暮れ六つ 陲悶b縺弱&繧





 葛の花から甘い香りがする。割とどこにでもあるはずなのに、久しぶりにこの香りを嗅いだ気がする。葛の花は藤の花のような濃い匂いで蒲葡色の花が美しい。くるんと巻いた蔓が花瓶の縁に絡んでいた。
「月見先輩ははどうして民俗学を勉強しようと思ったんですか?」
何となく浮かんだ疑問はするりと口から溢れた。菊の形をした練り切りを懐紙の上に置いた月見が、首を一寸傾けて考えるそぶりをすると唇をわずかに動かした。それに合わせて揺れる緑色の黒髪が美しいと古寺は思う。
「蓮さーん、このコップって使っていいやつ?」
「もちろん、でもせっかくだから来客用のでお願いできる?」
「米屋了解〜〜」
月見がスッと立ち上がった後、作戦室の扉が開いて奈良坂と三輪が戻ってきた。
「いい香りだな」
「お、ナイスタイミング。秀次、これそっち」
茶器を受けとった三輪が腰を下ろして、手を洗った奈良坂がその隣に座った。
「うお、すっげ〜。蓮さんこれ食べ物?」
ぎゅうぎゅうになりながら五人で卓を囲む。
「練り切りっていう和菓子の中でも上生菓子って分類のお菓子なの。形は季節に合わせて変えるのよ、とっても可愛いでしょう?これが紅葉でこれが桔梗、こっちが秋桜、菊、照葉」
くすくすと楽しそうに笑う唇を指先で隠しながら説明をした。
 部屋の中には緑茶の香りと花の香りが広がっている。こんなに色とりどりのお菓子なのに、なんの匂いもしないなんて、まるで椿の花だなと思った。



「今はあまり言われないかもしれないけれど、タブーとされている慣習というかしきたりみたいなのってあるでしょう?」
お茶とお菓子で胃の中が満たされたのを感じながら月見が口を開いた。
 三人の先輩たちは突然の話題についていけないようで口をつぐんだままだったが、古寺は先ほど自分が質問した問いの答えだと理解した。
「えーっと、新品の靴は家の中で履いてそのまま外へ出てはいけない……、とかですか?」
暫し記憶の中をさらったのち思い出した例をひとつあげてみる。見当は外れていなかったようで月見先輩が頷きながら続けた。
「抜けた髪や切った爪を囲炉裏や火鉢の中へ入れて燃してはいけないとか、ひとつの食べ物を二人で二膳の箸を使って持ってはいけないとかも章平くんが言ったものと同じタブーね。葬送で実際に行う動作や火葬、骨上げを連想させるものは日常には持ち込まないように忌んでいることが多いの。それだけ死を怖れてたのね」
そこまで話が進んでから合点がいったのか米屋は「あ〜っ」と大きな声をあげた。
「婆ちゃんが服着たままボタンとかつけるのはダメだっていうやつ!」
「ああ、脱いだって三回言うあれか」
米屋の台詞に奈良坂も頷きながら同意を示した。三輪はなにかを考え込むような仕草をした。
「出針ね。勿論それには注意喚起という意味もあるんでしょうけど、そういうのが親から子へ受け継がれて行くのって……面白いでしょう?人間が生きてきた歴史が見える様な気がして」
月見の言葉は古寺の腹に落ちた。古いものを知るのは新しいことを知ることなのだ。
「確かに。災害が多い土地が禁足地になったり、神様が祀られたりしてたのも土地の名前として残ってたりしますもんね」
「ええ、蛇の文字が入る土地は水害が多いとかね。色々とその当時の歴史や解釈がわかると面白いの。そこにいた人々が後世に残そうとしたものがあるなら知りたいじゃない。でもそれだけなら大学で専攻しようとまで思わなかったと思うわ」
月見が困ったように眉を下げた。
「ひとつだけ、実際に自分で見たものなのにどう解釈したらいいのかわからないものがあって。だから私ずぅっと調べているの」
スッと太陽が雲に隠れるように部屋の中が一段暗くなったように感じて三輪は伏せていた目線をあげた。
「少し話が長くなるのだけれど聞いてもらえる?」
 月見がそう言ったので古寺は膝の上でぎゅっと手を握り締めながら何度も頷いた。ありがとう、と前置きをしてから彼女はなめらかに語りはじめた。
「小さい頃はよく離れたところに住んでいる祖父母の家に泊まりにいっていたの。自然に囲まれていて空気の濃いところ。私はそこが大好きで、長い休みが待ちきれなかったくらい。だって美しい川には魚がいっぱい泳いでいるし、見たことのない花や虫がたくさんいるんだもの」
米屋は月見の語る彼女の少女時代———どうやらお転婆だったらしい、を想像しながらさすが太刀川さんの幼馴染だけはあるなあと思った。
「祖父母の家に行くと必ず約束する事があったわ。外で遊ぶ時には他の家の田畑に入らない。山の奥へは大人と一緒に行く。川には一人で行かないない。なんて子供の私でも理解出来るような危険な場所に関する注意事項の他に、ひとつだけ不思議な約束があったの。それは『袖もぎで転んでしまったら必ず片袖を置いて帰る』というものなの。袖もぎっていうのは地名よ。ちなみにそこは、坂道だとか祠があるとか注連縄が張ってあるとかそういう見た目にもわかる異質性は全く無いの。本当にただの道」
 幼い月見はいつも不思議だった。祖父母の家には神棚や祖霊舎があったが彼らがとても信仰深いかというとそうでもなかったからだ。毎日神棚と仏壇にご飯を備えてはいたしお盆に墓参りもする。しかしあくまでそれは習慣のようで作法には頓着していなかった。
 祖母は新しいものが好きで時代に合わなくなったしきたりより便利なものを好んでいた。
 それなのに。
 袖もぎで転んだら必ず片袖を置いてきなさい、そうしないと袖もぎさんに捥がれてしまうから。そうなんども月見に向かって繰り返した。
 洋服の袖はそんな簡単に千切れるものなのか、袖もぎさんとは一体なんなのか、言い付けを守らねば何がもがれるのか。次々に湧いてくる疑問を祖母に問うことは出来なかった。幼い自分に諭す祖母の表情があまりにも真剣で恐ろしかったからだ。
 そんな事があったので最初は袖もぎを避けて遊んでいたが、日が経つ内に段々気にならなくなってきた。近所の子供たちと知り合いになってから気がついた事だが、彼らは別段その場所を怖れていないようだった。それで、月見もわざわざそこを避けることはしなくなった。
 だるまさんがころんだをするのにうってつけの木がある空き地も、きれいな石が拾える浅い小川にも袖もぎを通って行くのが一番近いので、月見も彼らと一緒にそこを通るようになった。それでも彼らのように走ったりふざけたりしながら通る気には流石になれなかった。それは勿論、祖母が言った事がまだ胸の奥に引っ掛かっていたからだ。
 転ばないようにしっかり足元を見ながらゆっくりと歩く月見に、自分より小さい女の子が「どうしてゆっくり歩くのか」と問う。月見はどう答えたらいいのかわからなくて曖昧に微笑むしか無かった。



