短編
万華鏡カレヱドスコオプ

午前八時、鶴見川。
今日も、一個下の会社の後輩の所在を探す処から一日が始まる。
太宰治、二十二歳。
好きな物は酒と蟹、嫌いなものは犬と中原中也。
そんな彼は、『清く明るく元気な自殺』を標語モットーに掲げる自殺嗜好家マニアだ。
彼は昨日、山下公園で首吊り自殺を試みていた。
一昨日は、部屋に籠もって練炭自殺をしようとしていた。
その前は確か、毒茸を食らって死のうとしていた。
その前は……と、思い出そうとするとキリが無い。
太宰の自殺行動パターンから考えて、そろそろ彼は入水自殺を試みるだろう、と考えた私は、朝からこうして鶴見川の畔に腰掛け、ゆらゆらと後輩が流れて来るのを待っている、という訳だ。
ほら、案の定。
憎たらしい程に長い両足が、水面からひょっこりと顔を出している。
……否、足が出ているのに、『顔が出ている』という言葉の使い方はおかしいが。
兎に角、私は大きく溜息を吐くと、立ち上がって川に向かって走り出した。


「だーざー……いっ!」


憤怒の表情を顔に浮かべ、厄介な後輩の両足を引っ掴む。
そして、何とか川岸まで巨体を引っ張り上げると、彼は当然のように私の上に乗っかって来た。
この際、「ぐぇっ」と潰れた蛙のような声が出て仕舞ったのは仕方の無い事だと思う。


「あーあ。また死ねなかった。なまえさんの所為ですよ」

「死のうとする方が悪いんでしょう。巫山戯た事してないで、さっさと探偵社に行こうよ」

「えええ……なまえさんは手厳しいなァ。もう少し休ませて下さいよ。私、一寸疲れちゃった」

「は?何言っ……ってこら!お腹に手を回すな!寝〜る〜な〜!」


こうなって仕舞った太宰治は、もう此方が何を言っても梃子でも動かない。
私は今日何度目かの溜息を吐くと、渋々国木田に電話を入れた。
 
 
 △▼△
 
 
「づ……づがれだ……」


午後六時、私は自分のデスクに突っ伏して独り言を漏らしていた。
国木田と敦君に協力して貰って何とか久し振りに太宰ダメ男を出社させたは良いものの、今日も私はあの男に振り回され、散々な目に遭ったのだ。
途中で敦君が助け舟を出して呉れたかと思いきや、何時の間にか太宰が邪魔をして来た所為でまた仕事が滞った。
何なんだろう、あの男は。一体何がしたいんだろう。


「お疲れ様でございますわ、なまえさん」


そんな私の前に、日本茶のホッとする香りがいっぱいに広がった。
顔を上げると、ナオミちゃんがにこにこと笑みを浮かべ乍ら私の隣に腰掛けている。


「お茶、淹れて来ましたの。少しお話しません?」


―皆さん、もうお帰りになられたようですし。

その言葉に釣られて辺りを見回すと、何時の間にか社内には私達二人以外誰も残っていなかった。
『あの』ナオミちゃんが、谷崎くんと一緒に帰らないなんて珍しい。
私が目をパチパチと瞬かせていると、ナオミちゃんはそんな私を見てクスクスと笑い出す。


「兄様の事なら大丈夫ですわ。今日は私、なまえさんとどうしてもお話がしたくて、無理を言って先に帰って戴きましたの」

「そ、そうなんだ……」


そういう事なら、と私は腹を括る。
そして、一口お茶を啜ってから、「話って何?」とナオミちゃんに促した。


「ええと……単刀直入に伺いますわね。なまえさん、太宰さんのことお好きなんでしょう?」

「んぐほぇッ」


余りに唐突過ぎるその言葉に、お茶が気管に入って仕舞ったようだ。
ゲホゲホと咳き込む私を見たナオミちゃんは、「大丈夫ですか⁉」と慌てた様子で背中を擦って呉れた。
少しして漸く落ち着いた私は、未だ若干濡れた瞳でナオミちゃんを見つめて口を開く。


