短編Martiniはもう似合わない
降誕祭の夜―私は1人の女性と、恋に落ちた。
その女性−みょうじなまえは、彼のいけ好かない帽子置き場の直属の部下だった。
中也と私は相棒同士という事で、仕事上私となまえとの接点は多かったように思う。
始めは特に何とも思っていなかった。
確かに、愛らしい顔つきではあった。
でも、彼女が醸し出す雰囲気は何方かと云えば中也が好みそうな気品のあるもので、正直私の好みでは無かった。
なまえに対する見解を改めたのは、確か初めて彼女と呑んだ時だったように思う。
珍しく私とサシ呑みをして見事に酔い潰れた中也を迎えに来たなまえに、一杯だけ奢ろうと私が切り出したのだ。
「マティーニ下さい」
彼女はマスターにそう云ってから、私の隣に腰を下ろした。
「へえ、意外。君、結構呑めるんだね」
「まァ、そこそこ。太宰さん程では無いですよ」
「うーん……そうかなァ?」
確かに私は酒豪(ザル)かもしれないけれど、『カクテルの王様』と呼ばれる此の酒を頼むって事は、此の娘も相当呑める方なのでは無いか。
私は横目で彼女を見遣り乍ら自分のウヰスキーをコクリと煽った。
すると突然、なまえは何かを思いついたように口を開く。
「そうだ、太宰さん。自殺、お好きなんですか?」
真逆彼女からそんな事を尋ねられるとは思わなくて、私はぱちくりと目を瞬かせた。
「……何で?」
「中也さんが善く太宰さんの自殺癖について愚痴を漏らしてるから」
「……」
あのチビ、余計な事を。
でも、中也への苛立ちよりも、彼女のその聞き方の方が私には引っ掛かった。
普通自殺を目論む人間に対して、そんな野暮な質問をするだろうか?
まァ私の場合は趣味が自殺みたいなモノだから、一向に構わないのだけれど。
「そうだよ。私の趣味は自殺なんだ。座右の銘は『清く明るく元気な自殺』さ!」
なまえの反応に興味が有って、態とらしく明るい口調でそう答えると、彼女は「そうなんですね」と云ってのけただけだった。
大抵の人間は、私の趣味が自殺だと公言すると、それを止めろと云うか、如何して自殺に走るのかを聞くのだが、なまえは何も−本当に何も云わなかった。
「何も聞かないのかい?」
私がそう尋ねてみると、彼女は少しだけ首を傾げ乍ら「だって、」と口を開いた。
「太宰さん、干渉されるの、あんまり好きじゃなさそうだから」
その答えを聞いて、私は少しだけ思考が停止したのを覚えている。
確かに私は、周りに対して或る一定の壁を作っている自覚は有った。
でも其れを、仕事以外では余り話さない此の娘に見抜かれるとは思ってもみなかったのだ。
その日以来、私は自然と彼女の様子を目で追い掛けるようになって仕舞った。
或る日中也になまえの話を持ち掛けてみると、中也は「何だよ手前、彼奴に気が有るのか?」と、珍しく私に対して少しだけ興味を持った様子でじっと此方を見つめて来た。
「別に気が有る訳では無いのだけれど。只、どんな娘なのかなって思っただけで」
「どんな奴か、ねぇ……」
中也は煙草の煙をフッと口から吐き出すと、「彼奴は止めといた方が善いぞ」とポツリと呟いた。
「如何して?」
「詳しい事ァ知らねェが……忘れられない男が居るンだと」
「ふぅん」
そんな事が聞き出したかった訳じゃないのに、私の心は何故か針で突かれたようにチクチクと痛んだ。
それから少しして、私はなまえを食事に誘った。
始めは断られたのだけれど、私が如何してもと云った処、最終的に彼女が折れて呉れたのだ。
「ねェなまえ、忘れられない人がいるって中也に聞いたのだけれど……本当?」
食後の珈琲を啜り乍ら、あくまで然り気無くそう尋ねてみる。
「さァ、如何でしょう?」
彼女は曖昧にそう云って微笑み、とうとう最後まで私の問いに答える事は無かった。
*
冬の足音が近づいて来た頃、私は久し振りに織田作と安吾に会った。
何となくその日は、2人共彼処に居る気がしたのだ。
