短編
抑(そもそ)も私は逃げられない

バレた。
逃げなきゃ。

私は其の情報を聞くや否や、直ぐにその場を離れた。





私はポートマフィアに属する一介の下級構成員だ。
―否、正確には、つい先程まで下級構成員の『フリ』をしていた。
私は謂わば、ポートマフィアに潜入していた裏切り者のスパイ、といったところだ。
本来の私は、西方の小さな異能力集団が属する組織の情報員である。
3ヶ月前、唐突にポートマフィアへの潜入を言い渡された私は、とある幹部様の下に着き、其の人の部下として働きつつ、マフィアの情報を自分の首領の元に横流ししていたのだ。

だが、正体がバレたとなると。
私は一刻も早くこの場から逃げ出さなくてはならない。
何故なら此の職場での私の上司は、とんでもなく強い異能力者なのだから。





取り敢えず化粧室に駆け込み、何時も念のために持ち歩いていたスーツに着替える。
眼鏡を外してウィッグを被ると、今迄の地味で目立たない如何にも真面目そうな姿とは一変し、ショートヘアで快活そうなイメージのボーイッシュな女性像が完成した。

中々に手抜きな変装だが、此れなら、屹度誤魔化せる。

マフィアの本拠地はセキュリティが厳しい。
有らゆる場所に警備員がおり、本人確認の為の機械によるセキュリティチェックも細かく執り行われる。
だからこそ、私は調べておいたのだ。
そう云うセキュリティを突破せずともロビーまで行くことが出来る脱出ルートを。
変装をしたのは保険だ。
念には念を、と云う言葉の通りに、私は何時でも完璧に脱出出来るように、慎重に物事を進めていた。

大丈夫。屹度逃げられる。

私は化粧室の個室の空気口によじ登ると、予め脳内に叩き込んであった地図を思い出しながら、這うようにして目的地へと進んだ。


15分後。
私はロビーに1番近い男子化粧室の空気口に辿り着いていた。
慎重に蓋を開け、下を見回す。
幸い、今は化粧室には誰もいないようだった。
例え誰かが入って来たとしても、いざとなったら男の振りも出来るような変装にしてある。
私はなるべく音を立てないようにして下にワイヤーを垂らすと、するすると一気に下に滑り降りた。

よし、あとは何食わぬ顔で外に出れば−


「よォ」


突如、背後から声がした。

此の声のには少し……否、物凄く聞き覚えがある。
何故なら私は、つい先程まで此の声の主の直属の部下として働いていたのだから。
ギギギ、と音がしそうな動きで後ろを振り返ると、1番会いたく無かった人物が其処にいた。


「あー、っと……。中原幹部、お疲れ様です」

「ンだよ手前其の気持ち悪ィ呼び方は。つい先刻まで俺の部下『だった』じゃねェか」


えッ嘘バレてる。


「えッと……何の話、ですかね」

「あァ?手前未だしらばっくれる心算かよ。俺が自分の部下の変装位見破れねェとでも思ってンのか?」


流石は五大幹部殿、如何やら私は此の男、中原中也を甘く見ていたらしい。


「否、だから人違いですってば。わた……『俺』は貴方の部下なんかじゃ有りません」

「あァそうかよ。手前がみょうじなまえじゃねェっつーんなら、一体手前は誰なんだ?」

「えッと……中原幹部に名乗る程の者じゃ無いんで、失礼します!」


『逃げるは恥だが役に立つ』。
私は前に立ちはだかる此の男を避け、慌てて其の場を立ち去ろうとした。


「まァ一寸待てよ裏切り者」


目の前にいる幹部様は軽い口調でそう云うや否や、鮮やかとも云える動きで思い切り壁に向かって蹴りを入れた。
物凄い衝撃音と共に壁が揺れる。


「ひッ」


恐る恐る閉じていた目を開けると、私の前を通せんぼをするように伸ばされた彼の片足は、壁にくっきりとヒビを作っていた。

何と云うか、アレだ。
此れは相当ヤバい奴だ。


「あの……中原幹部?『裏切り者』って一体全体何の事ですか?」

「だから其の呼び方辞めろッつってんだろ。あと何時迄しらばっくれる心算だ手前」

「しらばっくれるも何も、俺は本当に何も知らないんです」

「……そうかよ」


幹部殿はそう云うと足を下ろす。
漸く引き下がったか、と私が胸を撫で下ろしたのも束の間、


「え」


思わず間抜けな声が出た。

あ、私壁に押し付けられたんだ、と認識した途端、あの人が一気に距離を詰めてくる。

ガチリ、と何かがぶつかり合うような音がした。
目の前は真っ暗だが、頭の中は真っ白だ。


「!?」


驚いて口を開けたのが災いした。
彼はにんまりと口角を上げると、私が口を開けた瞬間、狙ったと謂わんばかりに舌を捩じ込む。


「ん、ぅ!?ちゅ……や、さんッ、待っ……!」


つーっと、私の口から透明な糸が垂れる。
中也さんは私の言い分には全く耳を貸さず、其の儘貪るように唇に噛み付いた。


「ッ、」


息が、出来ない。


「ハッ、そんな女々しい面して善く『俺』だなんて云えたモンだな」


中也さんは瞳をギラつかせながら私の耳元でそう囁いた。
態とらしい程色気を含んだ低い声に、私の背筋をぞくぞくしたものが這い上がる。


―嗚呼、敵わないや。


『逃げるは恥だが役に立つ』。


だが其れは、逃げることが出来れば、という事実が前提だ。

獲物を狩るような目付きで不敵に笑う中也さんを見て、私は自分が逃れられない事を悟った。

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