短編
黄昏時のMoon Light

小指の指輪(ピンキーリング)を買った。

小指の指輪(ピンキーリング)とは、端的に云えば、小指に填める為に作られた指輪の事を指す。
古くから御守りや願掛けの意味を込めて用いられており、特に最近では恋愛成就の意味を込めて填める女の子達が増えているらしい。
ところでこの指輪は、左手に付けるのと右手に付けるのとで意味が異なってくる。
恋愛的な意味だけで云うならば、片思いの人を振り向かせたい時は右手、恋人や結婚した相手とずっと幸せでいたいと願う時は左手に付けるのが善いらしい。

却説、もう薄々とお気付きの方も居るのかも知れないが。
何故、私が此処迄長々と前置きをしたのかと云うと。
−私には今、好きな人がいるからである。





「日曜日、一緒に映画を見に行かないかい?」


小指の指輪(ピンキーリング)を初めて会社に付けて行った日の昼休みの事。
会社の上司に逢引(デエト)に誘われた。
而も、私が想いを募らせている人である。
私は内心でガッツポーズをし乍ら「善いですよ」と返事をした。
その日はもう逢引に何を着て行こうかという事で頭が一杯になって仕舞い、もう1人の生真面目な上司にクドクドと説教をされて仕舞った。
私が思いを寄せている『彼』は、そんな私達の遣り取りを見て、目を細めてクスクスと笑っていた。
陳腐な表現ではあるが、そんな顔を見るだけで胸がぎゅっと締め付けられたみたいに苦しくて切なくなるから、そろそろ私は末期だと思う。
私がよく恋愛相談をしている事務員の同期の女子高生に逢引の件を話すと、彼女はまるで自分の事のように喜んで呉れて、終いには洋服決めまで手伝って呉れた。
同じく私が恋愛相談をしている先輩社員の女医(せんせい)に報告をすると、彼女は「善かったじゃないか」と云って自分の口紅(ルージュ)を私に贈答(プレゼント)して呉れた。
曰く、「逢引の日にそれを唇に付けて行け」という事らしい。
そんなこんなでバタバタと時は流れ、いよいよ『彼』との逢引の日を迎えて仕舞った。
白と黒を基調としたギンガム調の格子柄のトップスに白いフレアスカート。
小さめの赤い鞄(バッグ)と控えめな赤い帯革(ベルト)の腕時計で統一感を持たせている。
そして勿論、右手の小指には、祈りを込めた小指の指輪(ピンキーリング)。
最後に例の女医から貰った口紅を付ければ、私的『デエトスタイル』の完成だ。
朝から緊張して空回りしていた私は、待ち合わせ時刻まで後30分も時間があるのに、既に集合場所に到着して仕舞ったのだった。

−拙い、一寸気合い入れすぎたかも。

時計を見つめて小さく溜息を吐いた瞬間、鞄の中から小さく振動音が鳴り響いた。


「もしもし」

『あ、なまえ?今何処だい?』

「……今丁度家を出た処ですけど」


もう待ち合わせ場所に居る、と伝えるのは何だか恥ずかしくて、私は咄嗟に口から出任せを云って仕舞った。
だが直ぐに、本当の事を云っておけば良かった、と少し後悔する羽目になる。


『本当かい?善かった。実は今社長から連絡が入ってね、急に仕事を頼まれて仕舞ったのだよ。大した仕事では無いのだけれど、今日はこの後時間が取れそうに無くて……。申し訳無いのだけれど、今日の逢引は延期させて貰えないだろうか?勿論、今度ちゃんと埋め合わせはするから』

