8.

「また抗争か……」


派手に荒らされた山下公園の様子を見て、有吉爽子はぽつりと呟いた。
「聖マリア像の周辺で何やら騒ぎが起きている」、その通報を聞き付けた彼女が現場に足を運んだところ、赤煉瓦のアーチは壊され、花や木の枝が其処ら中に散らばり、悲惨な状態だった。
所々に黒く変色した血溜まりも出来ていて、現場の刑事達は思わず顔を背けて仕舞っている。
「血の気の多い若者の喧嘩のせいだろう」と述べる者もいたが、爽子はこの騒ぎは異能力者達による全面衝突が原因だとほぼ確信していた。
街中で厄介な米国人を見掛けたという声をチラホラ耳にするし、この凄惨な状況から察するに、唯の喧嘩が起こったとは思えないからだ。
それに、何人かの近隣住民は、銃声のような音を耳にしたと述べている。

−探偵社に事情を伺ってみよう。

爽子はその場を他の刑事に任せ、踵を返して目的地へと向かった。


◇◆◇


「あれ、爽さん?」


探偵社に辿り着くと、彼女を出迎えたのは調査員の谷崎潤一郎だった。


「こんにちは、谷崎君。一寸探偵社の皆さんに聞きたい事があったんだけど……他の社員の皆さんは?」

「あー……、太宰さんと乱歩さん以外は絶賛治療中、とでも云えば善いんですかね……」

「?」


爽子が首を傾げた所で丁度扉が開き、身体中ピカピカになった敦、国木田、賢治が姿を現す。


「おや爽、何時の間に来てたんだい?」


その後ろから現れた与謝野の姿を見て、爽子は『治療』の意味を何となく理解した。


「えっと……若しかして国木田さん達のお怪我って、件(くだん)の山下公園での騒ぎが原因なんですか?」

「おや、善く知ってるじゃないか」

「今日はその事で話を伺おうと思って此処に来たので」

「嗚呼、成る程ねェ」

「あれ、爽?来てたんだ?」


与謝野と爽子が話をしていると、何処からとも無く太宰がヒョイと姿を現した。
爽子は「どうも」と云ってペコリと彼に頭を下げる。


「あの、先刻の騒ぎの件で当事者に話を聞きたいンですけど……」

「当事者ねぇ……」


太宰は顎に手を置いてチラリと周りの様子を伺う。


「与謝野女医、一寸爽借りるね。おいで、爽」

「……え?あ、一寸太宰さん?」


与謝野の返事を待つ事無く、太宰は爽子の手を引いて奥の部屋へと連れて行く。
その様子を見た与謝野は、やれやれ、とでも云いたげに肩を竦めた。



爽子が太宰に連れて来られたのは医務室だった。
太宰は其処で立ち止まると、「座って」と彼女に声を掛ける。


「それで、先刻の騒ぎの話だったね」

「はい」

「今日はね、鏡花ちゃんが探偵社員として行う初めての仕事があったんだ……」


そして太宰は語り出した。

敦と鏡花が依頼を受けて仕事に行った事。
その仕事で失敗してしまった鏡花を敦が慰めていた処、其処に昔鏡花を可愛がっていたポートマフィアの幹部、尾崎紅葉が現れた事。
紅葉が敦を殺して鏡花を連れ去ろうとした時、国木田と賢治が助けに入った事。
そして、探偵社とポートマフィアが正面衝突する寸前に−組合の構成員達が現れた事。

敦達が与謝野に治療をして貰っていたのは、彼等が組合の構成員に惨敗し、ボロボロにされたからだったようだ。
鏡花は行方不明。
ポートマフィアよりも早く目覚めた探偵社員は、失神した尾崎紅葉を人質として社に連れて来たのだと云う。

爽子はチラリとカーテンの閉ざされたベッドを見た。
屹度彼処に、尾崎紅葉が眠っているのだろう。


「太宰さんは、尾崎紅葉さんとは知り合いなんですか?」

「うん、そうだよ。4年前迄は結構お世話になっていたからね」

「あの……大丈夫、なんですか?」


ポートマフィアにとっては、太宰は裏切り者であり忌むべき対象だ。
彼はどちらかと云うと非戦闘員。
若し相手が強者の異能力者であれば、目覚めた時に襲われて仕舞う可能性もある。
其れを心配して爽子が恐る恐る尋ねてみると、太宰はにこりと笑って「問題無いよ」と答えた。