「えーっと……ナオミちゃん?私、あんな男の事全然好きじゃないよ」

「……いえ、あの、なまえさん。今の言動を見た後では説得力に欠けますわよ」

「本当だよ!あんな自殺男……」

「なまえさん、頬が赤いですわ」

「嘘!」

「まァ嘘ですけれど」

「……」


どうしてこう、私は年下に翻弄されてばかりいるのだろう。自分が情けない。
先程とは違った意味で机に頭を突っ伏すと、ナオミちゃんは両手で口許を押さえて上品に笑った。
私はそんな彼女をジト目で睨みつけ乍ら、観念して口を開く。


「……ナオミちゃん、私ってそんなに判り易いのかなァ」

「ええ、そうですわね。多分、国木田さんと敦さん以外の皆さんは、なまえさんのお気持ちをご存知かと思いますわよ」

「嘘……太宰も?」

「ええ。太宰さんも、屹度お気付きなんじゃないかしら?」


詰まりあの男は、私の気持ちを全て知った上で尚、私を掌で遊ばせている、という事か。
うわ何それ物凄く恥ずかしい。
呆れたり怒ったりした態度を取り乍らも若干舞い上がっていた自分が莫迦みたいだ。
再び机に突っ伏したくなる衝動を抑えて、私はナオミちゃんに向き直った。


「ナオミちゃんんん……私、これからどんな顔して太宰に会えば善いのかなァ」

「そうですわね……いっその事、告白して仕舞えば宜しいんじゃなくって?」

「ええええ⁉私が⁉太宰に⁉無理無理無理!」


ナオミちゃんの発言に、私は思わずその場に立ち上がる。
彼女はそんな私の言動に「あら、残念ですわ」と肩を竦めた。
此れはもう、アレだ。完全に面白がっている。
他の社員なら相談に乗って呉れるかも、と思ったが、脳内でニヤニヤ笑みを浮かべる与謝野女医と乱歩さんの姿を思い浮かべた瞬間に、その考えは即刻打ち消された。
そして、完全に黙り込んで仕舞った私に、ナオミちゃんが再び話しかける。


「なまえさん。私で宜しければ、何時でも力になりますわ」

「う、ん……有難う」


 私はぎこちない笑みを浮かべ、彼女にそう答えを返した。
 
 
 △▼△
 
 
翌朝から、私は太宰の所在を探すという日課を止め、代わりに朝一番に出社するようになった。
此れ以上、あの男の前で惨めな自分を晒したくは無かったからだ。
彼に会えないのは淋しい気持ちもあったけれど、会わないお蔭で振り回される事も無くなって、私は穏やかな日々を送る事が出来た。
いっそ此の儘、少しずつ片想いを終らせても善いのではないか。
一週間ほど経った或る日、私がそう思いながら朝一番に出社をすると、何となく、社内に人の気配を感じ取った。
若しかして、もう誰か出勤しているのだろうか。
自分の机に荷物を置いてからきょろきょろと辺りを見回すと、視界の端で見慣れた砂色の外套がふわりと揺れ動く。


「!」


慌てて外に続く扉に手を掛けた処で、もう片方の腕を包帯だらけの右手にギリリと掴まれた。


「何処に行くの」


温度を感じさせないその声に、私の背筋がビクリと震え上がる。


「わ……忘れ物、が、あったから、取りに―」

「なまえさん私の事避けてますよね?何で?」

「避……けてな―」

「じゃあ如何して目を合わせようとしないんですか?」


此の男のこういう処は苦手だ。
こうやって段々逃げ道を塞いで、確実に標的を仕留める捕食者染みた処。
一度彼の罠に掛かったら最後、彼が納得するまで解放しては貰えないという事を、私は厭でも知っている。


「此方を見てよ、なまえさん」


頑なに目を逸らし続けていると、太宰は私の顎を掴んだ。
その圧に耐え切れずに遂に彼に視線を遣ると、光の宿っていない濁り切った鳶色の双眸が、此方をじっと見下ろしている。
今迄何度かその目をしている太宰を見た事はあったけれど、それが自分に向けられた事は一度として無くて、私は初めて此の男の事をはっきりと『怖い』と思った。

でも、判らない。


「何で……如何してそんなに怒ってるの?私、全然心当たりが無いんだけど」

「……怒る?私が?何で怒らなきゃいけないのさ」


―そんなのこっちが聞きたいんだけど!

