15.

「送って下さって有難うございました」

「佳いよ。私が好きでやった事だから。
……中也を置いてけぼりに出来なかったのは少し不満だったけど」

「あはははは……」


中也への嫌悪感を露わにした発言に爽子は苦笑する。

あれから、太宰は中也を置いて爽子と共に帰ろうとしたのだが、爽子が中也を置いて行けないと言い張って聞かなかったのだ。
太宰は仕方なく中也を背負い、3人で帰路に着いた。
中也のセーフハウスの内の1つに辿り着くと、太宰はピッキングで難なく扉の鍵を開ける。
それから中也を寝台に横たえると、「爽は此処に残るの?」と尋ねた。
元よりその心算だった彼女は太宰の言葉に頷き、今は彼を見送るべく玄関に出て来た処である。


「ねえ、爽」


太宰は靴を履き乍ら爽子に声を掛ける。


「4年前に、一度だけ私に恋愛相談をしてくれたことがあったよね?」

「あー……ありましたね、そんな事」


爽子はぼんやりと記憶を辿ってそう答える。


「あの時君が『気になる』って云ってた男性って、若しかして中也?」

「え!?」


ぶわり、と爽子は頬を真っ赤に染める。
その様子を見た太宰は「矢っ張りね」と眉尻を下げて笑った。


「今は如何なの?中也の事、未だ気になっているのかい?」

「え……っと、如何なんでしょう?」

「何で疑問形なのさ」


自分の事じゃない、と云って、太宰は呆れたように肩を竦める。


「だって中也に会ったのは4年振りな訳ですし、昨日まではお互い気拙い儘だったから……。それに、今は組合の件で、そういう事を考えている余裕が無いというか……」

「『余裕が無い』なんて云うのは唯の云い訳だよ。そんな事を云っていたら、年がら年中『余裕が無い』で終わって仕舞うじゃない」

「うっ」


太宰に痛い処を突かれた爽子は、思い切り顔を顰めて声を漏らした。


「でもまぁ、その様子だと……私にも未だ機会(チャンス)が有る、って捉えても佳いのかな?」

「え?」

「じゃあね」


太宰は意味ありげな言葉を残して玄関の扉を開ける。


「一寸、太宰さん!?」


爽子は慌てて太宰の後を追い掛けたが、彼はひらひらと手を振り乍ら其の場を立ち去って仕舞った。


「……」


爽子は口元を隠して座り込む。
恋愛に疎い彼女とて、先刻の太宰の言葉の意味が解らない程鈍感では無い。


「……狡いなァ」


この時機(タイミング)で、そんな爪痕を残して去るなんて。

−次に会う時、一体どんな顔をすれば善いんだろう。

爽子は新たな悩みによって鈍く痛む頭を押さえ乍ら、中也の部屋に戻ったのだった。


◇◆◇


夜が明けるには程遠い寅の刻。
中原中也はゆっくりと瞼を開けた。
見覚えのある天井が目の前に映り、嗚呼、此処は自分のセーフハウスか、とぼんやりとした頭で考える。

−そういや、俺はあの後如何やって此処まで来たんだ?

ふとそんな疑問が思い浮かんだ処で、中也は初めて自分の手を握る温もりの存在に気が付いた。


「……!」


ゆっくりと身体を起こした処で息を呑む。
そこにいたのは、先刻迄自分達と一緒にいた有吉爽子だった。
彼女は中也の手を握り締め乍ら、ベッドの脇でうつらうつらと舟を漕いでいる。
その姿を見て、中也の中で何か強烈なものがぶわりと込み上げた。
反対側の手を爽子に向かって伸ばしてその髪を弄び乍ら、中也は小さく彼女の名前を呼ぶ。


「爽……」


中也はふと、彼女に初めて会った時の事を思い出す。

初めて爽子を見掛けたのは、彼女が4年前迄働いていた居酒屋だった。
仕事帰りに初めて立ち寄ったその店で、偶然自分に料理を運んで来て呉れた女。
愛想の好い笑みを浮かべ、親しみやすさも持っているのに、ふとした瞬間に見せる寂鬱な表情に釘付けになった。
彼女の醸し出す雰囲気が、少しだけあのいけ好かない相棒に似ている気がして、でもあの相棒が兼ね備えているような胡散臭さは持っていなくて。
気が付いたら、中也は頻繁に店に足を運び、視線で爽子を追っていた。
でも、初めて店を訪れた日以来、彼女が中也の元に料理を運んでくる機会は訪れなかった。