「……そうですか。それなら仕方無いですね。判りました。また別の機会に誘って下さい」


私は努めて明るい声でそう答える。
上手く誤魔化せていただろうか。
電話を切ってから、私はその場にしゃがみ込んだ。

−楽しみにしてたのにな。

私、結構頑張ったのに。

30分位はその場で座り込んでいただろうか。
ふと我に返り、嗚呼、今日はもう此処に居ても仕方が無いのかと漸く悟った私は、とぼとぼと駅に向かって歩き始めた。
折角洒落込んで来たのに何処に行く気にもならない。
今日はもうこのまま帰って仕舞おう。
そう思って改札をくぐった時。
私は見て仕舞った。
下りの昇降機(エレベーター)から降りてくる、『彼』の姿を。
而も、隣に綺麗な若い女性を引き連れて。
2人は当然此方に気が付く事も無く、楽しげに笑い合い乍ら歩いて行く。
一目見ただけで「お似合いだな」と思える恋人同士(カップル)だった。


「……はは」


莫迦みたい。
高(たか)が映画に誘われただけで、1人でこんなに浮かれている私が。
可笑しいと思ったんだ。
彼みたいな眉目秀麗な人が、私みたいな女を逢引に誘うだなんて。
でも。
でもこんな扱いは、あんまりじゃないか。

私は彼等に気が付かれないように一目散にその場を立ち去ると、グイッと手の甲で口紅を拭ってトイレに駆け込んだ。

−こんなモノ、当てにするんじゃなかった。

私は右手の小指から指輪を抜き取る。
好きなら早くそう伝えれば善いのにそれすらも出来なくて、だからこんなちっぽけなものに縋って祈った。
この指輪を見つけた時、運命の出会いだと思ったのだ。
何故なら、この指輪にあしらわれているのは、「愛の予感」を示すと云われている月長石(ムーンストーン)の宝石だからである。
そしてこの石は、『彼』の誕生月である6月の誕生石でもあるのだ。
真逆指輪(これ)をつけたその日に『彼』から誘いを受けるとは思わなくて、私は必要以上に舞い上がって仕舞った。
運命って本当にあるんだなと、そう思って仕舞ったのだ。

−こんな歳にもなって、未だ夢見る少女的思考から離れられない自分が恥ずかしい。

もう、好い加減に現実を見よう。
この想いも感情も、何もかもを無かった事にして捨てて仕舞おう。

私は決別の意味合いも込めて、奮発して買った月長石の小指の指輪(ピンキーリング)を便器の中に放り込んだ。
ぽちゃん、と水の跳ねる音がして、それはどんどん底に沈んで行く。
私は自分の想いを断ち切るように、洗浄操作棒(レバー)を回してそれを水に流したのだった。





「あれ、なまえさん、指輪は?どうなさいましたの?」


翌日、出勤早々話し掛けて来たのは、例の同期の女子高生だった。


「……もう、いいの。私には必要ないから」


私はそう云うと、強制的に会話を終わらせて仕事モードに入る。
隣にいる彼女は未だ何か云いたげにしていたが、私が一切話す気が無い事を悟ると、諦めた様子で仕事に取り掛かっていた。


