短編さぁ、恋を始めよう
麗らかな陽射しが差し込む昼下がり―。
中島敦は欠伸交じりに武装探偵社に向かって歩いていた。
彼は今日、上司の国木田に、午後から出勤するようにと云われていた。
その為、これから職場に向かう処なのである。
こんなに佳い天気の日は、もう一人の上司が鶴見川にでも飛び込んでいそうだなァ、と考え乍ら、ゆったりと階段を登っていると。
「うわあああぁ敦君避けて避けて避けて!」
悲鳴交じりの声と共に、突如目の前に『何か』が現れた。
「……え?」
余りに唐突過ぎる事態に、白虎の異能を持つ敦ですら対処仕切れなかった。
「んんんんんん!?」
気が付けば敦は『誰か』に押し倒されていて、その誰かの唇が、ふに、と自分の唇に押し当てられていて―。
「ご、御免なさいっ!」
敦が自分に降りかかった災厄を認識し掛けた瞬間に、彼の上に乗り上げていたその人物―みょうじなまえは慌てて敦から離れていった。
そして、未だ唖然とした顔をしている敦に向かって何度も頭を下げる。
「あ……いえ、あの……?」
敦は半ば放心状態で、言葉にならない言葉を吐き出し続ける事しか出来ない。
「阿っ破っ破!何今の!凄いねェ!」
すると、上の階から派手な笑い声が聞こえて来た。
敦となまえが声のする方に顔を向けると、上司の一人である太宰治が腹を抱えて爆笑し乍らバシャバシャと写真を撮っているのが見て取れる。
「ねェ、兄様!今の御覧になって?まるで漫画のような展開でしたわね!」
「なまえも中々やるようになったじゃないか」
その後ろから姿を現したナオミは興奮してキャーキャーと叫んでおり、乱歩と与謝野は愉快そうに唇の端を釣り上げてにやにやとした笑みを浮かべていた。
国木田は心此処に在らずといった状態でブツブツと何か呟いていて、谷崎は賢治と鏡花の目元を覆い隠して苦笑いを浮かべている。
社長がその場にいなかった事だけが、唯一の救いだろうか。
「あ、あの……一体、何が如何なってこうなったんですか?」
漸く気持ちが落ち着いてきた処で、敦は申し訳無さそうにちらちら此方を見詰めているなまえにそう声を掛けた。
「え、えっと……。無理して重い荷物を一人で外に運ぼうとしていたら、足を踏み外して階段から落ちちゃったの。本当に御免ね。怪我は?してない?」
「はい……大丈夫、です……」
「そっか……。それなら、佳かった、です……」
なまえは顔を真っ赤にして俯いている。
「あ、あの……僕、此れ外に運んで来ますね!」
気拙い空気を払拭するかの如く、敦は態とらしい位に明るい声を出した。
「あ……えっと、私も手伝う!」
なまえも彼に釣られて慌てて立ち上がり、床に散らばった資料を拾いに掛かる。
敦が最後の荷物を拾い上げようと手を伸ばすと、丁度同じ時機で彼女もそれに手を伸ばしていたようで、ちょん、と互いの指先が触れ合って仕舞った。
「あっ」
「えっと……御免なさい!」
再び頬を赤く染め乍らペコペコと頭を下げ合う二人を見て、探偵社の面々の殆どは呆れたように溜息を吐く。
「……ねェ、何あの茶番劇」
「矢ッ張り、まだまだ初心だねェ」
そして、もう敦となまえには付き合っていられないと云わんばかりに、皆それぞれの業務に戻っていったのだった。
件の事件から、約一週間後。
みょうじなまえは悩んでいた。
あの日以来、敦とは気拙い関係の儘で、互いにぎこちない笑みを浮かべ、一日の内に二言三言会話が続けば上出来といった状態が続いている。
何時までもこんな状態では仕事にならないと頭では判っているものの、いざ彼の顔を見ると変に意識して仕舞うのだ。
「はあ……如何しよう……」
「敦君との事?」
行き成り口を挟まれ、なまえは小さく悲鳴を上げて声の主の居る方に視線を向けた。
