16.

翌朝。
中也が目覚めると、昨夜は傍らで眠っていた筈の爽子が姿を消している事に気が付いた。
真逆彼女はもう出て行って仕舞ったのか、と中也は急激に不安になり、寝台から身を起こして急ぎ足で居間の方へと向かう。


「あ、中也。おはよう」


ガチャリ、と扉を開けて顔を覗かせると、台所に立って作業をしていた爽子が中也の方に向かって歩いて来た。
中也は爽子が未だ自分の部屋にいるという事実に思考が付いて行かない乍らも、呆然と彼女に挨拶を返す。


「……手前、未だ帰って無かったンだな」


中也がそう呟くと、彼女は少し気拙そうに眼を逸らしてから「御免」と呟いた。


「本当は帰ろうかとも思ったンだけど、中也に黙って帰るのは申し訳無いなって思ったの。
……それに、先刻太宰さんから連絡が来て、『1人で出歩くのは禁止』って釘を刺されちゃった」


眉尻を下げて微笑む彼女に、中也は「構やしねェよ」と云ってひらひらと手を振る。


「その代わりと云っちゃなんだけど、簡単に朝御飯作ったの。善かったら食べない?」

「朝飯?……手前がか?」

「うん。……あんまり人ん家の冷蔵庫漁るのも善くないかなと思ったから、本当に簡単な物しか作ってないけど」


そう云って爽子は不安そうな面持ちで中也を見上げる。


「爽が俺の為に作って呉れたンだろ?そんなの遠慮無く頂戴するに決まってンだろーが」

「本当!?じゃあ座って待ってて、もう少しで出来るから」


中也の答えを聞いて向日葵の如く輝くような笑顔を見せた彼女は、パタパタと部屋履き(スリッパ)の音を響かせて台所へと戻って行った。
中也はそんな彼女の後ろ姿を見て柔らかな笑みを浮かべると、「一寸着替えて来る」と爽子に告げて再び寝室へと戻る。
数分後、着替えを済ませた中也が再び居間に姿を現すと、何時の間にやら机の上には食べ物と食器が用意されていた。
トースト、ソーセージ、スクランブルエッグとサラダという確かに簡易な朝御飯ではあるものの、食欲を唆(そそ)るその匂いに、彼はゴクリと唾を呑み込む。


「戴きます」


中也が手を合わせてから箸を手に取ると、爽子は無邪気な笑みを浮かべて中也の向かい側に腰掛ける。


「中也ってさ、結構礼儀正しいとこあるよね」

「あ?……如何いう事だ?」

「ほら、食事の前後とかはちゃんと挨拶するし、律儀なところもあるじゃない?そういうのって普段から身に着けてないと出来ない事だから、凄いなって思って」

「あー……多分、俺を育てて呉れた姐さんの影響だな。姐さんは礼儀作法に厳しい処があったから」

「それって若しかして紅葉さんの事?」


爽子が彼にそう尋ねると、彼は口元に運びかけていたスクランブルエッグの欠片を皿にポロリと落とした。
それから瞳をぱちぱちと瞬かせると、「姐さんの事を知ってるのか?」と静かに尋ねる。


「実は……紅葉さんが探偵社に捕えられてた時に、太宰さんが彼女に会わせて呉れたの。その時、中也の話も少しだけ聞いたんだよ」

「そう、なのか……。因みに、どんな話を聞いたんだ?」

「えーっと……内緒」

「何だそりゃ」


中也は呆れたような口調でそう呟くと、再びスクランブルエッグを口に運ぶ。


「ん、美味ェな」

「本当?口に合ったみたいで善かった」


中也の言葉を聞いた爽子は、安堵の表情で彼に答えを返した。


「中也はこれからどうするの?」

「暫くは組合の横浜焼却作戦の件の雑務処理に追われる事になるだろうな。今回の件はポートマフィアだけに限らずヨコハマにも大きな爪痕を遺した。若しかしたら彼方さんの首領の討伐に駆り出される事になるのかもしれねェが……それは首領の判断次第だな。
手前の方こそ如何するんだよ?」


中也はそう言ってじっと爽子の顔を見詰める。


「太宰の野郎に外出は控えろって云われたンだろ?その様子じゃ仕事にも行けそうにねェ。……暫く此処に住むか?」

「え……」


中也の提案に、爽子は明らかに困ったような表情を浮かべる。
本音を云えば、彼からの提案はとても嬉しい。
でもだからと云って、何時までも中也に甘える訳にはいかないという思いもあった。


「……悪ィ、今のは忘れて呉れ」


彼女の困惑したような顔を見た瞬間、中也は伏し目がちにそう呟く。


「……明日迄、此処にいちゃ駄目かな?何日もお世話になってたんだもん、夕飯は私が何か作ってご馳走したいな、なんて……」

「!あ、嗚呼……佳いぜ。楽しみにしてる」

「うん。有難う、中也」


明らかに表情が明るくなった彼を見て、爽子の口許も自然と緩む。
それから中也は身支度を調えると、帽子を被ってから爽子に声を掛けた。


「じゃあ、俺は仕事に行って来る。危ないから外には出るなよ」

「うん、判った。玄関まで送るね」


そう言って彼女は椅子から立ち上がり、先に玄関に向かった中也の後に続いた。


「行ってらっしゃい、中也」

「嗚呼、行って来る」


中也はひらひらと手を振り乍ら外に出て行った。
パタンと軽い音を立てて扉が閉まる。
その瞬間、爽子は両手で顔を覆ってへにゃりとその場に座り込んだ。


「如何しよう……否、こんな事云ってる場合じゃないんだけど、」


―今の遣り取り……まるで新婚みた……い……?

