12.
目が覚めると、見覚えのない天井が視界に入った。
―此処、何処なんだろう。
ぼんやりとした思考の中で、そう云えば片手にじんわりと温もりを感じるなと思った爽子は、ゆっくりと辺りを見渡す。
太宰治が眠っていた。
寝台の淵に片肘を着いて、うつらうつらと舟を漕いでいる。
もう片方の手は、爽子の手を握っていた。
「太宰さん……?」
そっと呼び掛けると、太宰はパッと目を開けて姿勢を正した。
「善かった、気が付いたんだね。御免、何時の間にか眠って仕舞っていたようだ」
「いえ、大丈夫です。えっと……此処は?」
「武装探偵社の医務室だよ。国木田君と谷崎君が、君を此処迄連れて来て呉れたんだ」
「っ、そうだ!ナオミちゃんと春野さんは−痛った!」
怪我の事も忘れて慌てて起き上がった爽子は、脇腹に走った痛みに思わず呻き声を上げた。
「大丈夫かい、爽?」
「っ、はい……。あの。それで―」
「ナオミちゃん達は無事だよ。組合に襲われた後に列車に乗った事務員さん達を、私と敦君で迎えに行ったんだ。まあ、其処でまたポートマフィアの襲撃にあったんだけど……取り敢えずはみんな心配無い。大きな怪我を負ったのは……君だけだ」
太宰はそう云って爽子の頬を両手で包み込む。
「御免……御免よ爽。君の事が組合にバレて仕舞ったのも、君をこんな目に遭わせて仕舞ったのも、間違い無く私の所為だ。私が……判断を間違えたからだ。もう、大切な人を失うのは厭だと、つい先日伝えたばかりなのに」
太宰はコツン、と爽子の額に自分の額を寄せる。
「そんなに気に病まないで下さい。私は大丈夫です。仕事の立場上こういう怪我を負う事は覚悟の上でしたし、組合に私の所在が割れるのも時間の問題でしたから」
「……如何してそんなにお人好しなんだい?君は私の事をもっと責めても善い筈なのに」
「太宰さんは私にそうして欲しいンですか?」
「否、別にそういう訳ではないのだけれど」
太宰は唇を尖らせてそう呟く。
―あ、可愛い。
普段は何方かと云えば大人びている太宰の子供っぽい一面を見て、爽子は思わずクスクス笑って仕舞った。
「……何で笑っているのさ」
「いえ、別に……。ふふっ」
「はぁ、全く……爽には敵わないな」
太宰はそう云い乍ら爽子の頭をクシャクシャと撫でる。
「それでね、爽。此処からが本題なのだけれど―」
太宰の言葉を遮るように医務室の扉が開いた。
「太宰、未だかい?そろそろ始めたいンだけどねェ」
「ああ、待たせて仕舞って済まないね、与謝野女医。もう始めて貰って構わないよ」
「……?」
太宰と与謝野の会話に置いてけぼりを食らった爽子は、一体何が始まるのかと眉を顰める。
「じゃあ、爽」
太宰は立ち上がると、爽やかな笑みを浮かべてこう云った。
「私は扶けてあげられないけど―頑張ってね」
「え、一寸太宰さん?」
爽子の脇を通り抜けていった太宰と入れ替わるように彼女の傍に来たのは、武装探偵社唯一の女医・与謝野晶子で。
「ふぅん……好い感じに怪我してるじゃないか」
掛け蒲団をばさりと剥がした上で服を捲った与謝野は、爽子の脇腹の傷を見てそう呟いた。
猛烈に嫌な予感を感じ取った爽子は、引き攣った笑みを浮かべて与謝野をじっと見つめる。
「あ……あの、与謝野女医?私此処の社員じゃないので、先生の偉大な異能を使ってまで怪我を治して頂かなくても大丈夫、というか……」
「何莫迦な事云ってンだい。私達は立場こそ違えど仲間じゃないか。それに……1回ヤッてみたかったンだ、女の子の治療」
「ひッ!?い、いえいえ!私は遠慮させて―」
「あーもう、アンタそれでも刑事かい?つべこべ云ってないで、好い加減腹括りな」
「否、別に刑事関係な―ぎゃああああああっっ」
「全く、色気の欠片も無い声だねェ」
……その日、探偵社設立以来初めて、与謝野の被害を受けた女の悲鳴が医務室に響き渡ったのだった。
◇◆◇
一方、その頃。
