第三夜 驥弱′縺医j





「いつもに増して顔色悪くね?」
 少し離れた位置で待機しているはずの陽介から無線が入った。視線は前へ固定されているので、仕事中だというのは理解しているらしい。ヘッドホンの内側に別の声が混じっていて、内容を理解するのに少し時間がかかった。
「陽介、任務中だ。集中しろ」
 そのせいで少し返答が遅れたが、違和感は伝わってしまっただろうか。誰も喋らない静かな中で無線がザァ、ザァ、ザァ、と鳴った。段々と大きくなる音に、どうやら彼女が近づいて来ているらしいのが分かった。ちらりと背後を窺っても、人影は無くいつも通りの警戒区域内だった。あの日から変わってしまったのは俺の方なのだ。チッと無意識に舌打ちをしてしまう。それに反応してか陽介がまた何か喋っているのだが、何かを引き摺る様な音のせいで、今度は聞き取れなかった。背後を振り返って見てもそこには誰もいない。顔を上げると太陽を直視してしまい目が眩む。太陽の残像が残る視界で下を向くと、黒々とした影が前方にくっきりと映っているのが見えた。今日は日差しが強い。強い光を見たせいか、足元から伸びる影は身じろぎをしていないのにゆらゆらと動いた。それに合わせてまたザァと音が鳴る。トリオン体なのに酷く寒い気がした。どうしてこの音は自分だけにしか聞こえないのだろう。そうであっては欲しくないが、これは俺の頭が作り出してしまった幻聴なのか。孤月を自分の首筋にひたり、と当てる。
 その時とても近くでザァ、と地面の擦れる音が聞こえた。

「三輪くん、もし良かったら話してくれる?」
 防衛任務中、自分で首を刎ねてベイルアウトした三輪に月見は優しく寄り添った。シフトを交換するまでまだ一刻ほど時間がある。幸い三輪隊が担当していた地区にゲートはそれほど開いては居なかったので、後の三人が上手く処理をするだろう。冷静に分析出来る思考が残っているにも関わらず、三輪は月見に説明すべき事がわからなかった。作戦室に戻って来たのに、ここもやっぱり寒い。三輪はただ月見の目を見返した。
「ごめんなさい。言い方をかえるわね、それはなにか言っているのかしら」
 それならば答えられると三輪は安堵した。彼女は遠くからやって来ては、同じ言葉を繰り返した。最初は啜り泣きの様だったそれは、三輪の知らない言葉を何度も彼に訴えた。
「いづことか———」
 耳元で聞こえる声に耳をすます。
 その声は誰かに似ているような気もしたし、はじめて聞くような気もした。そんな高くて低くて懐かしい気持ちがする不思議な声色だった。
「え?」
 カラカラに乾いたせいで喉が引き攣った。もう一度ゆっくりと言い直す。
「いづことか 音にのみきくみみらくの しまがくれにし人をたづねん」
 亡者はそう繰り返していた。







 薄の野原を抜けた風が、濃紺の深い夕闇へ吸い込まれていく。いつの間にこんなに日が暮れたのだろうと三輪は思った。茜色に染まった墓地がぬらぬらと光る。
 月命日の墓参りは欠かさないけれど、何となく思い立って来たのははじめてだった。手ぶらで来てしまったので時刻を確認できるようなものが何もない。制服のポケットにはボーダーのトリガーがあるだけだ。
 耳元を風が吹いて通り抜けて行った。そこで気が付いた。誰もいない。思えばここへ到着したから他人の姿を見ていなかった。元々賑やかな場所ではないが、何だか時が止まっているみたいに感じた。いつも夕方に鳴るチャイムはもう鳴り終わったのだろうか。隅に重なった落ち葉がカサカサと音を立てて巻き上がった。
 どのぐらいそうしていたのか、太陽は完全に沈みひとつ先の墓石の影も見えなくなってしまった。夜になる前に帰ろうと仏石に背を向けて歩き出した時だった。名前を呼ばれたような気がして立ち止まる。
「   」
「……姉さん?」
それは確かに女の声だった。しかし振り返って見てもそこには暗闇が在るだけで、三輪の声さえもその夜の闇に吸い込まれてしまった。

