だからふたりは綺麗でいられる
束の間の休息の後、ガット張り替えのため合宿所中央に設立されている一際大きな施設へと足を運んだ。
入り口でパスを翳し、長い廊下を進んだ先にあるトレーニングルームを通り過ぎてしばらく歩けば、ストリンギングルームに到着する。中に入ると、ストリングマシンが所狭しと置かれ、黒いTシャツを着たスタッフや選手が各々ガットの調整を行なっていた。
そんな彼らを横目に、月光ちゃんに予約台まで案内してもらう。そして目の前に鎮座したストリングマシンを見れば、驚きとともに笑みが溢れた。
「最新式の電動マシンに変わってる!!しかもこの会社の型、一度張ってみたかったやつだ」
「そういうと思ってな。まだ一部試運転の段階だが、導入しているもので予約が取れないかコーチに相談した」
「え、ありがとう……ここで使えることになるなんて…すごい…」
「あまり気負うな、いつも通り張ってくれればいい」
試運転で導入されたというフランス製の電動マシンは以前から目をつけていたもので、発表されたのは夏頃であったことからまだ日本には二桁台しか輸入されていないはずだ。
留学先で弄らせてもらえたらいいな、くらいの考えでいたこともあり、合宿所で出会えたことに思わずテンションが上がってしまう。
今、月光ちゃんから見えている私の目には、おそらくきらきらと星が浮かんでいることだろう。
「前にカタログ見せた時のこと覚えててくれたんだ」
「ああ、あれだけ熱弁されたからな」
「…ありがとう。
それじゃ、責任持って張らせてもらうね。マシンもいじってみたいから、少しかかるかも」
「ゆっくりで構わない。終わり次第連絡を入れてくれ」
ジャージを腰に巻きながらそう確認すれば、月光ちゃんはじっと考えるようにこちらを見つめた後、外で被っていた黒帽子を徐に私の頭に被せ部屋を後にしてしまった。
なんで帽子…??と去り際に撫でられた個所に触れ浮かんだ疑問に首を捻るが、月光ちゃんのことだから何か意味があるんだろうな。そう考え、帽子はそのままに作業台に手を伸ばした。
「———完成」
黙々とひとり作業に打ち込むこと数十分、無事にガットの張り替えが終了した。台からラケットを外し変形等がないかを確認した後、丁寧に袋にしまう。
月光ちゃんに連絡を入れればすぐに返信があり、トレーニングルームにいるらしく部屋の前で待っていてくれとのこと。ジャージを羽織り直し荷物を纏めて部屋を出れば、少し離れた場所に自販機と小さなベンチがを見つける。そこに腰を下ろし、ぼーっと月光ちゃんを待つことにした。
「それにしても新型よかったな……台の微調整かなり効いたし。クランプも抑えやすかった」
「おーやっぱそうなんやな〜」
ラケットの輪郭をなぞりながら、そんな感想をぶつぶつと呟いていれば頭上から声が降ってきて顔を上げる。
すると真横にある自販機の前に白髪の男性が立っていた。あげた腕をボタンの前で彷徨わせているから飲み物に悩んでいる…のだろうけど、今の呟きは私に対してのものだったのだろうか。それともひとりごと?
ていうかこの人いつからいたんだ…全く気配に気づかなかった。
「?」
「おっとすまんすまん、驚かせてしもたか。竜次と同じことゆっとったから反応してもうた、堪忍⭐︎」
「はぁ」
声をかければこちらを向きながらそう言われる。「誰」と言いたくなる衝動を飲み込み、彼の行動をなんとはなしに目で追う。
白髪の彼は飲み物を決めたのか「コレにしーよ」とボタンを押し、楽しそうに炭酸を開けて飲み始めた。マイペースすぎる姿に少々気まずさを感じながら、彼が不思議な赤ジャージの羽織り方をしていたため、つられるようにして襟元に目線を向ければ驚いて目についたものをそのまま声に出してしまう。
「No.2って」
「ん?あぁせや、俺は種ヶ島修二ちゅーねん。
1の呟きに10並の情報量が返ってきた。
種ヶ島…?どこかで聞いたことのあるような気がする名前に記憶の海を泳ごうとするが、次に発せられたツッキーというなんとも可愛らしい響きに反応してしまう。
私が狼狽えている間にも、その人は「隣、座ってもええ?」と一人分間を開けて隣に座ってきた。
「あのツッキーって越知月光のことですよね」
「せやで?」
「いつもその渾名で呼ばれてるんですか…?」
「ん?まぁ、俺はずっと
「……か、かわいい」
少々前のめりな気持ちで質問をしていたこともあり溢してしまったひとりごとに、隣から笑い声が上がる。そうして漸く初対面であることを思い出し、反射的に頭を下げた。
いくら月光ちゃんを知ってるからって初対面の人の前で何言ってんのわたし…!!めっちゃ笑われてるし最悪。
そう思いながら目を逸らしていれば、「ええでええで。俺も自分が付けた渾名に可愛い言われるとは思うてへんくて。おーきに⭐︎」とこれまた笑いながら返されてしまう。
「なんや自分オモロいなぁ、やっぱ声かけてよかったわ」
「え?…何処かでお会いしてましたっけ?」
「ちゃうちゃう!俺が一方的に知っとったから声かけたんや。
自分、去年も
「あ、見られてましたか」
あまりのフレンドリーさに疑問を投げつけると、納得の返答に感嘆する。私は毎年合宿に招集される月光ちゃんの要望があると、こうして合宿所を訪れている。確かに去年も同じ時期に来ていたから、見られていたのも頷けた。
「女の子が来るなんて珍しー思て、ツッキーに誰だったんか聞いても何も教えてくれんし。んで、ラケット取りに来たら偶々見かけたから声かけてもうたわ」
「そうだったんですね。私はストリング…ラケットの調整にきただけなんですけど」
「さっき向こうでえらい集中しとったもんな〜。竜次もなんや感心しとったで、手際がええって」
またも「誰」という言葉を飲み込み、軽く感謝の言葉を告げる。フレンドリーすぎてきっと月光ちゃんが反応に困るタイプの人だな…と思いながら「ちゃい⭐︎」というどこかで聞いたことのあるような、ないような言葉を聞き流していると、廊下の向こう側から月光ちゃんがこちらに向かって歩いてきているのが視界に入る。
隣に座る種ヶ島さんの影にならないよう、座ったまま上半身を前に倒し顔を覗かせながら手を振った。
「待たせたな恵那。…種ヶ島はここで何をしている」
「やっほー!
