イリス香る
秋冬の私服や日用品を詰め込み、指定された教材類を重ねていく。「忘れ物ないー?」と後ろから飛んでくる母さんの言葉に相槌をうちながら、手荷物の中に搭乗に必要なチケットとパスポートが入っていることを確認すれば、パッキングの最終チェックは完了した。
重たくなったキャリーケースの上にヴァイオリンケースを乗せ、リュックを背負って家を出る。待ち構えていた車に荷物を積んで乗り込めば、向かいの通学路を眠そうに歩く立海生を追い抜いて走り出す。
目的地は日本の空の玄関口、成田国際空港である。
長いオートウォークを通って集合場所に指定されている受付に到着すれば、担当の教員や航空会社のスタッフ、今回参加するであろう立海生の集団が目についた。この人数を見るに…もしかして私が最後に着いたのだろうか。
急ぎ両親を振り返れば、「気を付けてね」「怪我、病気しないように」との見送りの言葉に頷き、サクッと集団に合流しようとしていたのを母さんに引き留められる。
「着いたらちゃんとお母さんたちにも連絡してね?週に1回は電話することと、あと」
「わかってる。1人で買い物とかに出ないこと、でしょ?大丈夫。今年もシャルが同室だから大抵のことは一緒に行動するよ。それに同じ学校の友達もいるし」
「慣れがある時の方が怖いとよく言うだろう?とにかく逐一無事は伝えなさい」
「連絡取るしお土産も買ってくるよ。それじゃ、行ってきまーす」
そう言って両親と別れ、集団に合流する。
立海には短期の留学制度というものがあった。語学に対する理解や学問への興味関心の幅を広げるべく導入されているこの制度は、アメリカ・カナダ・オーストラリア・フランス・ドイツの中から行き先を選ぶことができる。
どの国にも興味深い学問を学べる学校があるが、私は語学の勉強を進めたいのはもちろんのことスポーツ科学について学びを深めたいこともあり、毎年フランスへと留学希望を出していた。スポーツ界の中ではフランス語は結構重要であるということや、フランスの友人の勧めもあり、飽きることなく1年の間の3ヶ月を向こうで過ごしている。
そのためこのやりとりももう3年目になるのだが…毎回心配してくる両親に複雑な気持ちになる。
だって、別れ際は時間を長く取れば取るほど離れ難くなるからだった。これは経験則。これくらいさっぱりしていないと、足元から根が這ったように動けなくなりそうでいつもこわくなる。あまり心配されすぎるのも、どうにも身動きが鈍くなってしまう。
そんな心を反映するかのような動きで後ろを振り返れば、他の生徒の親に紛れた両親に手を振られる。それを側から見て気づいたのであろう友人が肩を叩いてくるのを避けながらも、少し照れ臭くなりながら今度は手を振り応えた。
「ではフランス行きのC班のみなさんはこちらにお願いします!」
丁度スタッフさんの声がかかり、ぞろぞろと動く集団に遅れずに付いていく。ふと顔にかかった髪を耳にかければ、月光ちゃんにもらった髪飾りが指を掠めた。
彼も来週から海外遠征に出かける予定らしい。今日は見送りには来れないけれど朝電話をくれたし、すごく寂しいわけではなかった。
「それに世界大会もあるもんね」
「恵那〜立ち止まってどったの?」
「ううん、なんでもない。ただ忘れ物なかったかなーって」
「パスポート忘れなきゃ平気でしょ」
「うーんそれは極論すぎ」
他愛もない会話に華を咲かせながら手続きが整うのを待つ時間は、思いの外早く過ぎ去っていく。フランスに到着するまでの体感時間もこれくらい早いといつも助かるのにと思いながら、きっと気づいた時には日本とはまた違った大きくて青い空が広がっているのだろう。ガラスの向こうの青空に、そんなことを思った。
そしてひとこと。静かに、行ってきますと呟いた。
軽やかな機械音と離陸のアナウンスを目覚まし代わりにしながら眠気まなこで支度を整え窓の外を眺める。この時期になっても日の入りが遅いからだろう、日本ならすでに日が落ちているであろう時間でさえ、目下に広がる街々はオレンジ色に輝いていた。
そうしている間にも私たちを乗せた飛行機はフランス最大の空港、シャルル・ド・ゴール空港に降り立った。
空港に着くとそこからは慌ただしい。現地学校の代表に出迎えられれば、専用のバスに乗って早速留学中お世話になる学舎に案内される。頃合い良く全授業が終了する時間に合わせて合流し、ルームメイトとなる生徒と顔合わせをした後、その日は学校所有の寮の説明を軽く受けて解散となる。昔は当日にウェルカムパーティーがあったようなのだけれど、流石に約15時間のフライトの直後には酷なものがあるため、今は翌日の予定になったという歴史があるらしい。
そりゃそうだ。現に、今も今年が初参加の生徒が「これからルームメイトの方々と合流しますからね」という先生の言葉だけでそわそわしている。
まるで2年前の私を見ているよう。せめて少しでも気持ちを落ち着かせられるようにと、機内で余らせた苺味の飴をそっと握らせた。
バスの中でのガイドも終盤に差し掛かり、約1時間と少しの時間をかけて学舎に到着する。いつ見ても堂々たる佇まいの白を基調とした建物に感嘆しつつ、案内について行く。
日本で言う幼稚園〜高校生までにあたる約800名の生徒が通うこのインターナショナルスクールは、抱える生徒数に相応しい広さがある。自転車移動ができたらいいのだけれど、車か徒歩しか手段のないことに毎年苦言を呈したい。まあ、今日は会場まで車なんだけどね。