あからさまにムスッとした顔をしてみせると、彼もまた眉間に深く皺を寄せた。


「嗚呼もう……何で貴女は……」


太宰がブツブツ呟いているが、何を云っているのかよく分からない。
もう一度手を振り解こうと試みると、太宰は絶対に此の手を離すまいとでも云いたげに、私の腕を強く掴み直した。


「痛っ……太宰、痛い、よ、」

「気に入らない。如何して私を拒絶するんですか?」


見上げた先の太宰の顔は悲痛に満ちていて。
如何して彼がそんなに哀しそうな表情を浮かべるのか、私には判らなかった。
泣きたいのは、怒りたいのは、寧ろ私の方なのに。


「そんなの……そんなの、云わなくても察してよ」

「……は?」

「私、今失恋して傷心中なの!此れで満足⁉」


―判ったら、もう放っておいて!


半ば自棄になってそう吐き捨て、今度こそ太宰の手を振り払う。
唖然として立ち尽くす彼の手からは既に力が抜けきっていて、私は難なく彼から距離を取ることが出来た。
じわり、と目頭が熱くなり、泣きそうな顔を見られたくなくて思わず俯いて仕舞う。
痛々しい程の沈黙が此の場を支配しており、私は他の社員が早く出勤して呉れるようと祈る事しか出来なかった。
だが、そんな願いも虚しく、探偵社員は誰一人として一向に姿を現す気配が無い。
もう厭だ。帰りたい。
そう思って一歩後退った時、頭の上から弱々しい声が降って来た。


「……なまえさん、失恋したんですか?」


―はァ?

私の気持ちを知っている癖に、今更何を惚けているのか。
思わず目が吊り上がって仕舞う。


「だから、そう云ったじゃん。何回も云わせない―」

「その相手って誰。私の知ってる人?」

「……え」


流石に違和感を覚え、私は目の前の後輩の顔を見上げる。
太宰の瞳には、孤独な夜の闇が広がっていた。


「だ……太宰?」


此れ以上火に油を注いだら、私は明日の朝日を拝めない気がする。
そう思って咄嗟に名前を呼ぶと、太宰はギロリと此方をめつけた。
その際、私の口から「ひ……」と小さく悲鳴が零れ落ちて仕舞ったのは仕方の無い事だと思う。
太宰は口を真一文字に結んだ儘、真っ暗な瞳で私を只管に見つめていたが、暫くすると、綺麗な顔をぐしゃりと歪めて口を開いた。


「……さない」

「……へ」

「許さない、許せない。私には、なまえさんだけなのに……!」


絞り出すように吐き出されたその言葉に、私は目を丸くする。

―嗚呼、ナオミちゃん。私達、どうやら物凄く勘違いをしていたのかも知れない。
―此の人は……太宰は、私が誰を好いているのか、全くもって知らなかったんだ。


「……太宰」


私は彼に一歩近づき、その頬にやんわりと両手を添えた。


「私が恋をしているのは―貴方だよ」


その言葉に、今度は彼の方が大きく目を見開く。
そして次の瞬間、彼はほんのりと桜色に頬を染め、包帯だらけの掌で自分の口許を押さえ付けた。
此れまでの彼の言動や今の反応を見てしまうと、若しかしたら、と私は厭でも期待して仕舞う。


「……なまえさんが毎朝私を探しに来なくなってから、胸がザワついて仕方なかった」


そして太宰は、ポツリポツリと話を始めた。


「私らしくも無いのだけれど、何をしていても何時も上の空で、心が落ち着かなかった。だから、直接貴女に会って話をすれば解決すると思った。それなのになまえさんは私を避けるし、挙句の果てには失恋しただなんて言い出すし……。それを聞いた瞬間、胸の中で澱んでいたドロリした感情が溢れ出して止まらなくなって、目の前が真っ赤に染まって見えた。ねえなまえさん、なまえさんは私に恋をしていると言って呉れたけれど……なまえさんの内に渦巻く感情も、こんなにどろどろとした、ドス黒い感情なんですか?」


