短編
劇薬中毒

 ぼんやりとした青白い月が、ヨコハマの街を照らしている。
 ポートマフィアの構成員たる私にとって、夜の街というのは、特別でも何でもない、唯の日常だ。
 けれど、今日という日は、どうしようもなく特別で、そしてどうしようもなく哀しい結末を迎えるであろう日だった。

  今夜こそ、『彼』との関係を、全部終りにする。
 
 そう決意して歩く足取りは、まるで処刑台へ向かう罪人の其れのように重く、そして狂おしいほどに切実だった。


*


 彼がポートマフィアにいた頃、私は直属の部下として、其の背中を追いかけていた。
 彼が選ぶ非道な戦略、静かな狂気。
 そして時折見せる、子供のような無垢な微笑み。
 その全てが、当時の私にとっては世界の中心だった。
 任務でどれほど傷を負っても、彼が一度頭を撫でてくれれば痛みは消えた。
 彼は私にとっての痛み止めであり―同時に私を蝕む最も甘い毒でもあった。
 それなのに、彼は或る日、唐突にポートマフィアを去った。
 今思い返しても、彼がマフィアを去った直後の私は、目も当てられない位に非道かったと思う。
 何も手に付かない位に落ち込んだし、如何して勝手に出て行ってしまったのかと大暴れをした事も有った。
 でも、中也さんを始め、その他大勢の同僚のお蔭で、少しずつ時間をかけて、私は何とか本来の自分を取り戻す事が出来たのだ。
 丁度その頃だった。太宰さんが、日の当たる世界で生きられるようになったのは。
ある日、私が行きつけのバーに足を運ぶと、そこにはずっと恋焦がれていた太宰さんの姿が在った。
 真逆そんな処で彼に会えるとは思ってもみなくて、子供みたいに泣きじゃくったのを覚えている。
 その日以来、彼は時折、気紛れに私と会ってくれるようになった。
 目的など無い。ただ酒を飲み、昔話を少しだけして、彼は私を煙に巻く。
 決して踏み込ませない。決して突き放さない。
 その中途半端な距離が、私の恋を腐らせ、発酵させた。

 でも、其れも今夜で最後だ。

 此の恋を終わらせるべく、私は今日、太宰さんに別れを告げる事にした。
 何の望みも抱けぬ儘、時に身を任せて此の関係性を続けたところで、それには何の生産性も無いのだと、漸く自分に云い聞かせる事が出来たからだ。

 
*
 
 
 まだ肌寒い空の中、私は1人街の角を曲がる。
 慣れ親しんだ坂道。その先にあるのは、嘗ての上司であり、今は組織を裏切った―私だけが今もその亡霊を追いかけている『彼』の住むセーフハウス
 普段は武装探偵社の社宅で暮らしているらしい太宰さんだが、何故か私が彼に会いたいと願った時は、何時も彼は此方の家にいた。
 だから屹度……否、絶対に、彼は今日、此方の家に居る筈だ。
 道すがら、時間潰しのようにコンビニに寄る。
 特に欲しい物は無い。唯、太宰さんに会うという行為そのものに、呼吸を合わせる為の時間が必要なだけだった。
 店内を2周ほど徘徊した後、コンビニを出て手鏡を取り出し、唇にリップを乗せる。
 彼が昔、「君には其の色が似合うね」と微睡むような声で褒めてくれた、毒気のある赤。
 減っていくその容器を見つめる度に、私は自分の愛が削り取られていくのを感じた。
 一生分の『好き』は全部、とうの昔に彼という底なし沼に沈めて仕舞ったのだ。

 
「また行くのか」

 
 坂道の途中で、背後から声を掛けられた。
 振り返らなくても分かる。低く、しかし有無を言わせぬ重力を纏った歩調。
 ポートマフィアの五大幹部の1人、中也さんだった。
 彼は私の背中を見据え、隠し切れない苛立ちと、僅かな情けをその瞳に浮かべている。