「なまえ」


昼休み、『彼』が私の事務机にやって来た。


「昨日は御免ね、突然行けなくなって仕舞って。今度埋め合わせをしたいのだけれど、何時が佳いかな?」

「もういいです。貴方とは何処にも行きませんから」

「……え?」


『彼』はそう云って目を瞬かせる。


「昨日の事そんなに怒っているなら謝るよ。でも仕方無かったんだ。社長から突然連絡が入って−」

「そうじゃないでしょう」


自分でも吃驚する程冷めた口調で、私の口からはどんどん言葉が溢れ出す。


「私、昨日見ちゃったんです。貴方が女の人と逢引してる処。本当は仕事が入ったんじゃなくて、その女(ひと)と宜しくしていたんでしょう?」

「!」


僅かに目を見開く『彼』を見て、いい気味だと思う反面、心が抉られたかのように傷んでいた。


「なまえ、誤解だよ。違うんだ。此れは−」

「言い訳しないで下さいよ」


此方に向かって伸ばされた手を、私はバチン、と払い退けた。


「大っ嫌い」


可笑しいな、この人の前では泣かないって決めてたのに。
何時の間にか瞳から滴っていた熱い雫を力任せに拭い、私は彼の脇を通り抜けてその場を離れた。

−忘れろ、早く忘れなきゃ駄目なんだ。

そう自分に云い聞かせる度に熱いものが込み上げてきて、私は声を抑えてまたおめおめと泣き崩れた。





「謝った方が善いと思うよ」


事務所に戻って来た私にそう告げたのは、我が社きっての名探偵だった。
甘党の彼は、今日も駄菓子屋で買ってきたと思しき菓子を突いている。
私は今迄彼と話をした事が殆ど無かったので、正直、彼に話し掛けられてとても面食らった。


「……如何して私が、謝らないといけないんですか」

「君が全面的に悪いから」


間髪入れずに、名探偵はそう答える。


「君、彼奴が別の女と宜しくやっていただなんて云ってたみたいだけど、それ、誤解だよ」


名探偵は翡翠の双眸で私を射抜いてそう云った。


「彼奴は昨日、本当に社長に頼まれて仕事に行っていたんだ。依頼内容は、旦那の浮気調査。屹度君が目撃したのは、彼奴と依頼人が調査をしている現場だったンじゃないかな?」

「!」


それを聞くや否や、私は玄関に向かって走り出していた。


「乱歩さん!」


探偵社を出る直前、私は後ろを振り返って名前を呼ぶ。


「有難うございました!」

「お礼は文明堂の加須底羅(カステラ)ね〜」


乱歩さんはそう云うと、ひらひらと手を振って私を送り出して呉れた。





探偵社の寮に『彼』は居なかった。
何処に行ったんだろう。
喫茶処「うずまき」を覗こうと中に入ろうとすると、丁度「うずまき」から出てきた敦君と鏡花ちゃんに会った。


「あれ?なまえさん?」

「彼の人に……逢えたの?」

「えっと……鏡花ちゃんのその云い方から察するに、此処には彼の人は来てないって事だよね?」

「ええ、居ませんでしたよ」

「そっか……有難う!」


私は礼を告げて慌ててその場を立ち去ろうとする。


「あ、若しかして、彼拠にいるんじゃないでしょうか!」


敦君が何かを思いついたかのように私の背中にそう告げた。


「……彼拠って?」

「ほら、時々彼の人が黄昏ている場所です。『此処から見る横浜の景色が好きなんだ』って云って」

「嗚呼、彼拠か!有難う敦君、行ってみるね」


敦君の答えを聞いた瞬間、『彼』は絶対其処に居るだろうと私は確信していた。
理由なんてない。只、何となくそう思っただけだ。

−流石、道標(タイガービートル)だな。

何時ぞやに誰かが敦君をそう呼んでいたのを思い出す。
彼は自分にその心算がなくても、色々な人達の道標になっているのだと思う。
鏡花ちゃん然り、ポートマフィアの芥川君然り。


「って、今はそうじゃなくて、」


早く、『彼』を見つけないと。
私は目的地に向かって走り出した。





「太宰さん!」


敦君の予想通り、『彼』は矢張り其処にいた。
横浜大さん橋屋上『くじらのせなか』。
横浜の景色を一望出来るこの場所は、太宰さんがこの横浜で最も気に入っていると云っても過言ではない場所だ。