 「その日は足首までしか水位のない湧き水が流れる細い川で五人で沢蟹をとっていたの。とっていたと言ってもバケツに入れる側から逃げていくので一匹も捕まえられなかったのだけれどね。月見は海以外に蟹がいることにびっくりした。それで夢中になり過ぎたのね。スカートを捲って濡れない様にしながら、その小さな蟹を追っているといつの間にかひとりぼっちになっていたの。驚いたし悲しかったわ。今までも遊んでいる最中に帰っていく子がいなかった訳ではないけれど、何も言わずに全員に置いていかれることなどなかったのよ」
 誰もいない川の中で立ち尽くしていると、背後に広がる山の中でひぐらしの鳴き声が響いていた。今にも「あっちに大きな蟹がいたよ」と誰かが自分のところへ駆け寄って来るのではないかと思ったが、月見を呼ぶ声はしなかった。暫くその場でじっと立っていたが、自分以外の人影はひとつも見つからなかった。
「急に違う世界に迷い込んだ様に感じて、すごく怖かった」
 まだ日が沈むまでに時間があったけれど、その物哀しい鳴き声に背中を押されるようにして少女は祖父母の家へと走り出した。少しでも早く帰りたかったけれど、袖もぎの辺りまで来てから月見は速度を落とした。
 そんなに距離はなかったはずなのに、既に日が傾いている。いつも見ている夕焼けの景色なのに、血に濡れたみたいに真っ赤だなんて思った。それで遠回りしないで袖もぎまでやって来たのを後悔した。時間が掛かったとしても迂回すれば良かったと感じるほど、そこは嫌な気配がした。
 それは幾分思い込みだったにしても月見を尻込みさせるには十分だった。いまから戻って遠回りすると家に着く頃には真っ暗になってしまうかも知れない。夕方の山から吹く風が、汗ばんだ体を冷やして行く。
 月見は袖もぎを走って通り抜けることにした。袖もぎを越えたらすぐに家なのだ。
 一度しゃがんで、転ばないようにサンダルの留め具をしっかりと留め直して深呼吸をした。これで大丈夫。真っ直ぐで見通しの良い道だし、しっかり前を向いて歩けば転ばない。それにさっきまだって普通に走って来たんだから。そうやって自身を鼓舞して目の前の道へ足を踏み入れた。走り出してすぐ何もないことがわかってほっとした。やはり自分は神経質になっていたらしい。
 肩の力を抜いて袖もぎを通りすぎるところで誰かに呼ばれた。もしかしたら、みんなは山の中に入っていて居なくなった月見を探しに来たのかも知れない。そう思って振り返った時に何かに躓いてバランスを崩した。
 ザァっと砂を擦る様な音がして、手のひらと膝を強かに打った。土ぼこりが舞う中、あたりを見渡しても道のどこにも人影はなかった。じゃあいま聞こえた声はなんだったのか。
 ゾッとして月見は立ち上がってすぐに家に向かった。恐怖で頭がいっぱいになっていて、祖母の言いつけを思い出す暇もなく、ただその場から逃げなければいけないと思った。
 鍵の掛かってない横すべりの玄関ドアを開けて中に入ると足の力が抜けて涙が出ていた。奥から出迎えて出て来てくれた祖母は怪我をした痛みで彼女が泣いているものだと思い優しく手を引いて怪我の治療をしてくれた。とは言ってもほんの少し擦りむいただけで、絆創膏もいらないような傷だった。それでも労るように甘いものや温かい飲み物を用意してくれた祖母に、月見はじんわりと身体から怖ろしさが抜けていくのを感じた。
 おかしいと感じ始めたのは夕食をとっている時だった。左の二の腕が前触れもなく痛み出したのだ。遊んでいた時も転んだ時もそんなところをぶつけた記憶はない。それになんだか痛みが段々強くなっている気がする。夕食が終わって祖母が用意してくれた風呂に入ろうと服を抜いだ時月見は悲鳴を上げた。
 二の腕には人の手の跡としか思えない痣がくっきりと浮かんでいた。
 悲鳴を聞いてやって来た祖母は驚きで動けなくなってしまった彼女を見るないなや、血相を変えて祖霊舎がある部屋へと飛んで行き籠目紋の着物を月見に着せた。
 そして今まで来ていた洋服の左の袖を鋏で切り落とすと彼女の手に握らせた。
「袖もぎさんに袖は返さんといかん」
 痛みと恐怖で込み上げる涙を我慢して月見はしっかり頷いた。祖母は彼女の着物の帯に小刀を差しながら、家から出たら何があっても絶対に振り返ってはいけないと言った。
「なぁんもおっかなくね。それ置いてきやったら、さすけねぇぞ」