『あの娘が気になるのかい?』


店に足を運んで1週間が経った頃、突然店長が中也にそう話し掛けて来た。


『……まぁな』


誤魔化しても仕方ない、そう判断した中也は、渋い顔で店長にそう答える。


『善かったら、少し話してみるかい?』

『え?』


中也がその問いに答える前に、店長は彼の傍を離れて爽子の方に歩み寄った。
そして彼女に何かを告げると、自分は奥の調理場に引っ込んで仕舞う。
その後、片手に品書き(メニュー)を抱えて真っ直ぐに此方に向かって来る爽子を盗み見て、中也は慌てて目を反らした。


『お客様、此方の品書きもご覧になりますか?』


自分を見つめて来る宝石のような瞳。
ぱちぱちと瞬きする度に揺れる長い睫毛。
記憶していたものよりも少し低くて落ち着きのある声。
中也はじんわりと赤くなった顔を酒の所為だと誤魔化すかのように、グイッ、と葡萄酒の入っていた杯を呑み干した。


『……アンタ、何時も此処で働いてるよな』

『え……はぁ、丁度一週間ほど前に入ったもので』


戸惑う爽子の声色を聞いて、中也はハッと我に返る。

−此れじゃまるで、俺が此奴の事口説いてるみたいじゃねェか!


『悪ィ、別に軟派とかじゃねェんだ』


中也が慌ててそう付け足すと、爽子は再び目をぱちくりと瞬くと、クスリ、と口元を覆って小さく笑った。


『そんなに慌てて弁解しなくても大丈夫ですよ、お客様。お客様の方こそ、何時も当店をご利用くださっていますよね』

『え……俺が此処に通ってる事、知ってたのか?』

『そりゃ、毎日足を運んで下さるお客様の顔なら、顔を覚えて仕舞うのも当然かと』

『……』


その答えを聞いて、中也は少しだけ胸に閊(つか)えていたモノが無くなったような気がした。
スッ、と息を吸い込むと、初めて顔を上げて彼女を真っ直ぐ射抜き、口を開く。


『……俺は中原中也。手前の名前は?』



今思えば、あれは一目惚れに近かったのかも知れない、と彼は思う。
普段はそんなものなど鼻で笑い飛ばすような中也だが、彼女に関してはその言葉が一番当て嵌まっているように思えた。
あの出会いから約4年。
この4年の間で自分にも色々な事があったように、屹度彼女にも様々な事があったのだろう。
その結果、中原中也と有吉爽子は、決して交わる事の無い道を選んで仕舞った。

若し、と中也は思う。

−若しも俺が、太宰のように光の当たる世界を選んで生きていたのなら。


「……下らねェ」


−否、有り得ねェ。

中也は自嘲気味に笑ってから煙草の火を灯けた。

−俺は、ポートマフィアに絶対的忠誠を誓った身だ。
−だから、姐さんや首領を棄てて、今更彼処を離れる事なんざ出来ねェ。

フッ、と白い煙が彼の口から零れ落ちる。
それでも彼は、此の4年間で彼女を忘れた事など無かった。
彼女と縁の有る織田が死んだという話を聞いても、太宰が彼の前から姿を消しても、爽子の面影は一向に消えて呉れなかった。


「……チッ」


中也は小さく舌打ちをすると、くしゃりと顔を歪めて煙草を灰皿にグリグリと押し付ける。

『友達でいたいと思う事の何が悪い?』
『俺は唯、自分の気持ちに素直でいたいだけだ』

つい先日、『警察官とポートマフィア幹部は関わってはいけない』と遠回しに告げて来た彼女に対し、確かに中也はそう云った。
だが、所詮それは綺麗事。
あの日中也が彼女に捲し立てた反論は、一時凌ぎにしかなり得ない。
幾ら中也と爽子がそう願っていた処で、突き付けられた残酷な現実を前にしては、どんな理想も、思いも、無残に消え去って仕舞うのだ。
それを互いに理解しつつも、2人の奥底に潜む共通の思いから、今は2人の間では和解した心算になっている。
だが、何時までも此の侭でいられる訳がない。

−でも……じゃあ、如何しろってンだよ?

中也はぐっと唇を噛み締める。
そして両手で爽子の手をぎゅっ、と握ると、眠る彼女の額に自らの額をそっと重ね合わせた。


「俺は……ずっと手前の事が……」


聞いている者の胸が痛くなるような、弱々しい声。
その声は誰にも−目の前で瞳を閉じている彼女にすら、届かない。


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