短編死神の契約
本当に、在り来たりな普通の1日が終わる筈だった。
「疲れていたから早く帰りたい」、そんな事考えなきゃ善かった。
目の前に広がる凄惨な光景を見て、私は数分前の自分の決断を呪ったのだった。
時は少し前に遡る。
仕事終わりに大学時代の友達と何時もの居酒屋で女子会をして。
何時もの如く、「嗚呼、恋がしたいな」とか、「誰か好い人が私に好意を寄せて呉れたら善いのに」なんて、何処ぞの少女漫画の主人公(ヒロイン)達みたいなタラレバ話に花を咲かせていた。
「じゃーね、なまえ」
「うん、また明日」
そう云って駅前で別れてから数分後。
何時もは賑やかな繁華街をぐるりと回ってから帰路に着くようにしていたのだが、その日は兎に角早く家に帰りたい、という思いがあった。
夜も深くなって仕舞っていたし、明日は早朝から仕事が入っていたからだ。
そう云えば、此処の路地裏を通って行けば、私のアパートの目の前迄辿り着くんだと、大家さんが前に云っていたような。
夜は暗くて物騒だから、此処を通るのはお勧めしない、とも云っていたけれど。
私は一瞬だけ足を止めてから、其方に向かって足を進めた。
1回位通っても大丈夫だろう、そう思ったからだ。
少し歩くと、此処は湖の底にいるかのように静かで人気が無く、おまけに辺りはこんなに真っ暗だというのに、灯りは所々に細々としか着いていないのだという事が判った。
成る程確かに、此れは少し怖い。
早く帰ろう。
一層その思いが強くなり、私は早足で歩みを進めた。
「……?」
突然ぷんと漂ってきた鉄臭い香りに、流石に違和感を覚えて歩く速度を落とす。
「……え」
丁度灯りの在る処で立ち止まると、足下に赤黒い液体がじわじわと流れて来るのが目に入った。
此れ以上は危険だ、頭の中で警鐘が鳴っているのに、如何しても何が起こっているのかを確認したくなって。
スマートフォンのフラッシュをオンにして恐る恐る目の前を照らすと―
「!!!」
人が、死んでいた。
口は苦しげに半開きになっており、濁った瞳はまるで此方を睨み付けているかのようだ。
ドサリ、と、鞄が地面に落ちる音がした。
入社祝いに奮発して買った其れは、血の色を含んで少しずつ赤に染まっていく。
早く、早く逃げなければ−
一歩後ずさると、トン、と背中に何かが当たる音がした。
「見たな」
耳元で少し掠れた声が聞こえる。
大袈裟な位に肩を震わせて後ろを振り向くと、左の襟足を伸ばし、小洒落た帽子を被った小柄な男が、冷めた表情で此方を見つめていた。
「見たな」
男は再びそう繰り返す。
よく見ると、彼のシャツやベストには、もう変色しつつある赤黒い液体がべったりと付着していた。
「あ……」
膝が笑って動けない。
蛇に睨まれた蛙の気分だ。
男はそんな私を見て呆れたように溜息を吐くと、両手を広げて口を開いた。
「そんなに怯えンな……っつっても、流石に無理な話か。だが安心しろ。別に手前を取って食おうだなんて思っちゃいねェし、況してや手前を殺す心算もねェ」
「で、でも……此れ、貴方が−」
「嗚呼、確かに其の塵片したのは俺だ。だが俺は無駄な殺生はしねェ」
其の言葉に、取り敢えずはほっと安堵の息を漏らす。
そうと判れば、私が此処に長居する必要は無い。
私は落とした鞄を抱えて、一刻も早くその場を立ち去ろうと走り始めた。
「まァ待てよ」
だが、黒い手套が私の手首をパシリと掴む。
次の瞬間、私の躰は文字通り鉛のように重くなった。
その場に立っている事も儘ならなくなり、ドサリと地面に座り込む。
「な、何で……。貴方、先刻『殺さない』って……」
「殺さないとは云ったが逃がすとも云ってねェ」
アイスブルーの鋭い瞳に射抜かれ、私はヒッと息を漏らす。
「ハッ、恨むなら数刻前の手前の愚かな行動を恨むンだな」
そして彼は、掴んだ儘の私の手首を引っ張って自身の方に引き寄せると、もう片方の手で私の顎に手を掛けた。
「俺は中原中也。ポートマフィアで幹部に就いている」
「手前を一生飼い馴らしてやる。逃げられるなんざ思うなよ」
そして彼は妖艶に笑う。
月夜を背にして笑う彼は、まるで死神のように恐ろしく美しかった。