10.

中原中也は旧晩香堂を訪れていた。
彼はつい先刻、首領の森鴎外より、特使として探偵社に贈品をしてくるようにと命を受けたのだ。
森から聞いた話に寄れば、ポートマフィアは組合を魅力的な『餌』で釣ったのだと云う。
その『餌』とは乃ち、探偵社の事務員。
彼女らの居場所を組合に密告し、更にそれを探偵社に密告する事で、自分達は労せずして2つの組織を穴に落としたのだ。

次々と襲い掛かる罠を鼻歌交じりに突破し乍ら、中也は先程の森との遣り取りを思い返していた。


『中也君が4年前まで懇意にしていた有吉爽子ちゃん、探偵社の事務員と一緒に居るみたいだねえ。此方としては作戦を変える心算は無いけれど……特使の役、君に任せても大丈夫かな?』

『……問題ありません。俺は腐ってもポートマフィアの人間です。彼奴がどんな道を選ぼうと何をしていようと、俺は俺の仕事を全うする迄ですから』


あの時、真逆森の口から彼女の名前が出てくるとは思わず、中也は答える直前に一瞬息を詰めて仕舞ったのだ。
譬え爽子が探偵社の味方についていようが、自分はマフィアとして生き、自分達の組織の為に尽くすのみ。
それが、誰よりも忠誠心の強い中原中也が出した答えだった。

−だから、今から俺が、俺達ポートマフィアが目論んでいる事が、彼奴を傷つけて仕舞う結果になったとしても。
−俺は、私的な感情には蓋をして、俺の居場所を守るだけだ。

目を閉じて、すぅ、と息を吸う。
中也はそうして自分の中に燻る彼女への想いに気付かぬ振りをすると、頭上にある監視映像機に向かって語り出した。


「特使の接待役がこんな木偶とは、泣かせる人手不足じゃねえか、探偵社」


◇◆◇


「春野さん、早く準備して下さい!」


国木田から避難指示を受けた事務員2人と爽子は、直ぐにその場を立ち去る事になった。
荷物を持っていこうとする春野をナオミが宥め、3人は急いで部屋の外に出る。


「! 2人共、伏せて!」


爽子はそう云うや否や春野とナオミの頭を押さえて窓枠から見えないようにした。


「……直ぐそこ、来てる」


ナオミが小さく呟き、春野は恐る恐るといった様子でチラリと外を眺めた。
一方爽子は、一瞬だけ見た敵の姿を思い返し、封印していた4年前の記憶を引っ張り出す。

−今のは確か……ジョンとラヴクラフトだ。
−選りに選ってあの2人か……厄介だな。

ジョン・スタインベックがいる以上、自分達はどう足掻いても逃げられないだろうという事は容易に想像出来た。
それでも、出来る限りの事はしなければならない。
出来るだけ遠くに逃げて、早く国木田さん達と合流しなければ。

駐車場に行こう、と提案する春野を、爽子よりも先に引き留めたのはナオミだった。
ナオミは春野と爽子を誘導し、従業員用通用口へと進んで行く。
如何やら従業員用の自動車で逃げようという心算らしい。
旅館に着いた時に仲居さんから車の鍵を掏っちゃった、とちゃっかり云ってのけるナオミに内心で拍手喝采を送り乍ら、爽子は素早く運転席に乗り込んだ。

−早く、早く出来るだけ遠くに逃げないと……!


「2人共、しっかり掴まってて」


力強くアクセルを踏み、爽子は最高速度で車を走らせた。
荒々しい運転で申し訳無いとは思うものの、今はそんな事に構っている余裕は無い。


「でも何故こんなに早く組合が?」

「マフィアですわ」


春野の問いに答えたナオミは、チラリと爽子に目を遣る。
同じ意見だった爽子はナオミに向かって小さく頷くと、彼女に代わって春野に対し補足説明を始めた。


「多分、マフィアは絶妙な機(タイミング)で探偵社と組合の両方を揺さぶり、あわよくば共倒れを狙ったんだと思います。太宰さん曰く、ポートマフィアの首領の森さんは、合理化の権化らしいですから」

「強敵ね」


春野がそう呟いた直後だった。
ガクン、と車が大きく揺れ、『何か』が車体を上に持ち上げて行く。


「チッ!」


−もう嗅ぎ付けられた……!

