短編
此処が僕等のシャングリ・ラ

太宰さんの声が好きだ。
国木田さんに向かってお巫座戯を繰り広げている時の茶目っ気溢れる伸び伸びとした声も、心中の歌を口ずさんでいる時の妙に色気のある鼻に抜けたような声も、時折瞳に暗い光を宿して紡ぎ出される氷のように冷ややかなテノールボイスも、彼の口から発せられるその声は、譬えどんな声でも私の鼓膜をびりびりと震わせ、躰中を駆け巡って全身を痺れさせる。
中でも私が1番好きなのは、睦言を交わしている時のどろどろに融け切った蜂蜜のような声だ。
恋人としての彼と過ごしている時に発せられるこの声は、麻薬のように私を惑わせ、感覚という感覚の全てを狂わせる。
甘さと毒を併せ持ったその声で名前を囁かれると、私は雁字搦めになった操り人形(マリオネット)のように、全身を支配されて身動きが取れなくなって仕舞うのだ。





「なまえ」


仕事が終って太宰さんと共に帰宅するや否や、彼は背後から私の首に腕を回して抱き着いて来た。
電気も点けぬ儘行き成り覆い被さって来た太宰さんに心臓が持たない。
取り敢えず気持ちを落ち着かせようと手探りで電灯の釦(スイッチ)を探すも、その手もやんわりと太宰さんに掴まれて仕舞い、私の混乱は最高潮に達した。
一体如何いう心算なのかと背後を振り返ろうとしたその瞬間、かぷりと耳朶を食まれて私は小さく悲鳴を漏らす。
そのまま耳の縁を舌先でなぞられ、態とらしくぴちゃりと音を立てて耳の奥まで舌を捻じ込まれた。
私はその間口許に手を遣り、必死に声を抑えている事しか出来ない。
でも、幾ら私が声を我慢したところで、太宰さんの舌によって聴覚が刺激される度に私の肩はびくりと大きく跳ね上がって仕舞っているから、耳が弱い事は屹度太宰さんにはお見通しなのだろう。
太宰さんは一通り私の耳を堪能し尽くすと、耳の穴に直接吹き掛けるようにして吐息混じりに再び私の名前を呼んだ。
熱を孕んだその声に脳髄の奥まで犯されて仕舞いそうになる。
それでも何とか彼の呼び掛けに返事を返すと、ぎゅう、と私を抱き締める彼の腕の力が途端に強くなった。
何故だろうか、今日の彼は一段と甘えん坊だ。
とは言え何時までも玄関口で戯れている訳にもいかないので、胸元に置かれている太宰さんの腕をぽんぽんと叩き、そろそろ自分から離れるようにと促す。
だがそれでも彼はぎゅうぎゅうとくっついて来て、私から離れようとする気配が微塵も感じられないので、諦めてその儘の体勢で太宰さんを連れて居間に向かう事にした。
だらだらと緩慢な動きで居間に辿り着き、荷物をドサリと乱雑に床に放る。
杯に水を汲み、それをごくりと一杯飲み干しても尚、太宰さんは私の躰に顔を埋めてぐりぐりと甘えるように摺り寄って来るので、私は堪らず太宰さんの名前を呼んだ。


「あの、太宰さん」

「んー?」

「えっと……そろそろ離れて貰えると助かるんですが」

「んー……やだ」


やだって何ですかやだって。
子供のように我儘を零す太宰さんをどう扱っていいものなのか判らなくなる。
取り敢えず長椅子に腰掛けようと移動すると「あっちがいい」と太宰さんは寝台の方を指差した。
寝台に行けば離れて呉れるかと尋ねてみた処、肯定の返事が返って来る。
私は仕方無しにハァ、と溜息を吐いて、寝台に向かって足を進めた。
着きましたよ、と云って振り返ろうとすると、突然太宰さんが私を道連れにして寝台に全体重を預けるようにして倒れ込む。
重力で傾いた躰は呆気なく敷布(シーツ)に絡め取られ、私を未だ腕の中に収め続ける事に成功した太宰さんは、目論見が上手くいって満足気に息を吐き出していた。

