短編
狡い人

(※名前変換なし)





気になる女が、いる。

誤解の無いように云って置くが、『気になる』と云うのは異性としての意味では無い。

其奴の歌う歌が、声が、詞が、表情が、如何しようも無く俺の心を揺さぶるのだ。


其奴は、所謂ストリヰトミュージシャンだった。
俺が初めて彼女を見たのは約半年前の事だ。
其の日、長期任務を終えた俺は、首領の処に報告書を提出する為に、ポートマフィアの本部に向かっていた。

偶には遠回りしてみるか。

そう思ったのは唯の気紛れ。

象の鼻パークに差し掛かり、園内を歩いていた時だった。

歌が聴こえたのだ。

何とも物悲しい、其れでいて、何処か優しい歌声が。


気が付いたら、俺は其の声を求めて足を早めていた。

俺が探し求めていた其の人物は、ひっそりと、こっそりと、まるで誰にも気付かれたくないかのやうに、公園の片隅に佇んで歌っていた。
其奴の歌う歌は、声は、詞は、表情は、余りにも儚くて、切なくて、苦しげで。

不意に、俺の頬を熱い何かが滑り落ちて行った。

歌い終わった其奴は、俺の方を見ると、「聴いてくれて有難う」と、吃驚する位綺麗に笑って見せた。

でも、如何してだろう。

飛んでも無く綺麗な其の笑顔は、俺には触れたら直ぐに壊れてしまいそうな位危うく見えた。


「……明日も此処で歌って呉れるか?」


突然俺が放った言葉に、其の女は目を瞬かせる。


「……うん」


女は直ぐに笑顔を作って、そう頷いた。





其れからと云うもの、俺は毎日彼女の歌を聴く為に、象の鼻パークに足を運んでいた。
雨の日は傘を差してでも聴きに行ったし、茹だるような暑い日も凍えるやうに寒い日も彼女の処を訪れた。
風が強い日は、飛ばされそうになる外套を引っ掴み、帽子を頭に押さえ付けてでも聴きに行った。
彼女が歌う歌は何時も同じだったが、俺は厭きる事無く毎日其の歌に聴き惚れていた。
初めは唯々悲しそうに歌っていた彼女だったが、其れは次第に変わっていき、何処か慈しみを帯びたやうな、誰か愛しい人に対して言葉を紡ぐやうな、そんな歌い方になっていった。


「……手前は、歌手になりたいのか?」


今日も今日とて彼女の歌を聴きに来ていた俺は、彼女が歌い終わるや否や、ずっと気になっていた事を思い切って聞いてみた。


「……そうだね。そう夢見ていた時期も、無かった訳じゃないよ」


言葉を濁してにこりと微笑んだ彼女の笑顔は余りにも痛々しくて、俺は踏み込んではいけない領域を侵して仕舞ったやうな気がして、何だか申し訳無い気持ちに苛まれて。
曖昧な笑顔を貼り付けた俺は、逃げるやうに其の場を立ち去った。





其の日以来、彼女は彼の公園から姿を消した。

何故かは解らない。

だが、何時かまた帰って来て呉れる其の日を信じて、あの声で、あの顔で、あの歌を歌って呉れる其の日が訪れる事を信じて、俺は来る日も来る日も彼の公園で、彼女を待ち続けた。





其れから2年の月日が流れ去り、俺は22になった。
今日はクリスマス・イヴ。
しとしとと雨が降っていて生憎の天気ではあるが、屹度街中では恋人達が犇(ひし)めき合い、互いに甘い言葉を囁き、笑い合っているのだろう。
だが、俺にはそンな事は関係無い。
2年を掛けて彼女を待ち続ける内に、俺は気が付いて仕舞ったのだ。
胸が焦がれるやうな此の気持ちに。
胸を燻る此の感情に。

名前も知らない、互いの事もよく判らないのに、人は此れを――と呼んでも善い物なのだろうか。

白い吐息が星屑の中に消えてゆく。
屹度今日も彼女は来ない。
半ば諦めた気持ちで何時も通り象の鼻パークを訪れ、今日も其の姿を確認出来なかった俺は、自暴自棄になって赤煉瓦倉庫まで歩いて来て仕舞った。
横浜の観光名所の1つとしても有名な其の場所は、雨の中でもクリスマス仕様のヰルミネーションがきらきらと輝き、俺が予想していた通り、愛を誓い合う恋人達で溢れ返っているやうだった。

―糞、何でこんな処に来ようと思っちまったンだよ、俺は。

何だか莫迦莫迦しくなって来て、俺は帽子を被り直して踵を返そうとした。

其の時だ。
ふと、見覚えのある横顔が視界に映ったのは。

ベージュの外套に赤い傘を差した其奴は、じっと立ち止まって、ひっそりと、こっそりと、赤い煉瓦造りのビルヂングを見上げていた。

其の顔は何とも物悲しく、でも、何処か優しげで。

ふと我に返った時、俺は其奴の肩を引っ掴んでいた。

此方を振り向いた彼女は、一瞬硝子玉のやうに目を丸く見開いたが、直ぐに眉尻を下げると、何と無く気拙そうに俺から目を逸らした。
其れが無性に腹立たしくて、俺は彼女の肩を掴む手に力を入れる。


