短編
ラストノートしか知らない

 冬の足音が木霊した。
 駅前の街灯がチカチカと不規則に瞬いている。
 私はその光の下、外套の衣嚢に手を突っ込んで、ただ只管に彼を待っていた。
 吐き出す息は白く、瞬く間に夜の闇へと溶け込んでいく。


「お待たせ、なまえ」


背後から掛けられた、聞き慣れた柔らかい声。
 振り返れば、其処には何時もと変わらない薄笑いを浮かべた『彼』が立っていた。


「……今晩は、太宰さん」

「今晩は。急な呼び出しで御免ね。如何しても、君の顔が見たくなって仕舞って」


 彼の口から平然と出された睦言に、私の心臓は大きく跳ねる。
 本当は、呼び出された事なんて如何でも良い。
 唯、彼に必要とされているという錯覚が、何よりも甘美な毒となって私の神経を麻痺させるのだ。
 彼が纏う香水の匂いが、冬の冷たい空気の中に淡く広がった。
 其れは彼が誰か他の人の為に選んだ香りなのか、それとも私を繋ぎ止めるための嘘なのか、私には判別が出来ない。


「……大丈夫ですよ。私も、今来たところですから」


 そう云って笑ってみせたけど、こんなの唯の強がりだ。
 本当は、一時間ほど前に連絡を受けてから、化粧直しも出来ない儘、慌てて此の場所にやって来た。
 それから、鏡を何度も見て、せめてもの思いで家を出る前に引っ掴んだリップクリームを塗り乍ら、何十分もの間彼を待っていたのだ。
 そんな惨めな私の内側を、彼は屹度笑っている。
 それでも、太宰さんの隣を歩けるのなら、私は何度だって自分を騙せる。
 

*
 

 久し振りに訪れた太宰さんの部屋は、相も変わらず雑然としていた。
 彼は台所に立つと、慣れた手つきで温い紅茶を淹れる。
 私はその背中を見つめ乍ら、部屋の隅に縮こまって座っていた。


「ねェ、なまえ」

「はい」

「君は、如何してそんなに私に優しいの?」


 彼は振り向きもせず、そんな問いを投げかける。
 私は喉が詰まるような感覚を覚えた。
 けれど、直ぐに顔に微笑みを貼り付ける。


「……太宰さんの事が大切で、大好きですから」

「ふふ、正直だね」


 彼はカップを机に置いて、私の隣に腰を下ろす。
 手を伸ばせば触れられる距離。けれど、決して深くは重ならない。
 太宰さんは私の頬に、冷たい指先を這わせた。
 目を閉じた刹那、 顳顬こめかみに彼の唇が落ちて来る。
 ほんの瞬きの間の、柔らかい感触。
 それは、幼子を綾すような、何処か遠い優しさだった。
 近づいた途端に鼻腔を擽る微かな香りが、私の知る彼以外の誰かの存在を示唆しているような気がしてならない。

 本当は、誰を想っているのか。
 私の事を、如何思っているのか。

 彼の両肩を掴んで、感情の儘に問い糺して仕舞いたい。
 けれど、何処までいっても臆病者の私は、此の薄氷のような関係が、たった一言で壊れて仕舞うのが怖かった。
 だから、私は唯、彼の袖をぎゅっと握り締めて、その場に留まる事しか出来なかったのだ。
 太宰さんは私の肩に頭を預け、ゆっくりと目を閉じる。
 その睫毛の震えを間近で見つめ乍ら、こんなに近くにいるのに、自分から彼に触れる事が出来ないほどに彼を遠くに感じる自分もいて、胸が苦しくなった。
 私は彼に利用されている。そんな事は、疾っくの昔に分かり切っている。
 私の切実な恋心を知り乍ら、敢えてその脆い部分に爪を立てて、自分が心地良い場所へと私を誘導する。
 それは慈しみなのか、それとも支配欲なのか。