……もう佳い。私の敗けだ。

此処迄来たらとことん彼に付き合ってやろうと、私は肩の力を抜いて包帯だらけの手にそっと自分の掌を重ねる。
その反応を受け取った太宰さんは嬉しそうにクスリと笑みを零すと、ちゅっ、と私の項に触れるだけの接吻を施した。
その後太宰さんは私の髪をくしゃくしゃとみだりに撫で回したり、啄むように首の後ろに唇を寄せたりして勝手にじゃれていたが、不意にピタリと動きを止めて私の肩口にポスリと顎を乗せる。


「なまえってさ、私に名前呼ばれるの好きだよね」

「え」


突拍子も無い処から爆弾を投げ込まれ、私はピシリと石像のように凍り付いた。
確かに私は、彼に「好き」だの「愛してる」だのと云われるよりかは、彼の声で自分の名前を呼んで貰う事の方がずっと好みでは有るが、それを本人に知られるのは何となくこそばゆくて、悟られないようにと細心の注意を払っていた。
でも太宰さんは私の浅ましい考えなんて疾っくにお見通しで、本人に隠そうと躍起になっていた自分が滑稽で莫迦莫迦しく思えて来る。
いっそ開き直って堂々と振舞った方が清々するのではと判断した私は、僅かに唇を尖らせ乍ら「好きじゃいけませんか」と不貞腐れたように呟いた。
太宰さんはクスクスと忍び笑いを漏らしながら「いいや、悪くないよ」と云って私の髪を梳く。
幼子をあやす大人のようなその手付きに子供扱いをされているような気がして少しだけ悔しくなったけれど、幾ら背伸びをしても太宰さんには敵わないやと悟った私は、大人しく彼に甘える事にした。
結局の処、本当に甘えたがりなのは太宰さんではなく私の方なのだ。
今日のように時折太宰さんが甘えて来る事はあれど、最終的には何時も太宰さんは猪口冷糖沙司(チョコレヰトソース)のようにどろりと蕩け切った声で私の名を呼び、火傷を負いそうな程熱い吐息に微かな音を乗せて甜言蜜語を囁いて、私という存在をぐずぐずに融かして嘗め尽くす。
彼を毒し、彼に毒され、今日も私達は2人きりの理想郷で蜜に塗(まみ)れた時間を過ごすのだ。
なまえ、と、太宰さんが再び私の名前を呼んだ。
私は真横に有る太宰さんの蓬髪を指の先でするすると弄び乍ら、何ですか、と言葉を返す。
―顔、見せて。
憎たらしい程に居心地の善いテノールボイスは鼓膜を伝って直接的(ダイレクト)に腰に快感を齎(もたら)し、私は一瞬呼吸さえも忘れてその美声の余韻に浸っていた。
彼の声には魔力が宿っている。
全てを包み込むような優しさを持つ一方で、全身を絡め取るような絶対的な拘束力をも持ち併せているのだ。
ゆっくりとした動きで寝返りを打ち、太宰さんと向き合う形になった処で躰を固定する。
鼻先がくっつきそうな程の至近距離でじっと瞳の奥を覗き込まれ、心臓が肋骨の奥から飛び出して仕舞いそうな程に五月蠅く鼓動を鳴らしていた。
私は慚愧(ざんぎ)に堪えかねて、咄嗟に口許を掌で覆い隠す。
太宰さんは私の反応を見て一瞬だけ鳶色の双眸をぱちくりと瞬かせるも、すぐに目を弓形に細めてやんわりと私の両手を握り込んだ。
私の手よりも一回り大きい包帯だらけのその手は、低体温の彼にしては珍しく、確かな熱を持って今此処に存在している。
太宰さんは御伽噺の王子様宜しく私の手の甲に唇を寄せて接吻を落とすと、その儘私の手を自分の方にぐいと引き寄せて私の躰をぎゅうと抱き竦めた。
途端に強く馨る太宰さんの匂いにくらりと脳髄が揺れ、失神して仕舞いそうになる。
太宰さんはそんな私の後頭部を優しくポンポンと撫でると、耳朶に触れるだけの接吻を施してからこう囁いた。


「こんなのじゃ未だ足りない。もっともっと、君に溺れさせては呉れまいか」





Congratulations on the 1st anniversary of "Supernova"!!

ALICE+