短編
いつかの10月31日

(side:なまえ)

「なまえさん、トリックオアトリート!」

「……え?」


私は間の抜けた声を発しながら、そう言って来た人物―紀田正臣君をまじまじと見つめた。
今日は10月31日、ハロウィンだ。
確かに昨今ハロウィンというイベントは日本でも大きな盛り上がりを見せつつあるが、まさかこんなに近くにハロウィンを心から楽しめるような人物がいるとは思わなかった。
何せ今の私の身近にいる人物は、高みの見物が大好きな胡散臭い情報屋と、弟への愛を拗らせているクールビューティな秘書。
とてもハロウィンに興味があるとは思えない。
そして私自身も、こういったイベント事にはあまり関心を向けないようにしてきた。
何故って、思い出してしまうから。
昔の、たった一瞬の、幸せだった『あの頃』を。
つまり端的に言ってしまえば、ハロウィンのような行事とは無縁を貫いて来た私がお菓子なんて持参してきている訳もなく―冒頭に述べたような薄い反応しか出来なかったという訳である。


「えええっ、なまえさんノリ悪いですよ〜!まさか今日が何の日か知らないんですか?」

「ううん、知ってるよ。ハロウィンでしょう?」

「そう、その通り!ハロウィンですよなまえさん!今日はお菓子を持っていない女の子に合法的に悪戯が許される日!まさに絶好のチャンス!……という事で、俺とデートしてください!」

「紀田君、声が大きい。あと顔が近い」


ずいっ、と勢いよく身を乗り出して来た紀田君に、私は真顔でそう告げた。


「うう、なまえさんが冷たい……」


あまりにも淡々とした私の反応に、紀田君は激しく落ち込んでしまったようだ。


「ちょっと紀田君。あんまりみょうじ先輩の事困らせちゃ駄目だよ」


そんな時、私達の後ろから声を掛けて来たのは、紀田君の幼馴染の竜ヶ峰帝人君だった。
その隣には、帝人君のクラスメイトの園原杏里ちゃんも佇んでいる。


「みっかどー!聞いてくれよおおお!なまえさんに!振られたぁー!」

「うん、それいつもの事だよね」

「ぐはっ」


帝人君にも淡々と突っ込まれ、紀田君は更にダメージを受けている。
私と杏里ちゃんは思わず顔を見合わせると、耐えかねたようにクスクスと小さく笑い声を漏らした。


「杏里となまえさんが笑った!?おい帝人、これは日本の歴史が動いた瞬間だぞ!」

「いや、流石にそれは大袈裟なんじゃない……?」

「馬鹿野郎!これを大ニュースと呼ばなくてなんと呼ぶんだよ!この2人の笑顔なんて滅多に見られねー代物だぞ!?」

「そ、そう、ですか……?」


紀田君の気迫に押され、杏里ちゃんもたじたじのようだ。
私はというと、自分があまり笑顔を浮かべない自覚は多少なりともあるので、紀田君のこの発言には苦い笑みを浮かべることしかできなかった。
そして、1人盛り上がり続ける紀田君とそれを宥める帝人君のことを杏里ちゃんと一緒に眺めていると、私の携帯電話にメールの通知が入って来た。
ロックを解除して中身を確認すると、それは雇い主からの連絡で。

『今すぐ事務所に来て』

端的に纏められたその文を見て、急ぎの用事なのだと私は察する。


「ごめん、皆。私、用事ができたから先に帰るね」

「用事!?まさかこれからハロウィンパーリィですか!?」

「違う違う。バイト先の上司に呼ばれただけ」

「ああ……それなら、すぐに行った方が良いかもしれませんね」


どうやら、帝人君は私が誰に呼び出されたのか気が付いてくれたようだ。
機転が利く彼に内心感謝しつつ、3人に軽く手を振って別れを告げる。


「なまえさーん!今度こそデートに行きましょうねぇー!」


紀田君が私の背中に向かって大きな声でそう言っているのが分かる。
チラチラとこちらを見て来る他の生徒達の視線が痛くて、私は小走りでその場を去ったのだった。


♂♀


「……で、これはどういう状況なんですか」


数十分後。
折原さんに呼ばれた私は、あの後真っ直ぐ彼の事務所に足を運んだ。
部屋に入るや否や、強い力で腕を掴まれ、ソファに強制連行される。
ぼすり、とそこに腰を下ろすと、折原さんは私の向かい側に腰掛けて、先ほどの紀田君と全く同じ台詞を、私に向かって吐いてみせた。
当然、私がお菓子なんか持っている訳もなく。
取り敢えず、こういうイベントとは全くもって無縁のところで生きていると思しきあの折原さんが、どういった風の吹き回しでハロウィンなんかに興味を抱いたのか、聞いてみようと思った次第である。


「別に、日々行っている君の観察の一環に過ぎないよ。確かに俺はハロウィンだなんて頭の悪そうなイベント事には微塵も興味が沸かないけど、前にも言った通り俺は君のその仮面のような表情を崩す為ならなんだってやる」

「そうですか。あまりにも下らない理由に眩暈がしそうです」

「うん、今日も絶好調に辛辣だね」


折原さんは私の言葉にわざとらしく肩を竦めた。
私はというと、こんなことの為だけに急いで新宿まで帰って来たことが心底バカバカしく思えて来て、大袈裟に溜息を吐いてからソファから立ち上がる。