「……なまえ?」


太宰さんは私の姿を見て驚いたようで、鳶色の瞳をパチパチと瞬(まじろ)がせていた。


「探しましたよ、太宰さん。私……貴方に謝りたくて」


私はそう云い乍ら、風で靡(なび)く髪を耳に掛ける。


「昨日の太宰さんの話、疑って仕舞って御免なさい。勝手に1人で決めつけて、苛立ちをぶつけて仕舞ってすみませんでした」


私は深々と頭を下げる。


「……確かに君が端から私を疑って掛かってきたのを見た時は流石の私も頭に来たけれど、今はもう怒っていないよ。折角の予定を台無しにして仕舞った私にも非はあるしね」

「そんな……太宰さんは仕事で来られなくなっただけなのに」

「それはそうなのだけれど、少し言葉足らずだった処もあっただろう?だから昨日の事は、お互い水に流そうじゃないか」


太宰さんは肩を竦めてそう答えた。


「……指輪、もう取っちゃったんだね」

「え?」


不意に太宰さんが私の右手を取ってそう呟いたので、私の心臓は不覚にも跳ね上がって仕舞う。


「綺麗な指輪だったのに。君に善く似合っていて」

「はあ……有難うございます」


真逆トイレに捨てて来たとは云えず、私はゴニョニョと礼を告げる事しか出来なかった。


「……なまえさぁ、」


私の手を掴んでいた太宰さんは、突然その手をぐいっと自分の方に引き寄せる。
呆気にとられてよろめく私を、太宰さんはもう片方の手で支えて呉れた。
必然的に縮まる距離。
私の心臓が急激に悲鳴を上げている。


「如何して君は、小指の指輪(あれ)を右手につけていたの?」

「! そ、れは……」

「誰か、振り向かせたい相手がいるんだろう?」


チラリ、と太宰さんを見つめると、彼はまるで悪戯っ子のように楽し気な笑みを浮かべていた。

−此の人、絶対確信犯じゃん!

私が動揺を隠し切れない儘何も答えられないでいると、目の前の悪魔が更に私に追い打ちを掛ける。


「君の指輪についていたあの宝石、若しかしなくても月長石だよね?私の記憶が正しければ、確か彼の石は、6月の誕生石だった筈なのだけれど……」

「ああああもう!判りました降参です!私はずっと太宰さんの事が好きでしたよ!ええそうですとも!だからあんな指輪に縋ってたんですよ何か文句あります!?」

「はぁ、雰囲気も何も無い熱烈な告白だね。まあなまえらしいけど」


太宰さんはそう云って苦笑いを浮かべる。


「君にはあんなモノ、もう必要ないよ。ううん、最初からあんなモノなんて必要なかったんだ」

「……」


嗚呼、私振られたのか。

目を伏せてそう思っていると、太宰さんは私に「左手出して」と囁いた。
私は半ば不貞腐れた態度で、云われるが儘に手を差し出す。


「だって君に必要なのは、右手じゃなくて左手の小指の指輪(ピンキーリング)でしょ?」


流れるような動作で、太宰さんが私の小指に指輪を填め込む。
其処に光っていたのは、私が以前持っていたのよりも幾分か素敵な、月長石の小指の指輪(ピンキーリング)だった。
余りに突然の事に頭が着いていかない。
呆然とそれを眺めていると、太宰さんがそっと自分の左手を私に掲げてみせた。


「所謂ペアリング、って奴かな?此れで私の想いも伝わったと思うのだけど」

「っ……」

「一寸、泣かないで呉れ給えよ」


太宰さんは苦笑しながら私の頭をクシャクシャと撫で回す。


「……真珠(パール)の指輪にしようか迷ったのだけどね。結局此方の指輪にして仕舞ったよ。月長石は『ふたりの出発』を意味すると共に、『仲直りの石』としても名が知れているからね」

「……うん、有難う」


私は太宰さんの胸に顔を埋めて何回も頷く。
太宰さんの香水と太宰さんの匂いが胸一杯に広がって、それだけでもういっぱいいっぱいだった。


「君は私が幸せにする。だから、君も私を幸せにして呉れるかい?」

「はい、勿論」


夕日の沈み掛けたその場所で、私は彼と初めての接吻(キス)を交わした。
初めての口づけは私の涙の所為で塩辛い味がしたが、ふにゃりと柔らかくて蕩けそうな程に熱を持っていた。





2017.06.19
Happy Birthday to Osamu Dazai!!

ALICE+