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35時間目
イリーナ・イエラビッチが暗殺教室を去った。
数日前、イリーナは好意を寄せている烏間が自分の誕生日を祝ってくれなかった事に対して不満気な態度を示していた。
そこで3年E組の生徒達は、夏休みの合宿の時のように、イリーナと烏間の仲を取り持ってやろうと、彼女に隠れてこっそり画策した。
だが烏間に「色恋に現を抜かすような暗殺者は暗殺教室(ここ)で仕事をする資格がない」と遠回しに言われ、イリーナは目が覚めたと言葉を残して教室を出て行ってしまったのだ。
それから3日が過ぎたが、未だに彼女が帰ってくる気配はない。
イリーナの所在を心配する生徒達を余所に、烏間は次の殺し屋との面接があるからと早々に教室を出て行ってしまった。
おまけに殺せんせーは、サッカーの決勝戦を見る為にブラジルへと飛び立つ始末。
「こんなんでバイバイとか無いよな」とこぼした千葉の後に続き、誰かが「そんな事はないよ」と話を続けた。
「そう、君達と彼女の間には十分な絆が出来ている」
「それは下調べで確認済みだ」
「僕はそれを利用させてもらうだけ」
「……!!?」
その人物が教卓に立って初めて、皆はその存在に気が付いた。
平然と……その人は平然と、教室に溶け込んできたのだ。
「初めまして。僕は『死神』と呼ばれる殺し屋です。
今から君達に授業をしたいと思います」
ふわり、と、彼は花のように優しく微笑んだ。
花束を手に入って来た彼−死神は、つい先日渚達が寄った花屋の青年だったのだ。
何処までも柔和なその青年の微笑みが逆に恐ろしく、教室内に一気に緊張が走る。
何も言えずに固まる生徒達に、死神はにこりと愛想のいい笑みを浮かべながらこう言った。
「手短に言います。彼女の命を守りたければ、先生方には決して言わず、君達全員で僕が指定する場所に来なさい。
来たくなければ来なくていいよ。その時は彼女の方を君達に届けます。全員に平等に行き渡るように『小分け』にして」
死神は黒板に描いた女性の身体に何本も線を加える。
「……おうおう兄ちゃん、好き勝手くっちゃべってくれてっけどよ、別に俺等は助ける義理ねーんだぜ、あんな高飛車ビッチ」
そんな彼に一番に啖呵を切ったのは寺坂竜馬だった。
「自分達へ危害を加えようとすれば烏間や殺せんせーが黙っていない」「そもそもここで3年E組の生徒達に倒される事は予想していなかったのか」と寺坂は言葉を続ける。
「不正解です寺坂君。それらは全部間違ってる」
死神は言う。
君達は自分達で思っている以上にイリーナの事が好きなのだと。
だから、話し合っても見捨てるという結論には決して至らないだろうと。
「そして、人間が死神を刈り取る事などできはしない」
彼はそう言ってにこりと笑った。
―え?
その時、赤羽業は死神の微笑みを見て不穏なものを感じ取る。
終始穏やかに微笑んでいる死神だったが、その彼が一瞬花澄に鋭い視線を送ったような気がしたからだ。
そう、それはまるで−彼女を捕食しようと目論む肉食動物のように。
「花澄ッ!」
咄嗟にカルマが花澄に手を伸ばすも一足遅かった。
彼女は死神と共に忽然と消えてしまったのだ。
はらはらと空に散らばる花弁のみを残して。
あまりに突然の事態に、誰もが口をあんぐりと開いて呆然としている。
花弁の間から現れた地図が、言葉を失うE組の生徒達を嘲笑うかのようにパサリと床に舞い落ちていた。
ぽたり、ぽたり。
何処かで雫が垂れる音が聞こえる。
若山花澄が重い瞼を何とか開くと、いくつかの部屋の様子を写しているモニターが目に入った。
監視カメラの映像なのだろう。
不意に手首に違和感を感じて、ゆっくりと手を持ち上げる。
じゃらり、と鎖が鳴り、彼女は自分が拘束されて壁に繋がれているのだという事を悟った。
―でも……誰が、何のために?
