9.

爽子、ナオミ、そしてもう一人の事務員の春野綺羅子は、神奈川県郊外のとある旅館に腰を落ち着けていた。
春野と爽子は初対面だったが、目的地に辿り着く迄に打ち解けたようだ。

各々荷物を纏め終わった処でナオミと爽子が春野の元へ向かうと、彼女はパソコンの画面越しに映る愛猫に向かって思い切り惚気ている真っ最中だった。
見兼ねたナオミがガタガタと態とらしく音を立て乍ら室内に入ると、春野は明からさまに肩を震わせて焦りを顕わにする。


「……『ミィちゃん』の事、可愛くて仕方無いんですね、春野さん」


ナオミの後ろから苦笑いを浮かべて入ってきた爽子に、春野は乾いた笑みを浮かべて答える事しか出来なかった。
そして彼女は、白けた目を向けるナオミに対し、先程迄調べていた新聞記事を見せる。


「……『横浜の商港で客船爆破事故』?これって真逆……」

「……豪華客船ゼルダ号。多分、組合の船だと思う」


爽子がナオミの後ろからパソコンの画面を見つめてそう云った。


「爽さん、自棄に詳しいですね」

「嗚呼……仕事柄、組合の情報はよく耳に入って来ますから」


春野の言葉に、爽子は咄嗟にそう返した。
ナオミ達は爽子が組合の元暗殺者だという事を知らないのだ。
そしてこれからもそれを知られる訳にはいかない。
この事実を知っているのは太宰と鏡花だけで充分だ。
爽子は心の中でそう呟いてから、画面上の『爆破』の文字を指差した。


「屹度これは、ポートマフィアの仕業……なんですよね?」

「ええ。恐らく……」


春野がそれに頷くと、ナオミは物憂げな表情で兄−谷崎潤一郎を思い遣る。
爽子と春野はそれを心配そうな目付きで見詰めていたが、視線に気が付いたナオミは次の瞬間ニコリと顔に笑みを浮かべた。


「『迎えに行きまちゅからね』?」

「それは忘れて!」

「あはは……」


ナオミに揶揄われた春野は、真っ赤な顔でナオミにそう叫ぶ。
爽子はそれを見て再び苦笑いを浮かべたのだった。


◇◆◇


その夜、旅館の一室で、爽子らは俗に云う『女子会』なるものを執り行っていた。
春野は葡萄酒を5本全て空にし、泥酔して自分の電気髪鏝(ヘアアイロン)を窓から投げ捨てると、涎を垂らして気持ち良さそうに眠っている。
爽子は彼女にそっと布団を掛けると、クスリ、と小さく笑みを浮かべた。


「御迷惑お掛けして申し訳ありませんわ、爽さん」

「ううん、大丈夫」


申し訳無さそうに謝るナオミに、爽子は笑顔でそう答える。


「ナオミちゃんもそろそろ休んだら?気を張ってて疲れてるでしょ」

「いえ、もう少し此処に居ますわ。私、爽さんにお聞きしたい事がありますの」


ナオミはそう云って爽子の前に座り込んだ。


「爽さんと太宰さんって、一体如何いう御関係ですの?」

「え」


真逆、太宰は自分の事をバラして仕舞ったのか。

焦る爽子を余所に、ナオミはどんどん話を進めていく。


「だって可笑しいですもの。友人同士と云うには雰囲気が甘いですし、恋人同士と云うには冷めている気が致しますし。だから、一体如何いった御関係なのか気になったんですの」