組合の襲撃を受け、白鯨(モビーディック)に連れ去られた中島敦は、団長のフランシスと対面していた。
フランシスは敦に対して、組合の目的が『本』探しである事を述べ、Qの異能とジョンの異能の連携(コンボ)で横浜を焼け野原にする事を話した。
「そう云えば、君に1つ、確かめたい事がある」
詛いの人形が厭な笑い声を響かせる中、フランシスはふと何かを思い出したかのように呟いた。
「君は、有吉爽子とは知り合いか?」
「!」
「その反応……矢張りスタインベック君の話は本当だったようだな」
小さく息を呑む敦を見て、フランシスはニヤリと顔に笑みを浮かべた。
「如何して貴方は、爽さんにそんなに拘るんだ?」
「君ももう知っているだろう?彼女が元々組合の暗殺者だったという話は。当時から、俺は爽の事を気に入っていたんだ。何処となく死んだ娘と重なる処があってな。勝手に組合を出て行った時は流石に頭に来たが……この地にいるのであれば問題は無い。横浜焼却作戦を実行し乍らあの娘を探して連れて帰るまでだ」
「でも爽さんはそんな事望んでない。あの人は、この街の人達を守りたいって云ってたんだ!」
「君の考えも彼女の意思も関係無い。俺は欲しいものは必ず手に入れる。どの道横浜焼却作戦は実行するんだ、君が何を云おうとな」
彼はそう云って不敵な微笑みを浮かべると、人形の頭を思い切り引き裂いた。
◇◆◇
「はぁー……」
爽子が治療を終えて医務室を出ると、何やら事務所の方が騒然としている事に気が付いた。
―若しや、また襲撃が?
爽子が慌てて其方に向かうと、何故か椅子に縛りつけられている国木田と、硬い表情を浮かべている太宰、与謝野、賢治の姿が目に入った。
「……国木田さん?如何したんで―」
「俺に近付くな爽!」
国木田の傍に寄ろうと一歩足を踏み出した処で、彼はピシャリと爽子にそう言い放った。
一体何事かと太宰の方に目を向けると、彼は爽子の心の声を読み取ったかのように「組合の襲撃だよ」と答えた。
「……襲撃?何があったんですか?」
「横浜の街全体が襲われてるみたいだねェ。外を見てみな、まるで地獄絵図だよ」
「え……」
与謝野の言葉に従って、爽子は恐る恐る窓に近付いて行く。
非道い有り様だった。
咽び泣く子供、悲鳴を上げている女性、逃げ惑う男性、その場に蹲っている老人……
トラックは横転し、建造物(ビルヂング)は瓦礫と化している。
―この儘じゃ、この街が焼け野原になる。
「……行かなきゃ」
踵を返して事務所を出て行こうとした爽子だったが、咄嗟に包帯だらけの手が彼女の手首を強く掴んだ。
「……何処に行く心算だい」
「何処って、決まってるじゃないですか。この街を、横浜の市民を守らないと」
「駄目だ。君は此処にいて」
「如何してですか!」
私は警察官なのに。
目の前でこの街の住民がこんなにも苦しんでいるのに。
そんな思いから、爽子はつい口調を荒げてしまう。
だが太宰は、そんな彼女とは対照的に、極めて冷静に口を開いた。
「君がこの街にいる事はもう組合の団長も知っている。この機会に君を浚おうと画策して来るかも知れない」
「っ、判ってます。そうだとしても、私は行きたい……ううん、行かなきゃいけないんです。この街が好きで―この街を守りたいから」
―今回だけは譲れない。
爽子はそんな思いも込めて太宰の目を真っ直ぐに見つめる。
「大丈夫です。自分の事は自分で如何にかします。だから……御免なさい」
爽子は太宰の手を振りほどき、走り出した。
◇◆◇
爽子が外に出て真っ先に目に入ったのは、泣きじゃくっている女の子の姿だった。
両手を顔に当て、声を上げて泣いている。
爽子は傍に近寄り、しゃがんで目線を合わせると、その娘に声を掛けた。
「如何したの?」
「う……うわああああん!ママー!!」
「お母さんとはぐれちゃったの?」
「ひっく、う、うん……ママ、ママどこ?」