 
「……此の道を行った先に、寂れた洋館が在るでしょう。私、今夜は其処で任務が有るんです」
 
「嘘吐け。其の先に何の任務が有る?どうせまたあの青鯖野郎の処に行くんだろ。あんな奴の住処に何の用だ」

「……」

 
 中也さんの言葉は、鋭利なナイフのように私の胸を突いた。
 彼には分かっているのだ。太宰治という男が如何なる人物で、彼に関わる事がどれほど『私』という人間を壊すのかを。
 黙り込む私に追い討ちを掛けるように、中也さんは口を開いた。

 
「云っておく。あんな奴は止めとけ。手前がどれだけ血反吐を吐こうが、彼奴は手前を愛しちゃいねェよ。唯の暇潰し、或いは毒味程度にしか考えてねェ」

 
 彼の云い分は正しい。
 太宰さんに縋り付くのは、自分を少しずつ毒で満たしていくのと同じ事だ。
 だから私は、素直に彼の言葉に頷いた。


「……そうですね。中也さんの仰る通りです」
 
「だったら何故行く。見ている此方が吐き気がする程、手前は彼奴に侵食されてる。悪い事は云わねぇ。彼奴だけは止めとけ」

 
 そんな事、私だって、頭では分かってる。
 彼を好きでいたかった。
 否、今でも彼の事を愛している。
 だけど、一方的に想い続けるのももう限界だと、私の心が囁いたから。

 
「……今日は、全てを終らせに行くんです。やっと、私の中で、彼を諦める決心が付いたから。だから中也さん、お願いです。今日だけは、黙って見過ごして下さい」

 
 中也さんは深く溜息を吐き、ただ一言、去り際に吐き捨てるように云った。

 
「地獄の底まで落ちる気なら、せめて死に方くらいは選べよ」


*


 太宰さんから預かっている合鍵を使って、震える手で彼の部屋の玄関の扉を開ける。
 此の合鍵を使うのも、多分今日が最後だ。
 深呼吸を一つ吐いてから、何時も通りの笑顔を作り、居間へと足を踏み入れた。
 室内は整然としており、彼特有の空気が満ちている。
 矢張り今日も、当たり前のように太宰さんは其処に居た。
 彼は長椅子に座り、窓の外を眺めている。

 
「やァ、また来たのかい?……おや?今日は随分と深刻な顔をしているね」

 
 太宰さんは私を見ると、何時も通りの空虚な笑みを浮かべた。
 此方の強がりなんて、彼には疾っくにお見通しのようだ。
 私は大人しく室内に入り、居間の扉を静かに閉めた。

 
「……今日は少し、貴方とお話がしたくて」
 
「話?珍しいね。君の方から切り出すなんて。……酒でも飲むかい?」

 
 太宰さんは立ち上がり、棚からグラスを取り出す。
 私は席につき、ぼんやりと彼が注ぐお酒を見つめた。
 酔えているのかいないのか、それが分からなくなる程に甘いお酒。
 私が此の家にお邪魔する時、太宰さんは何時もそれを出してくれた。
 彼は知っているのだろうか。そのお酒が、私の行きつけのバーで彼と再会した時に、私が頼んでいたものと同じだという事を。
 偶然か否かは分からないが、そんな些細な事にまで愛おしさが募り、毒のように私を狂わせていく。

 
「……太宰さん。私、もう限界なんです」


 気が付けば、私の口からそんな言葉が漏れ出ていた。
 
 
「……限界?何かマフィアでの仕事で不都合でも?中也のことなら、私が愚痴を聞いてあげても良いけれど」
 
「違います。……もう、会うのを止めましょう」

 
 唐突な私の言葉に、太宰さんの手が止まった。
 一瞬の静寂の後、彼はゆっくりと此方を振り向く。

 
「……如何いうことだい、其れは」
 
「私達、会うのは今日で終わりにしましょう。私、此れ以上、貴方に毒を飲まされるのは嫌なんです。愛して呉れない貴方の影を、何時迄も追い掛けている自分が、余りにも惨めで堪らない」

 
 太宰さんは沈黙した。
 彼は私の言葉を、まるで珍しい観察対象を見るかのような、冷ややかな瞳で分析している。
 痛い位に張り詰めた空気が、私と彼の間を流れて行った。
 沈黙に堪え切れなくなりそうになったその瞬間、太宰さんは穏やかな口調で口を開く。
 