目的地へ到着すると、緊張の面持ちで荷物を持つ者や慣れた様子で進んでいく者、辺りを眺めながら談笑する者と様々だったが、会場へ入った途端大きな歓迎の声に包まれ一瞬動きが止まる。
かくいう私もその1人で、わかっていても毎年驚いてしまうのだがら演出力が凄い。そして、定番と化した私のルームメイトを見つけて笑みが溢れた。
「それでは一人ひとりお名前を呼びますので、ルームメイトと挨拶を。仲良くね」
歓迎の挨拶もそこそこに顔合わせが始まる。がやがやと外にスクールギャラリーも集まってくるのを眺めつつ自分の番を待った。先ほどからずっとシャルに見つめられているのを笑いながらスマホを開きメッセージで応えた。
そして私たちの名前が呼ばれる。
「シャルロット・ローラン、エナ・カンザキ」
「「はい」」
ロングヘアを一つで纏めた綺麗な金髪が目の前で揺れる。「エナ!久しぶりだね!」と満面の笑みで抱きついてくる彼女に、こちらも腕を回して頭を撫で回す。相変わらずの可愛さとほのかに漂うシトラスの香り。久しぶりのシャルだ〜〜という感覚に胸がいっぱいになる。
私よりも少しだけ目線が低い彼女に、少し背が伸びた?と問いかけながらぎゅっと抱きしめ返した。
そんな私たちに周囲から温かい視線や笑いをもらいながら、荷物を持って部屋へと向かう。今日はここで立海のみんなとは解散だ。
「今年はちゃんとヴァイオリン持ってきたんだ」
「うん。なんか今年は授業でも使うみたいだし、誰かさんが『ヴァイオリンは持ったかい?忘れてはいないね?』ってうるさくて。去年持っていかなかったこと絶対根に持ってる」
「そういえば、エナが帰ったあと『あの子はアレでないと教えても綺麗に弾けないというのに。困った子だね』って言ってたよ」
「あ、それ言われた。事実なんだけどちょっとへこむ…というかそれ真似てるの?似てて面白い」
他愛もない話をしながら寮の中を移動し部屋に荷物を置いて部屋を軽く整理する。
留学中はシャルも通常使っている部屋から移動してくれるため、2人で話し合いながらどこを使うか決める。もう3年目ともなるとパパッと済むようになった。
そして制服から部屋着に着替えよう、というところでシャルから1枚の手紙と封筒を手渡される。
「さっきの話で思い出した!はいこれ、恵那が着いたら渡してくれって頼まれてた手紙だよ。あとこれも」
真っ白な百合と白薔薇の刺繍が施された便箋には、ご丁寧に赤い蝋封までされている。それを見ただけで誰からの手紙か瞬時に理解できた。そして中を開けようとすれば、ほのかに鼻を掠めたイリスの香りに確信する。
メッセージを送ってくればいいのに…と思いながら内容を確認すれば、すぐにもう一つの封筒の中身を取り出した。
「エナ?」
「………シャル。今週末の休みの日って空いてる?」
「え?今週末?空いてるよ」
「お願い一緒に来て」
「百面相して本当にどうしたの?落ち着いて話してみて」
諭すように言葉を紡ぐシャルに、少し震える手を押さえつけながら、封筒の中身と手紙の内容を見せた。
『Chère chérie.
やぁ、この手紙は無事にキミの元へ届いただろうか?私の手で直接渡せずすまないね。大会の兼ね合いでそちらに寄る時間がなくてね、許して欲しい。
こんな仰々しく手紙なんてどういうつもりだ、とキミは思っていそうだけれど実は朗報があってね。スマホのメッセージでは少々味気ないと思って、手紙をしたためてみたよ。
早速本題なのだけれど、先日今年のU-17WC開催会場と詳細が正式発表になってね。以前から噂されていたように、今年は選手や各関係者ともにCollège—日本でいう中学生だね—の参加が可能になったんだ。
そこで、キミにフランス代表の枠を掴み取ってもらいたい。
このお願いをしたくて手紙を贈ったんだ。
エナ。キミに正式な形で大会に同行してもらえれば、私や彼、ひいてはキミ自身も動きやすくなると私は確信している。
そしてお願い事にも関わる朗報はここから。
U-17WCに参加する公式ストリンガーチームがCollègeからも体験参加で人数を募集するそうだよ。大会用の環境を見たいとずっと言っていただろう?代表枠は2名ずつとのことだ。選考があるようだから要項と申込用紙を同封するよ。今週末、こちらに提出しにおいで。
参加資格はその国に在住していること、ストリンガー経験1年以上とのことだ。国籍は問わないらしいね、素晴らしい。
あぁ、安心して欲しい。フランス代表としての枠はあくまでも足枷を外すための布石だ。思慮深いキミが心を曇らせる必要はないよ。迷うようなら相談してからでも構わない。
本当なら会って話をしたかったのだけれど、今まさに選手選考の最中なんだ。きっと今年は革命の夜明けを迎えられると私は信じているよ。
私たちのU-17WCはこれが最後の舞台になる。エナにはこれまでの客席からではなく、同じ舞台で行く末を見届けてくれると私たちはとても嬉しく思うよ。
思いの外長文になってしまったね。
やはり手紙は心地いい。キミさえよければ、こちらに来る前に手紙を読んだことだけでも伝えて欲しいな。
会える日を心待ちにしているよ。
cher tailleur
Avec mes remerciements,
L. Camus de Charpentier』