「それで大丈夫だったんですか?」
固唾を呑んで聞きに徹していた古寺が訊ねた。
「家に帰るまでにはとっても怖い思いをしたけれど、それ以来左腕が痛むことはなかったわ」
そんな後輩たちの様子をみて彼女は笑顔で言った。
「次の日に一緒に遊んでいた友達に聞いてみたの。どうして先に帰っちゃったの?って」
 そうしたらね、みんなが言うの。先に用事があるから帰るって蓮ちゃんが言ったんだよねえ?うん、誰か聞いたって言ってたよ。おれたち日が暮れるまで山に居たよな。って。みんなはいなくなったのは私だって言っていたわ。たぶん私が夢中になるあまりみんなを見失ってしまって、それでひとりで帰っちゃったのね。
 そうやって笑ったまま彼女は言った。左腕だってきっと転んだ時に打ちつけたんだわ。そうね、子どもの頃の私は随分と臆病だったみたい、と。
 もしかしたら蟹を探しながら川を移動してしまったせいで月見さんは友人とはぐれてしまったのかも知れない。それでもその場にいた全員気がつかないことはあるのだろうか。それに加えて『自分を呼ぶ声』に、『二の腕の痣』だ。なにも知らなかった頃ならちょっと怖い不思議な話だと処理して忘れる事が出来たかもしれない。
 古寺は背筋に走った寒気に身体を震わせた。でもそれは無理だ。だって、
「『 』じゃない」
 ふと、女の人の声がした気がして振り返ったが、もうなにも聞こえなかった。奈良坂先輩がじっと扉の方を凝視していた。なにも知らなかった頃って一体いつの事なんだろう。今だってなにも知らないじゃないか。
 月見が飲み終わった湯呑みを片付けはじめた。手伝うために正座を崩してから立ち上がったが、痺れた足が少し縺れる。

 でも、と彼女は続けた。
「袖もぎさんってなんなのかしら」
 その問いに答えられるものはこの部屋には居なかった。
 彼女の凜とした声が静まりかえった部屋に吸い込まれて消えた。

                                  <暮れ六つ 袖もぎさん/了>





参考文献(順不同・敬称略)
『遠野物語』柳田國男
『遠野物語remix』京極夏彦×柳田國男
『逢魔宿り』三津田信三
『描画心理学双書7原色子どもの絵診断事典』浅利篤監修 日本児童画研究会編著
『葬送習俗事典』柳田國男
『蜻蛉日記』藤原道綱母
『根の国の話』柳田國男(日本文学全集 歴史・地理・民俗 収録)
『禁忌習俗事典』柳田國男