扉を開け、階段を降りて奥に進んで行く。
−ほら、矢ッ張り。
私の予言は必ず当たるのだ。
「やァ」
私が声を掛けて何時もの位置に腰掛けると、安吾から「お疲れ様です」と声を掛けられた。
マスターにウヰスキーを頼み、黙って織田作と安吾の話に耳を傾ける。
すると不意に織田作が会話を止め、私の方に顔を向けた。
「如何したンだ太宰。今日は大人しいな」
「へ?」
私はつい間の抜けた声を発して仕舞う。
「僕も丁度そう思っていました。太宰君が自殺の話もせず黙っているだなんて変ですよ。何か有ったンですか?」
「安吾然り気無く非道くないかい!?」
私は容赦の無い安吾の言葉にすかさず突っ込む。
そして、はぁー、と大きく溜息を吐き出して机に頭を突っ伏した。
「……おださくぅ、あんごぉ」
「何だ」
「如何したンですか急に」
2人が私を気遣う声が心地好い。
「何だか最近−こう、胸の辺りがモヤモヤするのだよ」
「風邪か?」
「否それは違うと思います織田作さん」
何時もの如く天然発言をする織田作に、安吾が小声で突っ込みを入れる。
「太宰君。何か悩みが有るのなら、僕達で良ければ話を聞きますよ」
救世主のような安吾のその言葉に、私はゆっくりと顔を上げた。
『此の場所に私的(プライベート)な話は持ち込まない』。
何時の間にかそれが、私達の間に有る暗黙の了解(ルール)となっていた。
だから今日も、私は自分の話を持ち出さない心算だったのだ。
それを判っていながらも私に手を差し伸べ、話を聞いて呉れようとしている2人の姿を見たら……それに縋りたくなって仕舞うのが人間の性というものだろう。
「……気になっている娘が、居るんだ」
「おや、恋患いですか」
安吾が意外そうにそう呟く。
私はそれに対して首を振った。
「うーん、恋ともまた違う気がするのだよ。単にどんな娘なのか興味が有るってだけで」
「本人と話をすれば佳いンじゃないのか」
「話はしているんだよ。でも少しでも踏み込もうとすると、上手く躱されちゃうんだ」
私がそう伝えると、織田作と安吾は神妙な顔つきで互いに顔を見合わせた。
「一寸、如何したンだい?2人して顔を見合わせて」
「いや、その……ですね、」
「何だかまるで−太宰のような奴だなと思っただけだ」
「え、私?」
間抜けな声を発しつつも、心の何処かで織田作の言葉に納得している自分も居た。
確かにそうだ。
私も他人との間に常に或る程度の壁を築いているし、仲の良い織田作や安吾ですら或る一定の領域内には踏み込ませないようにしている。
屹度彼女は同じなのだ、と私はそこで初めて気が付いた。
恐らく彼女は−孤独の闇に囚われて今でも泣き続けている、大人の振りをした子供なのだろう。
そう、私と同じように。
何処か腑に落ちたような態度の私を見て、織田作は「納得したか?」と私に尋ねて穏やかな笑みを浮かべた。
「うん、すっごく。有難う、2人共」
「いえいえ。……それで、此れから如何するんです?」
「え、如何するって?」
「その彼女に対してどう対応していく心算なのかって事ですよ」
安吾の言葉に私は押し黙った。
自分と似通った部分が彼女に有ると判った事で、新たな事実が判明した。
それは詰まり、『なまえの胸の内を聞き出す事は私にとっては不可能に等しい』と云う事だ。
自分の領域(テリトリー)に自分以外の者を入れたくないという意見に関して、私と彼女はほぼ全く同じ考えなのだ。
屹度−否、絶対に彼女は、自分が抱え込んでいる心の闇を、悲しみを、苦しみを、私にも他の人にも−上司の中也にすら、打ち明ける心算は無いのだろう。
「何をそんなに悩んでいるんだ、太宰」
私達の沈黙を破ったのは織田作の一言だった。
「その娘の心の扉を抉じ開けたいのなら−先ずはお前が、自分の心の扉をその娘に対して開けば佳いだけの話なんじゃないのか」
「それは……そう、だけど。でも−」
「太宰」
余り気乗りしない様子の私に、織田作は珍しく少しだけ諫めるような口調で私の名を呼んだ。