 
「良いよ。じゃあ、今日で最後にしよう。……君も、漸く独り立ちする決心が付いたんだね」
 
「否、其れは違いますよ、太宰さん。私は唯、諦めたいんです。貴方を嫌いになれたら、どんなに楽かと思った。でも、それは一生無理だって、私自身が1番よく分かってる」

 
 私は立ち上がった。
 此れで良い。云いたかった事を言った。目頭の奥は未だ熱を持っているが、ちゃんと涙も堪え切れた。
 此れ以上はもう、何も残っていない。
 私が部屋を出ようと彼に背を向けたその時、背後から冷たい指先が私の手首をぎゅっと掴んだ。

 
「待ってよ。矢ッ張り先刻のは無し。今日で最後だなんて、そんな寂しい事を云わないでおくれ」

 
 悲痛に満ちた声色と共に、身体が反転させられる。
 次に視界に入ったのは、何時もの仮面を捨てた、何処か困ったような、それでいて、熱を孕んだ太宰さんの眼差しだった。

 
「……ねェ。最後くらい、良い手向けをあげようか」

 
 何も答えられずに俯いていた私が、其の言葉を理解しきるよりも前に―太宰さんの唇が、私の唇を塞いでいた。
 苦くて甘い、嘘吐きの味だ、と咄嗟に思った。
 それでも、私は抗うこともできず―唯その毒を飲み込んだ。
 
 頭の中で警報が鳴っている。
 此れは駄目だ、と理性が叫ぶ。
 
 だって、私は何もかもを終わらせる為に来た筈なのに。
 それなのに、此の冷たい熱に触れた瞬間、私の中の全細胞が、彼を求めて叫び声を上げ、悶え苦しんで仕舞っているのだ。
 
 彼が唇を離した途端、私は膝から崩れ落ちそうになった。
 太宰さんはそんな私の両肩を掴み、満足げに私を見下ろしている。

 
「……其の様子だと、矢張り未だ未練が有るンだね。君は一生、私の毒から逃れられないよ」

「ッ、最低!」

 
 私は手の甲でゴシゴシと自分の唇を拭い乍ら、震える足で夜の闇へと飛び出した。
 拭っても拭っても、彼の味が消えない。
 脳裏には、彼の嘲笑が焼き付いている。
 
 こんなの酷い。酷過ぎる。
 先刻から、溢れ出る涙が止まらない。

 あれは、罰だった。
 私が「終わらせる」と口にした事への、残酷な報復。
 
 でも、私は屹度彼を嫌いになんてなれないし、彼も私が彼を嫌いになれない事を分かっている。
 だからこそ、彼は態とあんな事をしてみせたのだ。
 漸くちゃんと、失恋をする決心が付いたというのに、太宰さんは私に、失恋をする資格すらも与えては呉れなかった。
   
 嗚呼、如何してだろう。
 
 昨日よりも、ずっと貴方が好きで。
 昨日よりも、もっと貴方が憎い。

 若し仮に、私が彼の前からいなくなる事が出来たとして―私は此の先一生、彼を想って疼き苦しむ事になるのだろう。
 私の中に残された、苦くて甘い嘘吐きの味の接吻が、まるで硝子の欠片のように私の胸に突き刺さり、永遠に残り続けて仕舞うから。

 街灯の明かりが遠ざかる。
 全速力で走って家に辿り着いたものの、部屋の空気は冷え切っていた。
 明かりをつけずに窓辺へ寄り、街を見下ろす。
 此の街の何処かに、彼はいる。
 私を支配し、私を毒に侵し、最後にはその冷たい唇で楔を打ち込んだ彼が、平然とした顔で夜を過ごしている。
 
 ―一生、逃れられないよ。
 
 その言葉が、耳の奥で反響する。
 
 悔しくて、悲しくて、それ以上にどうしようもなく愛おしい。
 涙が頬を伝うのを感じるけれど、それを拭う気力さえ湧かなかった。
 私は膝を抱え、硝子窓に額を押し当てる。