女の子はそう云ってしゃくり上げている。
爽子はその娘の頭を撫で乍ら、笑顔を浮かべて優しく話し掛けた。
「そっか、分かった。お姉ちゃんが一緒に探してあげる」
「ほ、ほんと?」
「うん。お姉ちゃんこう見えてお巡りさんなんだよ」
「え!」
女の子の顔がパッと華やぐ。
「お巡りさんなら、ママのとこ、連れてってくれる?」
「うん」
爽子の反応に、女の子のビー玉のような瞳がキラキラと輝いた。
「わかった!あたし、お姉ちゃんと一緒にママのこと、探す!」
「うん。じゃあ、おてて繋ごっか」
爽子は女の子と手を繋ぎ、女の子から母親の話を聞きつつも周りの様子を伺う。
時々困った様子の夫婦や助けを求めている老人の傍に近寄って声を掛け、住民を次々と安全な方に避難させた。
そうこうする内に無事に女の子の家族とも再会し、爽子は女の子を母親に預けてその場を立ち去ろうとする。
「お姉ちゃん、有難う!あたし、お姉ちゃんみたいな優しい人になりたい!」
去り際に、その女の子に屈託のない笑みでそう云われた爽子は、ぶわりと胸の内が熱くなるのを感じた。
「うん、屹度なれるよ」
そして彼女は女の子の頭にポンと手を乗せてそう答える。
その娘の家族に頭を下げ、女の子にも手を振ると、爽子は表情を引き締めて街の中心部―最も被害が甚大だと思われている処に向かって歩き始めた。
―あれ?何だろう、これ……。
所々に置かれている可愛らしい顔の置き人形を横目に見つつ、爽子は足を早めて行く。
「……あ」
ふと、彼女は其処で足を止めた。
「交通網を死守しろ!襲ってくる奴は撃て!」
「此の侭だとうちが商売する場所まで灰になっちまう!首領の指示だ、死ぬ気で守れ!」
ポートマフィア幹部、中原中也の指示が飛ぶ。
彼を中心に、黒服の男達−ポートマフィアが動き回っていた。
―そうか。
―ポートマフィアにとっても、この街は守るに値する場所。その点に関しては、マフィアも探偵社も軍警も、皆同じなんだ。
そう気が付いた瞬間、爽子は中也の元に走り寄っていた。
「中也!」
声を掛けられた彼は、爽子の姿を捉えると大きく目を見開いた。
「爽!?如何して此処に……」
「私もこの街を守りに来たの。手伝うよ」
「否、一寸待てよ。俺等と手前は立場が……」
「立場は違えどやる事は同じ。……でしょ?」
中也は爽子の顔を暫く見つめていたが、「判った」と云って小さく頷いた。
「状況は?」
「電車が完全に機能停止しちまってる。道路は使えねェ事も無ェが、抑も車が横転してて使えねェ奴が住民の半分ってとこだ。歩きでの逃げ道は最低限確保出来てる」
「判った。じゃあ私は交通網が使えない人達を安全な処に誘導する」
「嗚呼、頼んだ」
爽子と中也は互いに頷き合い、それぞれやるべき事を行うべく動き始める。
「立原!ボーっと突っ立ってンじゃねェ!」
「すいません中也さん!今人虎に餓鬼の世話頼まれて……」
「人虎だと?」
中也は一瞬ピクリと反応を見せるが、特に気にも留めずに立原に新たに指示を出す。
「まァ佳い。餓鬼の世話なら樋口あたりに任せろ!」
◇◆◇
一方、白鯨(モビーディック)の中は、敦が牢から逃げた事、そして逃げ出した敦をトウェインが空対空カノンで狙っていた処、街の中心部にいた爽子を発見したという知らせでどよめいていた。
報告を聞いたフランシスは顎に手を当てて思案する。
空対空砲で狙えるのは、敦か爽子の1人のみ。
何方を優先すべきか―。
「……やむを得ん。今は虎人(リカント)が優先だ」
フランシスは苦々しげに呟くと、部下に敦を狙うように指示を出す。
そして、眼下に広がる横浜を見下ろしながら、1人こう呟いた。
「俺は必ず、お前を取り戻してみせる」
◇◆◇
爽子が市民を避難誘導していると、2つほど進んだ通りの方で空から集中的に銃弾の雨が降り注ぐのが見えた。
―あれは組合の襲撃。でも、一体誰を狙っているの?