「一寸、太宰さん……!驚かさないでくださいよ!」
「うふふ、御免御免」
頬杖をついてにこにこと微笑む太宰は、大して悪びれる様子も無くなまえに謝ってみせる。
「見るからに浮かない顔をしているなまえちゃんを見ていたら、声を掛けずには居られなくなって仕舞ってね。今なら他の社員も出払っているし、私で善ければ話を聞いてあげようか?」
魅力的なそのお誘いに、思わず名前の瞳の奥が揺れる。
だが、直ぐに顔を顰めると、ジト目で太宰を見上げ乍らこう云った。
「あの、その提案は凄く嬉しいんですけど……太宰さん、此の状況楽しんでませんか?」
「ん?そりゃ、楽しむに決まってるじゃアないか!だって君達、見ていて揶揄い甲斐が有るんだもの。嗚呼、でも大丈夫。相談事なら真面目に聞くよ?」
「……」
此処迄開き直られて仕舞うと、もういっそ清々しい。
なまえは大きく溜息を吐くと、此の儘では駄目だと頭では判っている事、そして此れから如何やって敦と接すればいいのかという悩みを太宰に打ち明けた。
「うん、もうさ……敦君と付き合っちゃえば?」
話を聞き終えた太宰は、目をぱちくりと瞬かせてそう言い放つ。
それを聞いた瞬間に分厚い書類を振りかぶろうと構えたなまえを見て、太宰は「否、私真面目に答えた心算なのだけど!?」と悲鳴を上げた。
「嘘吐き!矢ッ張り太宰さん真面に話聞く心算無いですよね!?」
「大有りだよ!だってなまえちゃん、ずっと前から敦君の事が好きなんだろう?だったらもういっそ告白しちゃえば佳いじゃないか!」
「え」
太宰の発言に、ビシリ、となまえの表情が凍り付いた。
「な……な、ななな何云ってるんですか?私、別に彼の事なんて好きじゃ有りません」
「否、何でソコ否定するの。明らかに動揺してるよね」
「してません気の所為です」
「……」
「……」
暫しの間、二人の間に沈黙が流れる。
ハァ、と大きな溜息を吐いて先に折れたのは太宰の方だった。
「判った。仮になまえちゃんが、敦君の事を好きじゃなかったとして―じゃあ君にとって、敦君は如何いう存在なんだい?」
「如何いうって……可愛い後輩だなァとは思いますけど」
「本当に?本当に、只それだけ?」
「……何が云いたいんですか」
なまえは顰め面で太宰を睨みつける。
「質問を変えよう。若し、敦君が他の誰かとお付き合いをする事になったら―君は如何思う?」
「それは……敦君がそうしたいなら、私はそれを応援するだけです」
「なまえちゃん。今此処で求められている答えは、建前じゃなくて君の本音だよ」
「私の……本音……」
なまえは目を閉じて、自分の心と正直に向き合ってみる。
―敦君が他の誰かのものになったら?
―私は彼を応援するだけ?
―本当に、それだけで佳いの?
「……厭、です」
数分後、ゆっくりと目を開けたなまえは、力無く首を振り乍らポツリと呟いた。
「敦君の選択なら、仕方ないって頭では判ってるけど、でも私、敦君が他の誰かのものになっちゃうなんて、そんなの厭です。厭に決まってます。敦君は私のものだなんて大それた事云う心算は無いけど、私、敦君の事、ずっとずっと想ってた」
「あの、えっと、なまえちゃん?」
「ええそうですよ太宰さんの仰る通りですよ。私はずっと前から敦君の事が大好きでしたよそれが何か?ずっとずっと大好きでしたよ此れで満足ですか!?」
ドサリ。
背後から、何かが地面に落ちたような音がした。
なまえがくるりと後ろを振り向くと、今正に話題に上がっていた人物が、月色の瞳を大きく見開いて此方を見詰めている。
「あ……えっと、此れは、その……」
―如何しよう。
―今の、絶対本人に聞かれてたよね?
