたおれに、月見先輩は花が綻ぶように微笑んだ。







 奈良坂はベッドのサイドボードに椿の花を枝ごと差した花瓶を置くと、リビングにあるソファーへと横たわった。眠ってしまいたかったが、嫌な動悸がして一向に眠気はやって来なかった。あんな落書きを見たくらいで”死ぬ”とは思えないけれど、拭えない恐怖がずうっと張り付いてた。寝不足で瞼がじんじんと熱い。ぼんやりと痛む頭で、家中の戸締りを確認した。これは夢を見始めた時から癖になっていて、何度も確認しないと目を閉じることさえ出来ない。安全であるはずの家が隙間だらけに思え何かが侵入してくる恐怖が付き纏った。身体が怠く睡眠を欲しているのは分かったが、身体を横たえると目が冴えてくる。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 時計の秒針の立てる音だけが聞こえる。音が途切れる事は無かったのに、いつの間にか短く眠っていたらしい。トイレにでも起きたのであろう姉に「こんな所で寝ていると風邪を引く」と揺り起こされ、朝が来たことに気がついた。まだ人間が活動するには早い時間だが、太陽が登り始めたのをこの目で見た。多分、今日は乗り越えられたのだろう。
 奈良坂は二階の自分の部屋に向かった。念の為扉には誰かが開けば跡が残るように細工をしておいた。開く前に確認すると昨日誰もこの扉に触らなかったのがわかった。何だ、やはり心配する必要はなかったのか。随分と心配を掛けた後輩に連絡でも入れてやろう、そう思ってドアを開けた。花瓶を片付けたら何をしようか。久しぶりに二度寝をするのも悪くはない。何せ今日は休日なのだから。しかし、奈良坂はそれ以上部屋の中に足を踏み入れる事が出来なかった。枕まで引き上げられていた掛け布団が跳ね除けられている。サーっと自分の血液が下がって行く音がして視界が歪んだ。
 目の前が真っ白になる前に、鋏かなにかで枝からばっさりと切り落とされた椿の花と、ズタズタに切り裂かれたシーツが見えた。その上には、真っ赤な花びらが血痕の如く散らばっていた。
                                       <第二夜 予告画/了>