花澄はぼんやりと何が起こったのかを思い出す。
死神と呼ばれる男が自分の教室に来て、イリーナを救いたかったらクラス全員で指定された場所に来い、と言って。
その後、急に『何か』が迫って来て、それに腕を引っ張られた直後、誰かが焦ったように自分の名前を呼ぶのを聞いた気がする。
そこから先は気を失っていたようで記憶がないが、その間にどこかに連れ去られたのだろう。
「気が付いたみたいだね」
聞き覚えのある穏やかな声に、花澄はびくりと肩を震わせた。
顔を上げると、先程教室で自分達を脅した張本人が、にこにこと笑みを湛(たた)えてこちらを見下ろしている。
「死、神……」
「うん、その通り」
彼はのんびりとした口調で頷いた。
「何で、どうして私……。それより、ここはどこ……ですか?」
「ごめんね、いきなり連れて来たからびっくりしちゃったよね」
死神は花澄の質問には答えずにそう言った。
「……質問に答えて下さい」
彼女はキッと死神を睨みつける。
彼は相変わらず表情が読めない笑みを浮かべていたが、フッと小さく笑って口を開いた。
「ここは地下にある僕のアジトだよ。心配しなくても、君のクラスメイトもちゃんと招待してある。そして、君をここに連れて来たのは……僕が君を弟子にスカウトしようと思ったからさ」
「は……?」
花澄は死神の言葉に眉を顰めた。
「ふふっ、『信じられない』って顔をしてるね。でも僕は本気だよ」
「……何で、私を?」
「君になら、僕の技術(スキル)を提供してもいいと思えたからさ」
死神はしゃがみ込んで花澄と視線を合わせる。
「最近は鳴りを潜めてるけど、花澄ちゃんには殺し屋の才能がある。ほら、夏休みの南の島での出来事、覚えてる?君にはね、自分にとって大切な人が傷つくと、何もかもを捨てて躊躇いも無く相手を殺そうと出来る『強さ』があるんだ。クラスメイトがイリーナに馬鹿にされた時もそうだった。花澄ちゃんは躊躇いも無くイリーナに銃口を向けて、本気で彼女を殺そうとしたよね。感情的になりすぎて理性まで捨て去ってしまいがちなところもあるけど、そこは今後のトレーニング次第で何とでもなる。だからさ……僕の弟子になってよ、花澄ちゃん」
「お断りします」
花澄は間髪入れずにそう答えた。
「確かに私は、自分の大切な人が傷つくと我を忘れて暴走する事がありました。でも、それは昔の話です。あの南の島で、私はこの力に頼って暗殺を続けちゃ駄目だって気が付いたんです。だから私は、自分の大切なモノが傷ついても、もう二度とあんな思いを抱かないようにしたい。私があの頃抱いていた殺意は殺人犯のそれと同じであって、暗殺者が抱いていいものじゃないから」
「……ふうん、そっか」
死神は眉尻を下げて残念そうに呟いた。
「少しタイミングが遅かったかな。夏休み前に君を浚っていれば、こんな事にはなっていなかったのかもしれないね」
でもね、と死神は続ける。
「さっきも言った通り、花澄ちゃんは自分のクラスメイトをとっても大事にしている子だ。だから、もし君のお友達が危険に晒されるような事態になるなら……きっと花澄ちゃんは僕に協力してくれるはずだよね?」
「!」
何でもないことのように伝えられたその言葉に、花澄は大きく目を見開く。
「何を、言って……そんな事が、許されると思ってるの?」
「潮田渚君……だっけ?君の幼馴染の男の子。ああそれとも、赤羽業君の方がいいのかな」
「ッ!?」
「あ、後者の方が反応が大きかったね。じゃあ人質は彼にしようか」
ドクン、と彼女の心臓が悲鳴を上げた。
顔から血の気が失せてきているのが自分でも分かる。
「カルマに……何をするつもりなの?」
震える声でそう尋ねると、死神は今までで一番綺麗に笑った。
「花澄ちゃんが僕の言う事に従ってくれなかったら、君の目の前で赤羽業君を殺します」