何時もだったら飄々とした態度で私を弄ぶ彼が、今日は不安げに鳶色を揺らしている。
その表情は、今にも泣き出して仕舞いそうな幼子のそれと重なって見えた。

―此の人は、存外不器用な人なのかも知れない。

垣間見えた臆病な一面に、私はふとそう思う。


「半分正解、半分外れ……かな」


そして私は、太宰の小指に自分の小指を絡め乍ら口を開いた。


「太宰が街で美人さんに声を掛けて心中に誘ったり、可愛らしい女の子と話したりしているのを見ると、私の中で沸々と汚い感情が煮え滾る。『もっと私を見て欲しい、他の子に目を向けないで欲しい』って私の心が悲鳴を上げて、醜い嫉妬心がぐるぐると渦巻くの。でも、太宰が私に構って呉れたり、私に微笑みかけて呉れたりするだけで、そんな醜い感情がパッと浄化されて、胸の奥が甘く切なく疼く。どきどきして、苦しい筈なのに温かくて、もっと欲しい、もっと……って思っちゃう。人には到底見せられないようなドス黒い感情と、夢見る乙女みたいな甘酸っぱい感情が常に入り混じってる―それが、私の恋。貴方に対して、抱いている感情」

「醜い嫉妬心と、一途な恋心、か……」


太宰は私の独白に唖然とした様子だったが、直ぐに顎に手を置いて思案に耽り始めた。


「私がなまえさんに抱いている感情は、貴女自身が想像しているよりももっとグチャグチャで泥塗れで、薄汚れた感情なんだと思います。でも、貴女と一緒に居ると、そんな私の汚れて腐りきった心に光が差したような気がしていたんです。だから……だから屹度、私が今貴女に抱く此の感情は、なまえさんと同じ類のものなんだと思います」


それから彼は、包帯だらけの手で私の両手を包み込んだ。


「好きです、なまえさん」


ブワリ、と、身体の芯から何か熱いものが込み上げる。
その感情は全身を伝って頬に行き渡り、私の顔を真っ赤に染め上げた。

嬉しい、恥ずかしい。
―此の人が、心の底から愛おしい。

色々な感情が交錯して、今にも大爆発を起こしそうだ。
兎に角、心を落ち着けるべく、深呼吸、深呼吸。
すぅ、はぁと一息吐くと、私は顔を上げてにこりと笑みを浮かべて見せた。


「有難う、太宰」


―私も、ずっとずっとすきだった。

小さくそう呟き、太宰に向かって勢いよく飛びつく。
ひょろっこいと思っていた身体は思っていたよりかは確りとしていて、彼は長い両腕で私の全身を抱き留めて呉れた。


「ねぇ、なまえさん」


そして、私の背中に手を回し乍ら、太宰は耳元でこう囁く。


「私はこんな人間だから、此れから先も屹度沢山醜い感情を剥き出しにするし、情けない姿も沢山見せて仕舞うと思います。そんな私でも受け入れて呉れる、という事であれば……私は貴女と恋人になりたい」


―だから、私とお付き合いをして戴けますか?

此方を真っ直ぐに見つめてそう告白する太宰の声は、心無しか少し震えている。
私は目を弓形にして微笑むと、彼の頭に手を伸ばしてクシャリと髪を撫でた。


「私はね、私の事を揶揄う太宰も、偶に後輩面して甘えて来る太宰も、本気で仕事をしている時の誰よりも頼り甲斐のある太宰も、今みたく子供みたいな顔をして弱気になる太宰も―全部全部引っくるめて、全身で貴方に恋をしたの。だから、今更どんな姿の太宰を見ても幻滅なんてしないよ」


―だから、此れから宜しくお願いします。
そう云ってペコリと会釈をすると、ホッと安堵の溜息が聞こえて来る。


「有難う、なまえさん」


目を細めて満足げに微笑む太宰は、今迄見てきたどんな彼よりも幸せそうな表情を浮かべていて。

『善かったですわね、なまえさん!』

脳内でガッツポーズを繰り広げているナオミちゃんに心の中で感謝の気持ちを述べ乍ら、私はゆっくりと瞳を閉じて彼の唇を受け入れた。

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