今迄何処に居たんだよ、とか、此方人等(こちとら)2年も探してたンだぞ、とか、云って遣りたい事は沢山在った。

でも、何だか其れを伝えるのは違う気がして。


「……会いたかった」


唯々率直に自分の気持ちを伝えると、彼女は小さく息を呑んだ。


「……御免ね」


だが、謝る彼女は憎らしい位綺麗な微笑みを浮かべるだけで、決して其の心の内を明かそうとはして呉れなかった。


其れから俺達は、何方からとも無く彼の公園に向かって歩き始めた。

俺と彼女の始まりの場所。
俺が2年半もの間、毎日通い続けた場所。


「……私の夢はね、歌手になる事だったの」


公園に着くと、彼女は唐突に自分の話をし始めた。
俺は其れに面食らうも、初めて晒される彼女の内面を知りたくて、黙って耳を傾ける。


「本当はね、私が何時も歌っていた歌―貴方が初めて聴いた時、涙を流して呉れた彼の歌は、私の作った曲じゃ無いんだ」


彼女はそう云って瞼を閉じる。


「彼の歌はね、或る人が、最期に私に遺した曲なの」


―私にとって掛け替えの無い人。
―永遠の愛を、誓った人。
――私を置いて、逝って仕舞った人。

そう呟く彼女の顔は慈愛に満ちていて、嗚呼敵わないな、と俺は悟った。

俺は屹度、どう足掻いても此奴の想い人には敵わない。


「私の夢は、歌手になる事だった。……彼の人と一緒に、叶える、心算だった」


彼女の頬を、一滴の雫が滑り落ちていった。

そう云えば、此奴の泣いた顔を見るのは初めてだ。

綺麗だな、なんて、柄にも無くそう思った。


「赤煉瓦倉庫は、彼の人と私の始まりの場所なの。
彼の日も、こんな風に雨が降ってたっけ」


其処で彼女は初めて俺の瞳を見つめた。


「貴方は、彼の人に似てる」


俺を見つめる瞳は、何処迄も暗く、悲哀に満ちていて。


「……俺じゃ駄目か」


俺は、そう口に出していた。


「俺じゃ、其奴の代わりにはなれねェか」


彼女は目を見開き、口許を両手で押さえて俺を見上げた。

ぽろり、と硝子玉のような雫が零れ落ち、再び彼女の頬を濡らす。


「……狡い人。そう云う処も、彼の人にそっくり」


彼女はそう呟いて自嘲気味に笑った。


「彼の人の代わりなんて居ない。彼の人を忘れる事なんて私には屹度出来ない。
……でも、」


彼女は其処で一旦言葉を区切る。


「気が付けば、私が貴方に惹かれて仕舞っていたのも、揺るぎようの無い事実なの」

「!」


今度は俺が目を見開く番だった。


「貴方に会って、歌を聴いて貰って、少しだけ話をする……そんな毎日が凄く、凄く楽しくて、幸せで。
彼の人に想いを募らせ乍ら歌っていた彼の曲は、何時の間にか、目の前にいる貴方に想いを馳せて歌うようになっていた」

本当だよ、と彼女は念を押すように呟く。


「でも、其れが彼の人に申し訳無くて、自分が許せなくなっちゃって。
だから私は、貴方との想い出は全部無かった事にして、貴方の前から姿を消した……筈だった、のに、」


彼女は唇を震わせていた。
だが、俺には其れに構っている余裕は無かった。

苛立たしかったからだ。
彼女の理不尽な言動が。


「……『俺との想い出は無かった事にする』だァ?巫山戯ンな。そンなの手前の勝手な都合だろうが。手前が幾ら俺を忘れようとなァ、俺は疾っくに忘れる事なんざ出来ねェ処まで来ちまってンだよ」


俺は彼女に一歩近付く。


「彼奴の事が忘れられねェってンなら其れでも構わねェ。手前が抱えてるモン全部引っ括(くる)めて、俺が手前を幸せにして遣る」

「っ、でも、」

「『其れじゃ彼の人に申し訳無い』か?仕方無ェだろそンなモン。其れに、屹度彼奴も、手前が何時迄も過去に捕らわれて泣いてる姿なんざ望んじゃいねェよ。彼奴は屹度、手前の幸せを一番に願ってる筈だ」

「……でも若しかしたら、彼は私が他の人に想いを寄せていると知ったら哀しむかも知れない」

「莫迦か手前は。手前が愛した其の男は、そンな器の狭い輩だったのかよ?」


俺の言葉に、彼女は反論も出来ずに項垂れている。


「……狡い人」


男前過ぎて、格好良くって、本当に狡い。

そう呟いて目元を拭う彼女の顔には微笑みが浮かんでいた。
其の笑顔は、今迄見てきたどんな表情よりも可憐で、晴々としていて。

嗚呼綺麗だな、なんて、柄にも無くそう思った。


「……あ、」


不意に彼女が上を見上げる。


「見て。雪」


俺も一緒になって上を向くと、白い光の粒が闇の中からふわり、ふわりと落ちてくるのが見えた。

そう云えば天気予報で、夜更け過ぎから雨は雪に変わるでしょう、と云っていたやうな気がする。

時計に目を遣る。
時刻はもう、深夜零時を疾っくに回っていた。


今日はホワヰトクリスマスだ。

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