13.

中原中也は急いでいた。
昼間の襲撃の事後処理に追われていたらすっかり帰りが遅くなって仕舞ったのだ。
中也は速足で家路に着き乍ら腕時計を見遣る。
時刻は深夜1時を廻った処で、明日も早朝から出社しなければならない。
否、それよりも先ずは爽子と話をしなければ。
彼は帽子を被り直すと、更に足早に歩き始めた。


◇◆◇


セーフハウスに着くと、中也は合鍵を取り出してそっと扉を開けた。


「爽」


中也は先程連れて来た彼女の名前を呼んで応接間に足を踏み入れる。
だが相手から反応が返って来る事はなく、中也はきょろきょろと辺りを見回しながら室内を歩き回った。
そして遂に、長椅子の前で足を止める。
爽子は長椅子に寝転がって眠っていた。
すぅ、と寝息に合わせて僅かに身体が上下している。


「寝ちまったか」


中也は彼女の寝顔を見乍らそう呟いた。

薄々予想はしていた。
すっかり帰りが遅くなって仕舞ったからだ。
だが、久し振りに爽子とゆっくり話がしたかったというのもまた事実で。
中也は苦笑いを浮かべ乍ら、爽子の頬をつん、と突いた。


「ん……中也?」


中也の存在に気が付いたのか、爽子は眠たそうにうっすらと眼を開ける。


「悪ィ、起こしちまったか」

「ううん……中也の事待ってたから、平気……」

「嘘吐け。今完全に寝てただろうが」


中也は爽子の頭を軽く小突く。


「取り敢えず寝ろ。俺の寝台使って善いから」

「ううん、大丈夫。私、今から家に帰るから」

「は?帰るってお前……今何時だと思ってるんだよ」


中也はそう云って壁に掛かっている時計を指差す。
時刻は深夜1時半を示していた。
爽子は時計をチラリと見遣ると、顔色一つ変えずに「もうこんな時間なんだ」と呟いた。


「何時だろうが関係無いよ。元々私は中也が家に帰ってきたら自分も帰宅する心算だったし、警察官の私がポートマフィアの幹部様の家に居ただなんてバレたら免職になっちゃう」

「だが、こんな夜中に女が1人で外歩き回ってたら危ねェだろ。手前が如何しても今から此処を出てくってンなら、俺は手前を家まで送って行く。そうしたら今よりも誰かに見つかる確率が高くなって、困るのはお互い様だぜ」

「じゃあ私の事送らなきゃ善いじゃん」

「だから、夜道を1人で歩くのは危ねェっつってんだろうが」

「放っといてよ。中也には其処迄私を心配する義理は無いでしょう?」


爽子は少し疲れたようにそう呟いた。


「……そんなに、俺といるのは厭か?」


暫しの沈黙の後、ポツリと中也が呟く。


「女々しい事を云ってる自覚はある。だが俺は今も−互いの立場が変わった今でも、ずっと爽とは友達でいたいって思ってンだよ。手前は違うのか?もう俺とは関わりたく無いと……そう思ってンのか?」


拳をぎゅっと握り締めて、彼は彼女にそう尋ねた。


「……私は、中也みたいにそんなに簡単に割り切れないよ」


小さな声で、爽子が呟く。


「暗殺者だった頃の昔の自分を棄てて、漸く自分が本当にやりたかった事を見つけて覚悟を決めたのに。ポートマフィアと敵対する立場だと判っていながら私はこの生き方を選んだっていうのに。如何して中也は私の覚悟が揺らぐような事ばっかり云うの?そんな事云われたら私、中也の優しさに甘えそうになっちゃうよ。折角覚悟を決めたっていうのに、私が私で居られなくなっちゃうじゃん」

「『覚悟』って何の覚悟だよ。もう俺とは一生話さないっていう、そういう覚悟か?」


中也は苛立ちを露わにして爽子に詰め寄った。
此れはかなり怒っている。
爽子は彼の瞳を見てそう直感する。


「何をそんなに思い詰めてンのかと話を聞いてりゃ阿呆な事ばかり抜かしやがって。『私が私で居られなくなる』だァ?莫迦か手前。元暗殺者だろうが呑み友達だろうが警察官だろうが、手前は昔からずっと手前だろうが。肩書き1つで手前の全てが決まンのか?そうじゃねェだろ。手前の『警察官』っつー肩書きは、手前を構成する要素の一部でしかねェんだよ。で、俺は警察官の爽と友達でいたい訳じゃねェ。只の有吉爽子と昔みたいに心を許せる友達でいたいだけだ。それでも俺を受け入れられないってか?」