「幾ら紅葉の姐さんが強くても、彼女は敵地で感情に任せて暴れるような莫迦じゃ無い。それに私の異能力無効化が有れば姐さんは異能を使えない。だから心配無いよ」

「まあ、それはそうなんですけど……」

「何なら、目覚めたら姐さんと少し話してみるかい?」

「……え?」


太宰の言葉に爽子が固まっていると、扉が開いて敦が中に入って来た。


「……彼の人、未だ起きないんですか?」


敦の問いに太宰が頷くと、敦はぎゅっと唇を引き結んで複雑な表情を浮かべた。
哀しそうな、苦しそうな、怒っているような顔つきである。
自分が鏡花を守れなかった事が悔しくもあり、紅葉の所為(せい)で鏡花が行方不明になった事が許せなくもあるのだろう。
太宰がそっとカーテンを開くと、桃色掛かった紅茶色の髪の遊女のような女性が静かに其処に横たわっていた。

−綺麗な女(ひと)……

爽子がじっと彼女を見つめていると、彼女の目がゆっくりと開いた。
そしてその目は太宰を捉えた瞬間、ぱちりと大きく見開かれる。


「やあ、姐さん。ご無沙汰」


太宰の挨拶に紅葉は一瞬動きを止めたが、直ぐに小さく笑って皮肉めいた言葉を返した。
そして彼女は、次に敦に目を向ける。


「……童。鏡花は無事かえ」

「彼女は……行方知れずだ」


貴女の所為だ。

敦が怒りを堪えるようにそう云うと、紅葉は少しの間黙り込んでから小さく笑い出した。


「何が可笑しい!」


とうとう耐え切れなくなった敦は、手を虎化して紅葉に襲い掛かろうとする。
その腕を掴んだのは、『人間失格』の異能力を持つ太宰治だった。
敦の異能は強制的に解かれ、腕は人間の其れに戻る。


「彼女は私に任せ給え」


太宰はそう云い乍ら、敦を部屋の外に連れて行った。


「……」


医務室に残された爽子は、何と無く気拙い思いで紅葉から視線を逸らす。
紅葉はポートマフィアの人間である上に、今初めて会った人物なのだ。此処で仲良く太宰を待つと云うのは無理な話である。


「……のう、小娘よ、」

「え?あ、私ですか?」

「お主以外に誰が居るというのじゃ」


気の抜けた爽子の答えに、紅葉は思わず苦笑いを溢した。


「……太宰は、此処で上手くやっているかえ?」


そう尋ねる紅葉の表情が何処か寂しげで、爽子は一瞬言葉に詰まって仕舞った。


「……私は探偵社の社員じゃないので、今の太宰さんの全てを知っている訳じゃありませんけど。
でも、今の太宰さんは、或る人との約束を守り抜こうと、彼なりに頑張っているように思います」

「……そうか」


爽子の答えを聞いた紅葉は安堵しているように見えた。


「それはそうと如何いう事なのじゃ?お主は探偵社の社員では無いのだろう?其れなのに何故此処に……」

「其れはね姐さん、其の娘が私の昔からの知り合いだからだよ」


爽子と紅葉は、部屋に戻って来て唐突に会話に入って来た太宰の方に顔を向けた。


「姐さんも知ってるよね。私が4年前に元暗殺者で異能力持ちの女の子を預かったって話。この娘が其の女の子だよ」

「!」

紅葉は目を見開いて爽子を見つめた。


「若しやお主……4年前、中也が善く会っていたという女子(おなご)かえ?」

「……え?」


−何で此処で、中也の名前が。

爽子が呆然としていると、「嗚呼そうか、そう云う話にも繋がるのか」と太宰が忌々しそうに呟いた。


「姐さんはね、中也の育ての親みたいなモノなんだ。だから屹度、4年前の中也は君の事を姐さんに話していたンじゃないかな」


太宰はそう云い乍ら紅葉を見遣る。


「……彼の頃の中也は、本当に毎日が楽しそうじゃった。じゃが最近の中也は、気丈に振る舞ってはおるが、少し無理をしているように見える。多分、西方の小競り合いを鎮圧して帰ってきてからじゃ」