心の中でそう呟いた瞬間、ぶわり、となまえの顔が林檎のように真っ赤に染まった。
「……一寸来て下さい」
敦は太宰を軽く睨み付けてから、なまえの腕を引いて部屋の外へと出て行く。
「……やれやれ、世話が焼けるよ、本当に」
太宰は二人が出て行った扉を見つめ乍ら、眉尻を下げてそう呟いた。
「あの……えっと、敦君?」
俯いた儘黙り込んでいる敦に痺れを切らしたなまえは、恐る恐る目の前の少年に向かって話し掛ける。
すると敦は、繋がれた儘の手をぎゅう、と掴み、低い声で囁いた。
「……先刻のアレ、本当なんですか?」
「……私が、太宰さんに向かって喋ってた内容の事?」
念の為にそう尋ねると、敦は小さく頷く。
「……うん、私の本音だよ」
「……そうですか」
依然表情を変えずにそう呟く彼に、なまえは慌てて言葉を付け加えた。
「あ、あの、別に先刻のは告白じゃないからね!売り言葉に買い言葉というか……私が勝手に想いをぶちまけただかだから!だから……その、あんまり気にしないでね?」
「……厭です」
「え?」
次の瞬間顔を上げた敦は、ほんのりと耳を赤らめつつも、少し悔しそうな表情でなまえの瞳を見詰めていた。
「あんな事云われて、気にならない訳無いじゃないですか。それに、そうやって名前さんだけ云いたい事を云ってスッキリするなんて狡いです。だから……僕にもきちんと云わせて下さい」
敦はそう云うと、なまえに一歩近付いてから口を開いた。
「太宰さんの思惑通り、って感じなのが、一寸癪に障りますけど……まァ佳いや。僕も、ずっと前からなまえさんの事が好きでした」
「……え?」
思わぬ返答に、なまえは信じられないとでもいうように眼を見開く。
「本当は、僕の方からちゃんと告白する心算だったんですけど……なまえさんにあんな事を云わせて仕舞って御免なさい。その代わり、此れだけは僕の方から云わせて下さい」
敦はすぅ、と息を吸い込むと、深く腰を折って頭を下げた。
「みょうじなまえさん。僕とお付き合いして頂けませんか?お願いします!」
敦の覚悟をひしひしと感じ取ったなまえは、無意識に小さく息を呑み込む。
「……本当に、私で佳いの?私が、敦君と恋を始めても佳いの?」
「僕は、名前さんと一緒じゃなきゃ厭です」
「……うん。判った。これからどうぞ宜しくね」
なまえは頬を赤らめてそう答えると、敦の身体をぎゅう、と抱き締める。
敦は一瞬戸惑ったものの、直ぐに彼女の背中に手を回して同じように抱き締め返した。
次の瞬間。
パパパン、と乾いた音と共に、武装探偵社の扉が内側から開かれる。
「「え」」
なまえと敦が固まっていると、扉の向こう側から社長を含む全社員が姿を現した。
「な……何で?太宰さん以外は皆、出払っていた筈じゃ……?」
「さぁ、何でだろうねェ」
「おめでとうございます、敦さん、なまえさん!ナオミ、お二人の幸せを心から願っていますわ!」
質問に答える代わりにそう云った与謝野とナオミは、クラッカーを片手にクスクスと笑っている。
「国木田さん!何とか云って下さいよ!」
敦が扶けを求めるかのようにそう云うも、彼は呆れたように「幸せになれよ」と口にするのみ。
ならば社長である福沢に、と眼を向けるも、彼は「程々にな」と一言だけ発して社長室に戻って行って仕舞った。
「と、いう訳で……君達二人は今日から探偵社公認の恋人同士だ!おめでとう、二人共!」
「太宰さん……真逆、此れが狙いだったんですか!?」
「厭だなァ。私は悩める可愛い後輩達に、道標を示してあげただけだよ」
太宰はそう云うと、パチリ、と片目を瞑ってみせる。
―嗚呼もう、如何にでもなれ!
開き直ったなまえは、敦に身を寄せると、爪先立ちで彼の頬にちゅ、と口付けた。
彼女の思いがけない行動に、敦を始めその場居た全員が目を見開いている。
「敦君。私今、最っ高に幸せ!」
なまえは敦の頭を撫でてそう云うと、悪戯が成功した子供のようにペロッと舌を出した。
「……なまえさん。僕も今、凄く幸せな気分です」
敦は彼女に対してそう答えると、ふわり、と咲き誇るような柔らかい笑みを浮かべる。
「えっと……何か私達、惚気を見せつけられているような気がするのだけど……」
「あはは、つい先刻迄ぎこちない関係だった奴等とは思えないねェ」
幸せそうにはにかんだ笑顔を浮かべる二人を見詰め乍ら、探偵社の面々もまた、何処かほっとしたような笑みを浮かべていた。