いや〜竜次のこと待っとったら、偶々前ツッキーと一緒におったなぁって子見っけて。1人でぽつんと座っとるから声掛けてしもたわ〜堪忍⭐︎」
へらり。種ヶ島さんは言葉とは裏腹、特に悪びれた様子もなく両手を合わせながら軽やかに立ち上がる。
そして、ポイっと手に持っている空になった缶を側に設置されたゴミ箱へとノールックで投げ入れた。
「え、すご」
「おーきに⭐︎ほいじゃ、ツッキーも来たことやし俺は行くわ〜!ほな」
手をひらひらさせながらストリングルームとは反対方向へと歩き出した種ヶ島さんは、月光ちゃんの肩を叩きすれ違い様に何か言葉を交わした後、鼻唄を歌いながら行ってしまった。
そんな彼を振り返ることなく無言のままの月光ちゃんに声をかければ、頭を撫でられながらもう一度「待たせてすまない」と声が降ってくる。
「全然!私の方こそ思ったより時間掛かっちゃった、ごめんね」
「それはさしたる問題ではない。…それより何もなかったか」
月光ちゃんの手が右頬に添えられ、不意にそんなことを聞かれる。辿るようにして顔を覗き込めば、普段は凪のような表情に皺が刻まれていた。
これは…なにか心配をかけてしまっただろうか。
「種ヶ島?さんに声かけられた以外は特になにもなかったけど」
「そうか…ならいい。コートに戻るぞ」
月光ちゃんは安心したようにそう告げると、屈んでいた背を戻しながら私が抱えていたラケットを左手で受け取り、スッと右手を差し出した。
私は数秒思考を巡らせた後、両手でその手を包むように添え、ひんやりとした指先を額に当てた。
「どうした」
「ううん。ただ、こうすれば少しは安心できるかな、なんて」
まるで祈りのようだ。そんなことを頭の片隅でなぞった。
月光ちゃんはいつも、自らの疑問や懸念を静謐の中で鎮めてしまう。それは彼の特性であり、レジリエンス力の高さの所以でもある。昔から私が尊敬してやまない長所の一つだった。
でも、だからこそ、彼の心労を分かち合えないことが歯痒くもあった。
これは私の我儘であることは重々承知しているし、月光ちゃんは必要なことならば必ず言葉にして伝えてくれる。それでも、まだ"守られる"そんな立場にいることが、甘んじている自分が、情けないと思う瞬間が未だに存在していた。
「…、恵那」
「わっ、なに」
「そんな
……
するり、と私の両手を静止するように動かされた大きな手は、容易く視界を奪っていった。
そして、溜め息が混じったかのような声色で紡がれた言葉は、私の心への応えだった。覆われた暗闇の中で小さく目を見開く。
「やっぱお見通し」
「こちらの感情をお前の傷にする必要はないと、いつも言っているだろう」
「相手が月光ちゃんだから仕様がないんだよね、こればっかりは。いつも言ってる」
視界を覆う手がゆっくりと離れていき、いつの間に隣に座ったのか、前髪を少しかき上げた彼と目が合う。茶化すように首を傾げると、額をピンと弾かれた。全く痛くない。
そして、どちらからともなく月光ちゃんは仕方がないといったように瞳を閉じ、私も困ったねと何処か楽観的になりながら笑みをこぼした。
「では、今度こそコートへ向かうぞ」
「はーい」
差し出された手を今度はしっかりと掴めば、歩幅を合わせるようにして長い廊下を進んでいく。
こんな矛盾した想いもぶつけ合えばいつか、満月みたいに丸くなると信じてやまないのだ。
『堪忍な、ツッキー。悪い虫が寄り付きそうやって、声かけてもうたわ。——うわ、そんな怖い顔せんで』
『………悪いな』
『俺もちょいキョーミあったし〜って、冗談や冗談。前に大会で会った…ってもあれはほぼ一瞬やったしな。流石に覚えてへんかったみたいで警戒させてしもたわ、堪忍』
『…いや、世話をかけた。礼を言う』
『離れてたんのも、集中させてあげたかったんやろ?
でも、まぁ気ぃつけ。んじゃ〜』