「それ、って……」

「お主が4年振りに中也と会ってからじゃよ」


紅葉の言葉に、爽子は言葉を失った。
自分の存在が、中也を苦しめて仕舞っているのだ。
ポートマフィアと敵対関係になる事も、中也を敵に回して仕舞う事も、覚悟の上で此の道を選んだ心算だった。
でも如何だろう。
それを実感させられると、こんなにも苦しい。


「爽、君はもう戻らないと」


太宰は爽子の視界を遮るように片手でそっと彼女の目を覆うと、爽子を部屋の外まで誘導した。
外に出た所で手を離すと、今度は真正面からやんわりと爽子の両肩に手を置く。


「大丈夫かい?」

「……大丈夫、です」

「とてもそうは見えないけどね」


太宰は軽く肩を竦めた。


「そんなに気になるのかい?中也の事」

「そりゃ気になりますよ。だって中也は私の大切な友達で……」

「本当に其れだけ?」

「え?」


爽子は太宰の言葉に首を傾げる。


「……否。何でも無い」


太宰は何か云いたげにしていたが、結局そう呟いて彼女の肩から手を離した。


「でも助かりました。彼処で太宰さんが私を連れ出して呉れて。あの儘彼処に居たら、屹度私はもっと落ち込んで仕舞っていただろうから」


爽子はそう云って小さく微笑む。


「君が余りにも苦しそうな顔をしていたからね。思わず手を伸ばして仕舞ったのだよ。
それに、君に1つ頼みたい仕事もあったしね」

「仕事?」

「うん」


太宰は頷いてから言葉を続けた。


「此れから探偵社は拠点を移して本格的にポートマフィアと組合と対立して行くことになる。今回は、非戦闘員の事務員には、此処や今後拠点として使う旧晩香堂とはまた別の安全な場所に避難して貰おうと思っているんだ。だから、君には事務員の警護をお願いしたいのだよ」

「解りました。要人警護の方の仕事の依頼、って事で宜しいんですよね?」

「うん、そういう事になるね」

「了解です」

「恐らくそんなに危険は無いと思うのだけれど……一応念の為に、ね。偶にはナオミちゃん達と女の子同士水入らずで話をしてみると善いよ」

「……有難うございます」


−私が落ち込んでたから、こんな提案をして呉れたのかな。

然り気無い太宰の気遣いに胸がじんわりと温かくなる。
爽子は太宰に頭を下げて礼を述べた。


「それじゃあ、私は姐さんともう少し話があるから。
事務員の皆の事、宜しくね」

「はい」


爽子は頷いてから踵を返す。
太宰は彼女の姿が完全に見えなくなるのを確認してから、再び医務室に足を踏み入れた。


「相変わらず性根の腐った奴よのう、太宰」


紅葉の元に戻った途端、彼女はそう云って呆れたように口を開く。
太宰は「一体何の話ですか?」と尋ねてヒョイと両手を持ち上げて見せた。


「惚(とぼ)けるでない。お主は私(わっち)が中也の話をするように仕向けたのじゃろう?落ち込む彼の娘の心に付け入る心算で」

「さあ、何の事でしょう?」


飽くまで白を切る心構えの太宰を見て、紅葉は大袈裟に溜息を吐いた。
太宰はそれを見てふふふと小さく笑うと、「それはそうと、」と話を切り替える。


「取り敢えず、マフィアの戦況、今後の作戦を教えて貰おうかな」

「ハッ。マフィアの掟を忘れたかえ、坊主?江戸雀(おしゃべり)は最初に死ぬ」


紅葉は太宰を嘲笑うかのようにそう云った。
何が何でも口を開く心算は無いとでもいうような彼女の態度に、太宰はこっそり溜息を吐く。


「姐さんの部下に拷問専門の班が在ったよね」


そして太宰は、靴音を鳴らしながら扉に向かって歩き始めた。


「でも稀にその班でも口を割らせられない鉄腸漢が現れる事もあった。
そんな時は私が助太刀したよね」


コツコツという靴音は、扉の直ぐ目の前で止まる。


「私が訊いても口を閉ざした儘の捕虜が、1人でも居たっけ?」


ガチャリ。

探偵社では滅多に見せる事の無い暗い笑みを浮かべ乍ら、太宰はゆっくりと内鍵を閉めた。
元最年少幹部のその表情を見て、紅葉は思わず生唾を飲み込む。
太宰はパキッと指の骨を鳴らすと、腕を捲って歪な笑みを浮かべた。


「此処からは大人の時間だね」


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