短編
或る朝

AM 6:00
ピピピピ、ピピピピ。
携帯電話の電子音(アラーム)が鳴る。
私はそれをそっと止めると、ふあぁ、と小さく欠伸を零した。
今日は非番。
でも、私の隣で眠る自慢の彼は、生憎今日は出勤日だ。
ちらりと横を見遣り、彼の寝顔を眺める。
長い睫毛、筋の通った鼻、綺麗な蓬髪の髪。
こんなに整った顔立ちの男性を、私は今迄見た事が無い。
性格は兎も角、見た目だけで云えばかなり自慢の彼氏だ。
私は彼の頬にちゅ、と口付けると、そろりと寝台から抜け出して足元に落ちているシャツを拾った。
くあーぁ、と、再び欠伸が零れる。
昨夜は随分と交わって仕舞った。
鈍く痛む腰を擦(さす)ってから、ひんやりと冷たくなったシャツに腕を通す。
序でにスカアトを履こうかと手を伸ばし掛けたが、億劫になって仕舞って止めて仕舞った。
私は眠気覚ましに一度だけ伸びをすると、朝食の準備をすべく腕捲りをし乍ら台所に向かった。


AM 7:00
今日は彼に弁当を持たせてあげる事にした。
朝食用の味噌汁を作る傍らで、私は弁当用のおかず作りに取り掛かる。
彼は蟹と味の素を好んでよく食べるので、主食のおにぎりに味の素を振り掛け、おかずの一品として蟹玉を入れる事にした。
ボウルに溶き玉子、蟹缶、刻み葱を入れ、塩胡椒を振り掛ける。
平鍋に牛酪(バター)を敷き、それをゆっくりと流し入れると、香ばしい匂いが部屋中に広がった。
素早く溶き卵を菜箸で混ぜ、形を作って行く。
玉子が完全に固まり切らない内に皿に盛り付け、甘酢餡かけを掛ければ完成だ。
此れは中々上出来なんじゃないか。
自画自賛した後、私はそれを少しだけ弁当箱に入れた。
余った分は朝食で食べるとしよう、そう思った私は、冷蔵庫から昨日の夕飯の残り物の唐揚げと法蓮草のお浸しを取り出した。
唐揚げは揚げ直してから、お浸しには鰹節を掛けてから弁当に入れる。
朝食と弁当と兼用でもう一品位何か作ろうかな。
私は味噌汁用の鍋に野菜を入れつつ、何を作ろうかと思いを馳せた。


AM 8:00
がさがさと、隣の部屋で音がする。
彼が目を覚ましたのだろう。
鍋の中で味噌を溶いていると、ガチャリ、と扉の開く音がした。


「おはよう、太宰」


私は手元から目を離さない儘そう云った。
だが、彼から返事が返って来る気配が無い。
可笑しいな、先刻確かに扉が開く音が聞こえたのに。
不審に思った私は、一旦火を止めて手を休める事にする。


「……太宰?」


顔を上げて辺りを見回すと、不意に後ろから顎を掬われた。


「んんっ!?」


一瞬の出来事に目を見開く。
背後から私に接吻してきた当の本人−太宰治は、妖しく目を光らせ乍ら、楽しそうに口元を歪ませていた。
れろり、と、彼の熱い舌が私の唇を舐める。
足りない、という彼なりの合図だ。
私は机の縁(へり)に手をつき、おずおずと口を開いた。
直ぐさま彼の舌が侵入してきて、生き物のように咥内を蠢く。
逃げ惑う舌をじゅっ、と吸われ、自然と私の指に力が籠もった。
ぎゅっ、と目を瞑ると、涙が一筋零れ落ちる。
すると太宰の少し冷たい指が私の頬に触れ、涙を拭い取った。
その後漸く、彼は私を解放する。


「一寸!朝っぱらから何して−」


くるり、と後ろを振り向いた私は、最後まで言葉を云い切れずに固まって仕舞った。
何故なら、目の前にいる彼は−


「な、なななななんで、上半身裸なの!?」


言葉の通り、上に何も身に着けていなかったからだ。
否、正確に云うと、きちんと包帯は巻かれているのだけど。
太宰は鳶色の瞳をぱちぱちと瞬かせると、「だって、」と呟いて私の方を指差した。


「それ。なまえが今着てるの、私のシャツだもの」

「え」


嘘。

私はまじまじと自分の姿を確認する。

そう云えば、なんだか何時もよりもシャツの丈が長いような気がする。
腕を捲っていたから気が付かなかったけど、云われてみたら袖の長さにも違和感があった気が……。

サァーッと、自分の顔が青白く変化するのを感じた。
拙い。寝惚けてやらかして仕舞った。


「ご、御免ね太宰。うっかり間違えちゃったの。私、あっちで自分のシャツと取り替えて来るね」


私は一息でそう云ってのけてその場を退散しようとする。
だが、太宰は寝室に向かおうとした私の手をパシリと掴んだ。
ヒッ、と、思わず声が漏れて仕舞う。


「嬉しいなァ、真逆なまえの方から誘って呉れるだなんて」


恐る恐る恋人の顔を見つめると、彼はにやにやと悪魔のような笑みを浮かべていた。
キケン、キケン。
彼は紳士的な見目の割に、結構性欲が旺盛でいらっしゃるのだ。
貞操の危機を感じた私は、ごくり、と生唾を呑み込む。