心の中でそう呟いた瞬間、カァッと顔に熱が集まる。


「って何考えてンの莫迦じゃないの私……痛ッたい!」


自分を叱咤すべく自らの手を使って額をピシャリと叩いたものの、力の加減が上手く出来ておらず、存外に痛かったようだ。


「あーもう変に意識しないようにしてたのに……」


―太宰さんの莫迦!

誰の所為でもない事は分かっていながらも、むしゃくしゃした感情のやり場に困り、今此の場にいない太宰に八つ当たりの言葉を残す。
そして爽子はヒリヒリと痛む額を手で押さえ乍ら、再び居間に戻ったのだった。

因みに、扉の向こう側にいる男も、暫くの間片手で口元を押さえ乍らその場でしゃがみ込んでいたらしいのだが−彼女にはそれを知る由もない。





中也が家を出てから数時間が経ち、そろそろ夕刻に差し掛かるだろうという頃合いになった。
家から出るなと家主に言われたものの、爽子は組合との抗争の火種が未だに街に燻り続けている中で落ち着いて過ごせる性分ではない。
だが、自分が外に出て行ったところでどうすることもできないのもまた事実で、彼女は何もできないもどかしさに唇を噛んで地団駄を踏んでいた。

―外に出られないなら、屋内で何かできることをしよう。

そう思い立った爽子は、携帯用の電子端末を使って情報を集める事にする。
探偵社やポートマフィアの情報網に潜り込むことは恐らく不可能だが、若しかしたら嘗て自分が所属していた組合の情報なら何か掴む事が出来るかも知れない。
組合を抜けてから4年半という歳月が流れている為、サーバーや暗証番号(パスコード)も変わって仕舞っているかもしれないが。
兎にも角にも、頭の片隅から記憶を手繰り寄せ、組合のデータベースにアクセスしようと試みると、そこに忍び込むには思いの外簡単で−否、余りにも『簡単すぎて』、彼女は作業の途中で思わず手を止めた。

―おかしい。
―私が組合にいたあの頃と、システムのセキュリティが全く同じだなんて。


「ッ、やられた!」


辿り着いた答えはただ1つ、それに気がついた瞬間彼女は玄関に向かって走り出していた。

―此処に居てはいけない。居場所がバレて仕舞う。

あのデータベースは恐らく偽物(ダミー)。
有吉爽子をおびき寄せる為の罠だったのだ。
フランシスは爽子が組合の情報を引き抜こうと目論む事を見越し、偽物のデータベースを用意してそこに侵入するように彼女を誘導した。
偽物のデータベースにアクセスした瞬間、彼女の携帯用電子端末の情報−主に位置情報が組合に漏洩する、という仕組みだ。
これらは全て爽子の想像に過ぎないが、きっと限りなく事実に近い想像であると彼女は確信していた。
だからこそ、自分の所為で中也に迷惑を掛けないように、彼女は彼のセーフハウスを飛び出したのだ。
一目散に部屋から出た爽子は、メモリを引き抜いてから片手に持っていた携帯用電子端末を川に向かって放り投げた。
これで彼女の位置情報は分からなくなった筈だ。
だが、凡その居場所は既に相手に漏れている。一刻も早くこの場を離れなければならない。
表通りに出た爽子は、道端に停めてあった一台の乗用車に乗り込んでアクセルを踏み込んだ。
目的地はただ1つ、武装探偵社だ。
車を走らせながら、爽子は組合のどのメンバーが自分に奇襲を掛けに来るのかと考えを巡らせていた。
マーガレットは意識不明の重体で、ナサニエルは行方不明。
昨日の今日でジョンとラヴクラフトが来るとも思えないし、ルーシーは現在組合の構成員としては雇われていない筈。
残りの構成員で、奇襲に長けた異能を持つ人物がいるとするのならば―


「……マークかな」


そう呟いた瞬間、派手な音と共に『何か』が車体の上に落ちて来て、車の天井を凹ませた。
爽子はその『何か』を車から振り落とすべく、ハンドルを切って車体を180度旋回させる。


「−10万$」


聞きたくなかったその声と共に車の天井に穴が開いて、後部席に『彼』が降りて来た。
動揺の余り急ブレーキを踏んで仕舞った爽子は、後ろを振り返る間も無く背後の人物に後頭部を殴られる。


「……逢いたかったよ、爽」


慈愛さえ感じさせる笑みを浮かべたその男―フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドは、腕の中で気を失う爽子を見詰め乍らそう呟いた。


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