「嗚呼……そう云う事か」


てっきり太宰との出逢いの事を云っているのかと思った爽子は、ほっと安堵の息を漏らす。

−否、一寸待って。


「……ナオミちゃん、私は太宰さんとは只の友達だよ?」

「誤魔化さなくて善いんですのよ、爽さん。現時点で恋人同士とは行かずとも、その一歩手前辺りまでは行っているのでしょう?」

「否、本当に何も無いからね!?」


爽子は両手を振って全力で否定する。
ナオミは頬を膨らませて不満そうにしていたが、パンと手を叩いて「そうだ」と一言呟いた。


「じゃあ爽さんは、太宰さんの事如何思っていらっしゃいますの?」

「へ」


固まる爽子に、ナオミは此処ぞとばかりに詰め寄って行く。


「だから、太宰さんに対して、恋愛感情はお有りなんですの!?」

「な、無い無い無い!」

「動揺している処が逆に怪しいですわ!」

「えええ」


爽子は太宰の顔を思い浮かべる。

−確かに太宰さん飛んでも無い位格好善いし、垣間見せる儚い表情も言動も放って置けなくはなるけど……
−でも、それだけだ。
−太宰さんの事は好きだけど、今の処そこに恋愛感情は見出だせない。

爽子がナオミにそれを話すと、彼女は少し詰まらなそうに「そうなんですの……」と呟いた。


「じゃあ、今想いを寄せている方はいらっしゃるんですの?」

「ううん、いないよ」

「気になっているお方も?」


ナオミのその問いに、爽子は一瞬思考が停止した。
何故なら−一瞬、思い浮かべて仕舞ったからだ。
背丈は小さいが、誰よりも頼りになる、黒帽子を被った後ろ姿を。
黒い手套越しに少し乱暴に頭を撫でる、彼の温もりを。
猫のように目を細めて微笑む、勝ち気なアイスブルーの瞳を。


「……爽さん、貴女今、物凄い顔してますわよ」

「……え?ど、どんな?」

「何と云うか……会いたくて恋しくて仕方が無い、とでも云えば善いのかしら。誰かに恋焦がれている表情ですわ」

「!」


爽子は思わず両頬を押さえた。

−私今、絶対顔真っ赤だ。


「矢っ張り想っているお方がいらっしゃるんですね!?もう言い逃れは出来ませんわよ!」


それで、どんなお方ですの?

ナオミがそう言って首を傾げる。
顔の動きに従って、ハラリ、と艶やかな黒髪が一房零れ落ちた。
爽子はそれを見つめ乍ら、ふっ、と儚げな笑みを浮かべる。


「『会いたくて仕方無い人』かぁ……その通りだよナオミちゃん。でもね、私はその人に会いたくても絶対に会っちゃいけないんだ」


爽子は彼に最後に会った時の事を思い出す。
あんな顔の彼を見るのは初めてだった。
胸が張り裂けそうで、寂しげで、苦しそうなのに、それを露わにせず、自嘲的な笑みを浮かべていた彼の人。
若しかしたら、今彼の事ばかり考えて仕舞うのは、最後に見た彼の姿が余りにも心苦しくなるようなものだったからかも知れない。


「……屹度私は、今の環境を恋愛に近しいモノと錯覚してるだけなんだよ」


だって女は皆、『身分違いの恋(ロミオとジュリエット)』的な展開に弱いでしょう?

云い終わるや否や、ぽたり、と熱い雫が頬を滑り落ちて畳の上に垂れた。

−え?

自分でも解らない。
如何して今、こんなに心が苦しいのか。


「爽さん!」


ナオミは思わず爽子に抱き着いていた。
ふわり、とシャンプーの甘い香りが漂う。
おずおずと爽子がナオミの背中に手を回すと、ナオミは爽子を抱き締める腕に力を込めた。


「苦しい時は、一人で抱え込んで仕舞ってはいけませんわ。事情は深くお聞きしませんけど……」


泣きたい時は、泣いて仕舞って善いんですのよ。

その言葉を聞いた瞬間、爽子の瞳から止め処無く涙が溢れ出す。

−何て善い娘なんだろう。
−何も聞かずに、こうして私を慰めて呉れるだなんて。

その晩、有吉爽子は、ナオミの腕の中で嗚咽して泣いた。
ナオミはそんな彼女の背中を優しく擦り、時にはポンポンと優しく背中を叩いてあげたのだった。


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