「……そんなの、只の綺麗事だよ」

「嗚呼そうだ綺麗事だ。実際は社会的地位だとか矜持だとかが邪魔をして屹度以前の俺達のような関係に戻るのは難しいだろうよ。それがマフィアの幹部と正義感の強い警察官なら尚更だ。だが、友達でいたいと願う事の何が悪い?俺は唯自分の気持ちに素直になりたいだけだ。手前の本心は如何なんだよ?」

「……私、は、」


私は。


「……中也と他愛も無い話が出来なくなるのは、厭だよ」


−自分から勝手に別れを告げて、4年間も彼に会わなかった癖に。

心の中で自分に毒づいて、爽子は唇を噛み締める。


「じゃあもう答えは出てンだろうが」


爽子の後ろめたい思いなど気にも留めず、中也は溜息混じりにそう云った。


「……中也の莫迦」

「あ!?何でだよ!?」


暫しの沈黙の後、爽子が零した言葉に対して中也はすかさず咬み付く。


「だって、あんなに恰好好い事云われちゃったら、反論したくても出来ないじゃん。莫迦。狡い。中也の莫迦」


彼女はそう云ってから、恥ずかしそうに中也を見つめる。
そして−


「……ありがと」


片手の甲で唇を覆い乍ら、小さな、小さな声で紡がれたお礼の言葉。
中也はそれを見てほんの一瞬固まったが、直ぐにニコリと笑って「おう」と言葉を返した。


◇◆◇


翌日。
爽子が目を覚ますと、既に中也の姿は無かった。
早朝から仕事に出たのだろう。
私も早く出勤しなければ、と思った処で、昨日上司から『暫く仕事は休むように』という旨の電子郵便(メヱル)が届いていた事を思い出す。
恐らく探偵社が怪我の件を上司に報告したのだろう、と爽子は踏んでいた。

−如何しようかな。

本当は今すぐにでも此処を出た方が善いのだろうが、中也に何も告げずに勝手に彼の家を離れるのは流石に気が引けた。
……否、屹度そんなのは建前で、本当はもう少し中也と一緒に居たかっただけなのだ。
ポートマフィアの一員である彼と一緒に居られる機会なんて滅多に無いのだから。

−中也が此処に戻って来たら、少しだけ話をして帰ろう。

爽子はそう決めると、再び瞼を閉じて眠りに堕ちた。



結局、中也が帰って来たのは夕刻だった。


「お帰り、中也」


爽子が中也にそう告げると、彼は少し複雑そうな顔をしてから「只今」と告げた。


「昨日の襲撃の事後処理に追われてたんだよね。お疲れ様」

「嗚呼」

「本当は私も仕事に戻りたかったンだけど、上司に釘刺されちゃったの」

「そうか」

「街の様子は如何だった?もう大丈夫そう?」

「まあな」

「……一寸、中也?」


余りに気の抜けたような中也の返事を不審に思った爽子が彼の傍に近寄ると、彼は何処か落ち着かない様子で新しい仕事着を取り出している処だった。


「……中也、如何したの?」


爽子は思わず中也の手首を掴んでそう尋ねる。

パシッ。


「……え」


乾いた音が響いて、彼女の手は直ぐに振り払われた。


「っ、悪ィ」


中也はハッとしたような表情をしてから直ぐに申し訳なさそうな顔で眉尻を下げると、ぎゅっ、と爽子の手を握った。


「首領の命令で今夜デカい仕事が入った。だから、また外に出なくちゃなんねェ」

「あ……そう、なんだ」

「だから手前はもう帰れ。送って遣るから」

「うん。でも……」


−そんな不安定な状態の中也を置いては帰れないよ。

爽子の言葉を聞いた中也は、アイスブルーの瞳を僅かに見開く。


「だって中也、帰って来てから明らかに可笑しいよ。昨日の襲撃みたいな大規模な事件に遭遇しても冷静に対処できる程胆の据わっている人が、任務を命令されただけでそんなに落ち着きが無くなるだなんて。一体如何したの?」

「……手前には関係ねェ」

「中也!」


煮え切らない彼の態度にいよいよ頭に来た爽子は、中也の両肩を懸命に揺さぶって彼の返答を待った。


「……恐らく−俺の予想が当たっていれば、だが」


観念した中也は、ゆっくりと口を開いて話し始める。


「探偵社とポートマフィアは、対組合共同戦線として一時的な同盟を組んだ。そして今夜、俺は4年振りに、彼奴と……」


−一夜限りで、『双黒』を復活させる。


そう呟いた中也の声色には、戸惑いと、興奮と、若干の畏れが含まれていて。
未だ混乱しているであろう彼の横顔を見て、爽子は何も云う事が出来なかった。


ALICE+