その時から————。

 三輪は夢の中で、己をじっと凝視めてくる視線を憶えるようになった。それははじめ離れた場所から俺の名を呼ぶだけで、それ以上近づいてくることすらしなかった。遠く離れた所から耳朶に響く幽かな声。
 それは段々と現実の世界で、形を持つようになってきた。相変わらず存在するだけではあったが、背後を付いて歩くようになった。そしてついてくる時に足音がするようになった。そのうちずっと足音が聞こえてるようになって、それで眠れなくなった。眠る時にイヤホンをつけて音楽を流してみても、その音を追い出すことは出来なかった。彼女はどこを歩いているのだろう。陽介に勧められたアップテンポなポップスもノイズが混ざってテレビの砂嵐のようだった。俺はここから動いていないのに、どうしてずっと歩いているのだろう。

 ざぁ、ざぁ、ざぁ、と自室の扉の向こうを歩いている音がした。家の中に入ってきたのははじめてだと思った。そしてそれは急に言葉を口にした。念仏みたいな低く抑揚のないそれを意味のある言葉として聞き取るのは難しかった。しかし眠れない夜の長い時間をかけて繰り返し繰り返し聞くうちに歌になっているのに気が付いた。

 それは「いづことか音にのみきくみみらくのしまがくれにし人をたづねん」と歌っていた。







「まずはじめに言っておくわね。三輪くんも勘違いはしていないと思うけど、それはお姉さんとは全く関係ないものよ」
三輪は小さく頷いてから、真っ直ぐに月見の瞳を見返した。
「でも三輪くんがお姉さんだと思って振り返っちゃったから、憑いてきたのね」
月見は優しく諭すように言った。
「まず一つ目。みみらくというのは亡くなった人に会えると言われている島よ。日本の古くからある民間信仰では空間や時間の特徴的な部分、例えば山や滝、水平線みたいにそれがある事によってがらりと風景が変わる場所に神域が存在しているとされているの。そしてその境目が死後の世界とこの世界を分けていると考えられていた。それで海の向こうには死後の世界があって、海岸から遠く離れた所にある島であるみみらくは、私たちが生きている場所よりずっと死後の世界に近い場所だった。だからそこに行けば亡くなった人の霊魂に会えるのだとされたの。
 二つ目は、言霊信仰についてね。日本は言霊の助くる国、すなわち言と事の区別が薄くて言葉にして発すれば実現するって信仰があるの。だから悪い事は口にしない文化なのよ。よく縁起でもないって言うでしょう?言葉にすると本当にそれが現実に起きてしまうから言わないのよ。ええと、それでそう。その憑いてきてしまった彼女は三輪くんに言って欲しかったんだわ。———会いたいって」
「で、でも三輪先輩は何も言わなかったですし、その影響?みたいなのはないんですよね?」
 防衛任務が無事に終了し作戦室に戻って来た三人は、三輪と月見の真剣なやり取りをただ見守っていた。三輪がここ数日心ここに在らずなのは全員が気が付いていたが、原因が心霊現象だとは思わなかった。口を挟める様な内容でも無かったので、ずっと黙って聞いていたがついに古寺が口を開いた。他の三人は黙ったままだったが、そもそも古寺以外には幽霊である彼女の繊細な心の機微は理解できないかもしれない。
「そうね、歌自体が”いつか行って会ってみたい”という内容だし、こんなに言葉が溢れた現代で言霊は機能しないと思うわ」
「よかった」
古寺が肩の力を抜いて深く息を吐いた。張り詰めていた空気が緩んで、いつもの作戦室の雰囲気が戻ってくる。三輪先輩が自身に刃を突き立てた時は動揺したけれど、問題が無いのなら良かった。各人が話の終わりを察しておのおの飲み物に口をつけた。古寺は少し冷めたカップに口を付けると、小骨が刺さった様な違和感を感じた。えっと、問題は無くなったんだよな?
「でもさあ、」
米屋が寄りかかっていた背もたれから上半身を起こして言った。
「それなら待ってないで自分から行けばよかったんじゃね?」

 ザァ、ザァ、ザァ、と音がして今日の降水確率は低かったのになと思った。