爽子は思い切り舌打ちをすると、「ナオミちゃん、ドア開けられる?」とすぐさま尋ねた。


「っ、開きませんわ、爽さん!」


その間にも『何か』はどんどん車体に絡みつき、とうとうそれは押し潰さんばかりの勢いで車体全体を覆いつくした。


「申し訳無いね、お嬢さん方」


場違いな程朗らかな声がした。
外に目を遣ると、ジョン・スタインベックとハワード・フィリップス・ラヴクラフトが此方を見上げている。


「真逆裏をかかれるとは。流石探偵社は隅々まで人員が行き届いているね」


そしてとうとう、ジョンの青い瞳と爽子の瞳がかち合った。


「……え、爽?」


彼は目を何度も瞬かせ乍ら、少し驚いたようにそう呟いた。
状況を把握出来ていないナオミと春野も、不思議そうに顔を見合わせている。


「君、何で此処に……っていうか、抑も生きてたんだ。最後に会ったのはもう4、5年前位だっけ?懐かしいなぁ、ねえ、ラヴクラフト?」

「如何でもいい。眠い……」

「はは、相変わらずだなあ」


ラヴクラフトの答えにジョンは苦笑する。


「……私はもう、貴方達とは縁を切ったから」

「へえ……それって詰まり、爽は僕ら組合を裏切ったって事?」


ニコリ、とジョンが微笑む。
その顔には確かに笑顔が浮かんでいるのに、何故か背筋が凍りつくような冷たさを感じさせた。


「……そうだね。私は組合が嫌で、フランシスさんが嫌で彼拠を出て行った。今は横浜(ここ)で、人を扶ける仕事をしてる」

「ふぅん?」


ミシリ、と音がして、『何か』−木の枝が更に車体に食い込んだ。
車内にナオミと春野の悲鳴が木霊する。
絡みつく木の枝−これはジョン・スタインベックの異能力『怒りの葡萄』に寄るものだ。
彼の異能力は、葡萄の木と身体を融合させるというもので、一見大した事のない能力に見えるが、他の植物と融合していけば土地一帯の植物を身体の延長として使う事が出来る。


「元暗殺者の君が人扶け?随分と面白い冗談を吐くようになったね、爽。まあ、如何でもいいけど。でも君を見つけたからには……団長の処に連れて行かないといけないなぁ」

「団長って、真逆……」

「うん、君が大好きな『フランシスさん』だよ」


彼の答えを聞いた爽子の表情はみるみるうちに強張っていく。


「元暗殺者……?如何いう事ですの、爽さん?」

「あれ、君達若しかして知らなかったの?その子、元々組合(ウチ)のメンバーだよ」


ジョンの言葉に、ナオミと春野は息を呑んだ。


「爽ちゃん……今の話、本当なの?」

「……黙っていて御免なさい」


春野の問いかけにか細い声で答えた爽子を見て、事務員の2人は彼の話に嘘は無いのだと認識した。


「でも、」


爽子は真っ直ぐに敵2人を見つめ、何かを決意したように固い声で言葉を発した。


「私は横浜(ここ)に来て、沢山の人に出会って、変わる事が出来た。色々な可能性を知って、少しだけ自分を好きになれた。守りたいものも出来た。だから−」


爽子の周りに一陣の風が吹いた。
彼女が異能力を発動させたのだ。


「だから私は、貴方達と闘う」


彼女は車の扉に絡みついていた枝を異能で斬り落とす。


「……仕方ない。生意気な元後輩の実力試しと躾直しの為に……僕等が一肌脱ぎますか」


ジョンはそう云って徐ろに腕を捲ってみせた。


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