 失恋は出来なかった。
 でも、貴方と幸せになる可能性も、限りなく零に近付いて仕舞った。
 
 嗚呼、どうか。
 私が失くした貴方との幸せが、他の何処かで生きていませんように。
 
 私は唯1人、暗闇の中でそう願う事しか出来なかった。


*


 翌朝、ポートマフィアの本部へと向かう足取りは、鉛のように重かった。
 中也さんは私の顔を見るなり、全てを察したように眉を顰めた。
 其の瞳には、相も変わらず隠し切れない苛立ちと、僅かな憐憫が入り混じっている。

 
「……随分と酷い顔してんな、おい」
 
「……おはようございます、中也さん」

 
 私は努めて冷静に挨拶を返そうとしたが、声が僅かに震えて仕舞った。
 中也さんは私の事務机の横に立つと、小さく溜息をついて私を見下ろす。

 
「会ったんだろ、彼奴に」
 
「……はい」
 
「で、どうなった?諦められたのか?」

「……」
 
 中也さんの問いに、私は言葉に詰まって仕舞う。
 
 太宰さんにあの接吻をされた瞬間、まるで1本の細い糸だけで繋がっていたかのような、繊細で壊れ易い私達の関係性は、一瞬にして崩れ去って仕舞った。
 それでも、彼という名の毒薬は、以前よりも深く、私の身体の隅まで染み渡っている。
 だから私は、こう答える事しか出来なかった。

 
「……分かりません」
 
「分からねェ、か……」

 
 中也さんはその場で腕を組み、厳しい表情で告げる。

 
「あの男はな、自分が与えた毒で相手がどう壊れるかを楽しむような性悪だ。手前がどんだけ身を削っても、彼奴は一度だって本気で寄り添いはしねぇ。これ以上其の毒に侵される心算なら、俺は上司として、それから一個人としても、手前を止めるぞ」

 
 その言葉は、私を想って呉れているからこその警告だった。
 けれど、今の私には、その慈悲でさえも呪いに聞こえて仕舞う。
 中也さんは、私が太宰さんを求めている事を知っているし、太宰さんが私に何も与えない事も知っている。
 だからこそ、私を救おうとして呉れているのだ。
 その気持ちはとても有難いし、本来だったら、彼の忠告を素直に受け入れるべきなのだろう。
 でも、私は自分が救われたいだなんて、一度だって願った事が無かった。
 私は唯、彼に必要とされたかった。
 無理だと分かっていても尚、彼に心から愛されてみたかっただけなのだ。

 
「……すみません、中也さん」

 
 私は顔を上げ、彼を直視する。
 瞳に薄い膜を張ったまま、私は震える声で続けた。

 
「私の……私の勝手です。彼が私を壊しても、彼が私を必要としなくても、私は屹度彼を想う事でしか、自分の心を守れないんです。彼がいない世界だなんて、私には何の価値も無い。……だから、私を止めないでください」

 
 中也さんは目を丸くし、それから激しい苛立ちを露わにした。

 
「……馬鹿野郎」
 
 吐き捨てるように言い、彼は私の髪を乱暴に撫で回した。
 痛みは感じない。ただ、彼の手の温もりが、今の私には残酷な程に遠く感じた。

 
「手前は、本当に救いようがねェな」
 
「ええ、そうかも知れません」
 
「嗚呼もう、勝手にしやがれ。だが、死に急ぐような真似だけはするなよ。……そんだけだ」

 
 そう言って、中也さんは踵を返した。
 彼の背中を見送りながら、私は事務机に顔を突っ伏す。
 
 私は、太宰治という名の毒に侵された中毒患者だ。
 
 どれだけ傷ついても、譬え彼が他の何処かで私とは別の幸せを見つけたとしても、私は此処で、彼の欠片を抱え、胸を突き刺す痛みと共に生き続ける。
 
 唇に残る彼の味が、苦く甘く、嘘を囁き続けていた。
 私は今日も、その毒を胸に抱いて生きている。
 譬えそれが、私の全てを焼き尽くすような劇薬であったとしても―私は、彼しか効かない『劇薬中毒』から、一生抜け出すことは出来ないのだ。

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