そう云えば、と爽子は思い出す。
太宰は先程「組合は敦君を浚った、如何やら彼の事も狙っているようだ」と云っていた。
−詰まり、今狙われているのは敦君か。
爽子がそう結論づけた時、所々から桃色の煙のようなものが放出され、辺り一面がそれによって覆われた。
よく見ると、先程見かけた置き人形の頭部が開かれており、煙はそこから出されていたのだと判る。
太宰さんだ、と爽子は瞬時に悟った。
屹度彼は、敦が組合の拠点から抜け出し、街を救おうとするのを見越した上で、街中にあの人形を仕掛けていたのだろう。
「……敵わないなぁ」
爽子は空を仰ぎ、そう呟いた。
煙が晴れない内にこの場を離れなければ、今度は自分が組合に狙われるかも知れない。
直ぐに頭を切り替えた爽子は、さっさとその場から離れようとした。
「爽」
だが、丁度その機(タイミング)でその場に現れた中也が、彼女にそう声を掛ける。
「今の煙……恐らく太宰の木偶の仕業だろ。Qの異能も解除されたようだし……一体如何いう事だ?」
「説明してあげたいし、私も今回の騒動について中也に詳しく聞きたい処だけど、今は一寸……」
「急ぎなのか?」
「うん。一寸色々事情があって、視界が晴れる前に此処から離れないといけないの」
「……判った」
中也はそう云うと、彼女の方にずんずん近寄って来た。
「中也?え、ちょ、うわあああ!?」
「五月蠅ェ一寸我慢しろ」
何時の間にやら中也に横抱きにされていた爽子は、気付けば建造物の間をふわりふわりと舞っていた。
嗚呼、中也が異能を使っているのかと漸く気が付いた彼女は、ぎゅっ、と中也の外套を握り締める。
中也はチラリとそれを見て少し表情を緩めたが、何も云わずにただ飛び続けた。
そして辿り着いたのは、幾つかある中也のセーフハウスの中でも、最も人に知られていない処だった。
彼は素早く部屋の中に入ると、爽子をその場にそっと下ろす。
「事情は深く問わねェ。俺はまた街に戻る。落ち着いたら戻って来るから、爽はそれまで休んでろ」
「駄目だよ中也。私、警察官なのに―」
「バレなきゃ問題ねェ。それに、俺と爽があの侭話を続けていたら、それを目撃した部下に手前の事を問われていたかも知れねェだろ。手前自身何かから逃げたがってたみたいだし、取り敢えずは人目につかない処に身を隠しておいた方が安全だと思ったまでだ」
「それはそうだけど―」
「いいから、暫く休んどけ。いいな?」
中也はそう云って爽子の手に部屋の鍵を握らせると、そのまま外に出て行って仕舞った。
「如何したら良いの……」
鍵なんか持たされたら、此処から出る訳にもいかない。
爽子は呆然としたまま、今しがた中也が出て行ったばかりの扉を見つめていた。