「俺は、お前の事はよく判らない。否、俺だけでは無く、屹度安吾も−この世の誰も、お前の抱えている物を全て理解する事は出来ない。でも、俺達には到底無理でも−お前と同じような考え方を持つその彼女なら、お前の闇を俺達よりかは判ってあげられるように思う。太宰、屹度お前は、何時かその娘と心を通わせる事が出来るようになるよ」
「織田作……」
織田作が此処迄私に干渉して来たのは、後にも先にも無かったように思う。
でもだからこそ、織田作の此の言葉は、私の中に強く鮮明に響き渡った。
それからというもの、我乍ら私は相当頑張ったように思う。
仕事の合間や任務を終えた後に彼女と向き合う時間を少しだけ作った。
余り執拗く付き纏うと逆に警戒されて仕舞うから、あくまで少しだけ、だ。
癪ではあったけれど、此の辺は中也にも少し協力して貰った。
尤も、私が中也のペトリュスを勝手に預かってそれを交渉材料にして彼を脅しただけだから、中也は可成り不服そうにしていたけれど。
それから、彼女と話す時は、ほんの少しだけ自分の本心や感情を露わにする事にした。
始めは中々出来なかったけれど、少しずつ自分の心を開く努力を重ねたのだ。
その結果、彼女も以前より大分心を許して呉れるようになり−気が付けば私は、何時の間にか素の部分の彼女に惹かれ始めていた。
*
12月に差し掛かり、街全体が降誕祭に向けて次第に盛り上がりを見せてきた。
ポートマフィアの中でも、構成員同士で時々降誕祭の話が飛び交い始めた。
「なまえは、降誕祭には何をするんだい?」
彼女から報告書を受け取った際、然り気無く彼女にそう尋ねて見る。
「……山下公園の座椅子(ベンチ)で、海を見つめ乍らマティーニでも呑もうかと」
「へぇ?中々変わった計画(プラン)だね」
「……」
彼女は私の言葉に曖昧に微笑む。
嗚呼、此の先は屹度何も話す心算は無いんだろうな、と、私は少しだけ淋しくなった。
今回は無理に聞き出すのは諦めようと、踵を返して彼女に背を向ける。
「あ、あの」
「ん?」
咄嗟に外套を掴まれ、私は顔を後ろに向けた。
「……善かったら、太宰さんも一緒に、如何ですか」
「!」
一瞬、私の聞き間違いかと思った。
でも、此方をじっと見つめて私の返事を待つ彼女の様子を見て、嗚呼此れは現実なのだと、自分で自分に囁き掛けた。
勿論私は彼女に一緒に行くという旨を告げ、足取り軽くその場を後にしたのだった。
そして、降誕祭の日。
元町・中華街駅にて待ち合わせた私達は、それぞれ片手にビニル袋をぶらさげて目的地である山下公園へと向かった。
今日は一段と冷え込む夜で、呼吸をする度に吐き出す白い吐息が夜の闇に溶け込んでゆく。
公園に着く迄の短い道のりだというのに、寒そうに何度も手に息を吹き掛けるなまえを見て、私は小さく笑い声を溢してから自分の外套のポケットに彼女の手を突っ込んだ。
「わ、あったかいですね」
「ふふふ、それは善かった」
私はそう云って彼女の頭をクシャリと撫でる。
なまえは一瞬だけピクリと肩を震わせたが、私は大して気にも留めずにそのまま頭を撫で回した。
「却説、と……。此の辺りで善いかな」
此の寒さだからか、降誕祭だというのに公園内は思っていたよりも人がいなかった。
私は彼女を空いている座椅子へ座るように促し、自分も彼女の隣に腰掛ける。
互いにガサゴソとビニル袋の中身を漁り、つまみと酒、紙皿や割り箸を取り出した。
「それじゃ……メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス」
私の缶と彼女の(何故か)紙コップをコツンと当てて、私達は乾杯を交わす。
私は無難に麦酒を買って来たのだけれど、一体なまえは何を持って来たのだろうか。
気になって訊ねてみると、彼女は「嗚呼、これですか?」と紙コップを持ち上げた。
「マティーニですよ。自分で作って、水筒に入れて家から持って来たんです」