「取り敢えず……ベッド行こうか」


鮮やかな笑みでそう呟いた太宰は、私の手を引いて寝室に向かって歩き始めた。
何が悲しくて非番の日に朝から盛らなければならないのか。
私は穏やかな休息を手に入れるべく、必死になって太宰を止める術を考える。


「太宰!駄目だよ太宰は仕事あるでしょ!?」

「うーん……まァ、国木田君達が何とかして呉れるさ」

「だ、駄目!人任せにしちゃ!私、今日は絶対にシないから!」

「なまえが動かないなら仕方無いなァ……じゃあ私が動くしかないか」

「な……なんでそうなるの!?そうだご飯!ご飯出来てるから一緒に食べよう!」

「うん善いよ、終わった後でね」

「人の話聞いてる!?やだ、ほんとにやめ−」


ボスリ。
私の言葉を見事に無視した太宰は、容赦無く私を寝台に押し倒した。
私に覆い被さる彼の瞳は、ギラギラと肉食獣のように輝いていて。
あ、これもう駄目なヤツだ。
そう悟った私は、諦めて彼に全てを委ねる事にした。
目を閉じて、全身の力を抜く。
太宰は私の前髪を払い除けると、『有難う』の意味を込めて私の額に口付けを落とした。
それから互いに顔を見つめ合っていた私達だったが、太宰が不意に顔を近付けて来る。
ホント、接吻が好きだなぁ。
私がそう思って腕を伸ばすと。

ヴーッ、ヴーッ。

携帯電話のバイブ音が、部屋中に鳴り響いた。
音の発信源と思しき寝台の脇の机の上を見遣ると、鳴っていたのは太宰の携帯電話だった。
而も、彼の同僚の国木田さんからの着信である。

「……」

「……出ないの?」

「……」

「太宰」

「……」

「だ、ざ、い!」

「ハァ……判ったよ」


太宰は心の底から残念そうに深く溜息を吐くと、のろのろと立ち上がって携帯電話を手に取った。


「もしもし国木田君?何?……え、そうだっけ?……あはは、忘れてた。直ぐに行くよ」


太宰はそう云ってから通話を切ると、くるり、と此方に向き直って肩を竦めた。


「定例会議の日程がズレて今日になった事を忘れてたみたいだ。悪いけど、直ぐに行かなければならない」

「あ……そう、なんだ」

「そんなに物欲しげな表情(かお)をしないで呉れ給えよ。煽っているのかい?」

「は、はぁ!?」

「ふふふ、冗談だよ。……私のシャツ、返して貰っても善いかい?」

「あ……うん」


そろりそろりとシャツを脱ぎ、腕を伸ばして彼に手渡す。
彼はじっと私を見つめてから、シャツを抱えた儘の私の手を唐突に自分の方に引き寄せた。
その所為でバランスを失った私は、見事に太宰の腕の中にダイブする。
彼は片手を私の腰に回すと、にこりと微笑んで胸元に顔を埋めた。
太宰の蓬髪が私の肌をなぞっていて少し擽ったい。


「太宰?何して……んっ!」


ちくり、と痛みが走り、私は思わず顔を顰めた。
胸元に目を向けると、其処には真新しい鬱血痕が花を咲かせている。


「一寸……また痕付けたの?私、太宰の所為で体中痕だらけなんだけど」


そう云って太宰を睨み付けると、当の本人はシャツを片手に機嫌好く笑みを浮かべていた。
全くもって罪悪感を抱いていないその態度に、怒りを通り越して呆れて仕舞う。
太宰はあっという間に身形(みなり)を調えると、ヒラリと手を振り乍ら「じゃあね」と呟いて部屋を出て行った。


「……あ、太宰!お弁当!持ってって!」


私は先刻作った弁当の存在を思い出し、自分のシャツを羽織ってバタバタと彼の後を追い掛けた。


AM 8:45
結局何時もの出社時間と対して変わらない時刻になって仕舞った。
私が不貞腐れた顔で太宰に弁当を手渡すと、彼は嬉しそうにそれを両手で受け取った。
如何やら今朝の一連の行為に罪は無いと思っているらしい。


「それじゃ、今度こそ。行ってくるね、なまえ」


太宰は私の頭を一撫ですると、玄関の扉をガチャリと開けて外に出て行った。


「……行ってらっしゃい」


太宰がいなくなった玄関に向かって、私はぽつりとそう呟く。
別に彼が出掛けたからと云って淋しくなんかはない。
断固として。

でも、独りで家に籠もるのは、少し自分の性に合わない。


「……早く帰って来ないかな」


冷め切った味噌汁を口に含み乍ら、私は自然とそう呟いていた。

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