「ちょっと、何処に行くの?」

「用事はもう済んだでしょう。帰ります」

「まだ始まってすらいないんだけど」

「用事があるなら他の人を当たってください。私はこれ以上貴方の遊びには付き合っていられませんので」


折原さんに背を向けて玄関に直行するも、彼はそんな私の行く手を阻むように目の前に滑り込んで来た。


「もう、一体何なんですか」


いい加減に腹が立って来て、私は苛立ち混じりにそう吐き捨てる。


「言っただろう?トリックオアトリート。お菓子が無いなら悪戯あるのみ、だよ」


折原さんはそう言って私の頬を両手で挟み込む。
その指先が思っていたよりも冷たくてビクリと肩を震わせると、視線を逸らすのは許さないと言わんばかりにグイと顔を上に持ち上げられた。
折原さんの赤い瞳に、困惑気味な私の顔が映り込んでいる。
華奢な指先が頬骨をそろりとなぞり始めた時点で、漸く自分の中で警鐘が鳴り響いた。
どん、と折原さんの胸板を両手で押し返し、踵を返して部屋の中に逃げ込む。
取り敢えず2階に登って柵の間から下の様子を伺っていると、部屋の中に戻って来た折原さんは私を見るなりわざとらしく眉尻を下げた。


「酷いなぁ。何も突き飛ばすことはないじゃない」

「だ、だって、何となく、嫌な予感がして」

「何それ。まさか俺がなまえちゃんのこと襲うと思ったとか?」

「なっ」


間違いない。これは完全に揶揄われている。

ニヤニヤと笑みを浮かべて尋ねて来た折原さんを見て、私はそう確信する。


「生憎だけど、女子高生に手を出すほど、俺は相手に困っちゃいないよ。……でも、今日が10月31日なら―まあ、話は別かもね?」


折原さんは驚きで目を見開いている私の顔を見つめながら、一段ずつ階段を登って来た。
私は咄嗟に周りを見回すも、ここの2階はファイルの入った棚が敷き詰められているだけで一方通行だし階段は1つしかない。
つまり―折原さんが階段にいる以上、私には逃げる術がない。
一歩ずつ地面を踏みしめるように歩く折原さんは間違いなく確信犯で、廊下の奥に逃げ込む私を内心で嘲笑っているのだろう。


「なまえちゃん」


いよいよ私を壁際に追い詰めた折原さんは、座り込んでいる私と視線を合わせるように自分もその場でしゃがみ込んだ。


「トリックオアトリート。お菓子をくれないってことは、俺に悪戯されても文句は言えないってことだよね?」

「や、めてください」


そう吐き出す私の声は、自分でも判るくらいに震えていた。
折原さんが怖い訳じゃない。
……否、折原さんのことは今でも少し怖いけれど、今私がこんなにも情けない気分になっているのは、折原さんの所為だけじゃない。
イベント事は嫌いだ。楽しかったあの頃を思い出す度に、惨めな気分に陥るから。
本当は、街の装飾を目にするのも、テレビでそういった事に関するニュースを見るのも、誰かとイベント事の話をするのも大嫌いだ。
唇を噛んで俯いている私を、折原さんが値踏みするように見つめているのが解る。
もう、ここから逃がして欲しい。
柄にも無く泣き出しそうな気持ちになっていると、ぽん、と頭の上に手が乗せられた。


「冗談だよ。ちょっと揶揄いすぎちゃったね」

「……え」


その手は、そのまま子供をあやすような手つきで何度も私の頭を撫で回す。
何で、とか、どうせまた揶揄っているんだろう、とか、言ってやりたいことはたくさんあったけれど、何の邪気も感じさせない彼の表情が余りにも珍しくて、絆されることにした。


「……まだ、『あの頃』のことを引きずってるの?」


私の呼吸が落ち着いてきた頃合いを見計らって、折原さんは私にそう声を掛ける。
私が何も言わずにコクリと頷くと、彼は「ふぅん」とだけ呟いてから立ち上がった。


「君の『過去』ってやつは、本当に淋しがりなんだね」


ああ、いつもこうだ。

何でも悟ったような顔つきで突き落として、落としたところを掬い上げて虜にして。

これだから、この人のことは苦手なのだ。

折原さんの見せる気遣いなんて、優しさなんて、全部演技だって解っているのに。
私のことを解っているのはきっとこの世で折原臨也という人間だけで、だからこそ、逃げたくても離れたくても結局は彼に縋ってしまって。


「……本当に、いけずな人ですね」


悔し紛れにそう言ってみせると、折原さんはニコリと貼り付けたような笑みを浮かべた。


「それはどうも」


結局、折原さんがこのイベント事に乗じて私に何をさせたかったのかはよく分からなかったけれど。
それでも、満足げに階段を下りて行く折原さんの後ろ姿を見ていたら、もう色々考えるのも面倒になってきて、私も彼の後に続いて1階に戻ったのだった。


♂♀


「あの子は未だ、鳥籠の中の雛鳥だ」

羽ばたくための翼なんて必要ない。
そんな不必要なものは、親鳥である俺がむしり取ってあげなきゃね。

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