そう云えば、彼女は以前も店でマティーニを頼んでいたような。
「好きなのかい?マティーニ」
恥ずかしそうに水筒を取り出すなまえに、私は思わずそう尋ねていた。
「いえ、そういう訳じゃ無いですよ」
彼女はそう呟いて淋しそうに笑った。
「じゃあ如何して、いつもその酒ばかり呑んでいるのさ」
私が尋ねると、いよいよ彼女は下を向いて俯いて仕舞った。
でも、如何しても聞きたかったから。
私はのなまえの手を握り、辛抱強く彼女の言葉を待つ。
「……彼の人が、好きな酒だったんです」
ぽつり、と、彼女は囁くように口を開いた。
「彼の人?……君が以前、忘れられないと云っていた人かい?」
私の問いに、なまえは小さくコクリと頷く。
「太宰さんは覚えていませんか?2年前、丁度こんな寒い日の夜に、1人のポートマフィア構成員が組織を裏切って惨殺された事を。
……それが、私の恋人だったんです」
彼女が白い吐息を空に向かって吐き出す。
「私、ずっと知りませんでした。彼がポートマフィアを裏切っていた事も、彼が敵対組織の諜報員(スパイ)だったという事も。
私が知っている彼は、全部嘘で塗り固められた彼だったんです。
でも……彼は死ぬ間際に私に云いました」
『お前を想う気持ちだけは……本物だった』
『時折……人目を忍んで行った彼の公園での逢引(デエト)が……本当に、楽しかった……』
『有難う……なまえ……』
『もう……僕の事は忘れて……此れからはもっと、自分の為に……生き……て……』
「そんな言葉を遺して、彼は先に逝って仕舞ったんです」
まるで呪いみたいでしょう?
なまえはそう云って自嘲気味に笑った。
「彼が『自分を忘れて呉れ』と云ったのを思い出す度に、私は彼の事を忘れられなくて、如何しようも無くて、苦しかった。……でも、」
彼女はそこで言葉を切り、私の方に向き直る。
「鳥籠の中に囚われ続けた私を、貴方が救って呉れたんです」
「……私が?」
思わず尋ね返すと、なまえは私の手を握り返して頷いた。
「貴方は、私を鳥籠の外に連れ出そうと、何度も何度も私に手を差し伸べて呉れた。私が何度躊躇っても、気が乗らなくても、諦めずに私と向き合おうとして呉れた。他人に興味が無い、今迄他人を寄せ付けなかった貴方だからこそ―私にはそれが、とても嬉しかったんです。
だからもう……止めます。居なくなって仕舞った彼の背中を追い掛けるのは。
私は、前に進みたい」
彼女はそう云って私にズイッと顔を近付け―ちゅ、と、頬に口づけを落とした。
「好きです、太宰さん」
そう云ってのけた彼女は、照れ乍らも何処かすっきりとした顔をしていて。
私は思わず彼女を抱き寄せ、ぎゅ、ときつく抱き締めた。
「敵わないなァ、本当に」
私はなまえの肩に顔を埋め、小さく呟く。
此の想いは、私の方から先に君に伝える心算だったのに。
「私も好きだよ、なまえ」
そして彼女の両頬をそっと包み込むと、触れるだけの接吻を施す。
なまえの頬は真っ赤に染まっていて、嗚呼可愛いな、と私は心の底から彼女を愛おしいと思った。
「あはは、顔真っ赤」
「なっ……!太宰さんだって、少し顔赤いですよ」
「え、嘘」
ペタペタと私は自分の頬を触る。
確かに私の頬は熱を持っていて、私でもこんな風になるのだと、自分の事乍ら少し驚いた。
「太宰さん」
彼女は水筒を片手に不意に立ち上がり、海の方へと近付いていく。
私がそれに着いていくと、彼女は此方を振り向き、悪戯っぽく小さく笑う。
そして―その水筒を、海に向かって思い切り放り投げた。
「え!?」
私は彼女の隣に駆け寄り、まじまじと海を見下ろす。
当たり前だが既にそれは海の底に消えて仕舞っていて、こんな暗い夜では何処に消えたのかすら判りそうも無かった。
「……善かったのかい?」
私がなまえに尋ねると、彼女は此れまでに見た事も無い位清々しい笑みを浮かべて「はい」と頷く。
「だってもう、私には必要ありませんから!」