「なまえ」

「……はい」

「君は何時も綺麗だね」


 ―心も、その身体も。

 そう宣う言葉も、多分嘘だ。
 けれど、其の嘘が何よりも甘い。
 毒入り林檎は、甘い香りを漂わせ乍ら、確実に私の内側を蝕んでいく。
 私は彼の蓮髪に触れたい衝動を必死に抑え、ただ膝の上で拳を握り締めていた。


*


 探偵社という場所は、私にとって温かな場所であり、同時に逃げ出したいほどの痛みを伴う場所でもあった。
 事務机に座り、書類を整理し乍らも、私の視線は無意識的に斜め前の席へと吸い寄せられる。
 気怠げに報告書を捲る包帯だらけの華奢な指先、珍しく真剣な眼差しで資料を眺める鳶色の双眸、国木田さんに小言を言われて肩を竦める仕草。
 その全てが私を形造る栄養素であり、同時に私の心をじわじわと蝕む毒でもあった。
 ふと、彼と目が合う。


「なまえ、少しお願いが有るのだけど」


 太宰さんは私を見つけると、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
 それは周りの同僚たちに見せる表情とはまた違う、私の為だけに向けられた、特別に用意された仮面だ。
 その微笑み一つで、私の日常は簡単に塗り替えられて仕舞う。
 こんなの、期待するなと言われる方が可笑しい。
 彼は知っているのだ。私がどれほど彼に飢えていて、どれほど彼の一挙手一投足に一喜一憂しているのかを。
 そして私も、頭の中では分かっている。
 彼がその微笑みを浮かべるのは、私が自分に都合のいい『駒』であることを再確認する為だという事を。
 分かっていても尚、私の心は、如何しようもなく彼を追い求めて仕舞う。
 常に湧き上がってくる此の熱い気持ちだけは、心の内に留めておく事が出来ないのだ。
 太宰さんに手招きをされて彼の隣に佇むと、彼は細い指先でトントンと手元の資料を指差した。


「此処、字が間違っているから直しておいて呉れる?君の丁寧な字が好きでね」


 ほんの一瞬、彼の小指が私のそれに絡まり、名残惜しげに離れていった。
 たったそれだけの出来事で、私の心臓は恐ろしいほどに早鐘を打ち、顔に熱が籠る。
 私は直ぐに踵を返すと、髪で顔を覆い隠し乍ら化粧室へと飛び込んだ。
 其の場に座り込み、へなへなと頭を抱える。
 決して誰にも気づかれないように、気紛れに与えられる彼の温もり。
 その絶妙な距離感が、私を孤独の泥沼へと沈めていくのだった。
 その日の深夜、冷え切った部屋で一人、携帯端末の画面を眺める。
 彼とのメッセージアプリの遣り取りは、私からの発信ばかりで、重心が大きく右に傾いていた。
 そして、数日前、彼に送ったメッセージの横で、既読の文字は未だに鳴りを潜めている。

『今、何してますか?』

 入力画面にその一言を打ち込む。
 送信ボタンを押せば、私の不安は少しだけ解消されるのかも知れない。
 でも、若し彼が他の誰かと一緒にいて、私の此のメッセージが邪魔になったら。
 鬱陶しいと思われたら。
 そう考えるだけで、指先が強張る。
 何時からだろう。彼への連絡が、重い鎖のように私の指を縛り付けたのは。
 私は唯、彼から次の言葉が投げられるのを待つだけの、朧げな光に魅せられた火取り虫。
 時計の針が時を刻む音だけが、部屋の中で異常に大きく響く。
 返信の来ない画面を見つめ続け、結局何も送れずに携帯端末を裏返した。
 重い夜の空気が、私の胸を圧迫する。
 彼は今、誰と一緒にいるのだろう。
 どんな顔をして、誰に微笑み掛けているのだろう。


「……莫迦みたい」


 私が彼を想うほど、彼は遠ざかっていく。
 それでも、彼から不意に届く「会いたい」という通知一つで、私は全ての理性を捨てて駆け出して仕舞うのだ。


*


 太宰さんから次の『会いたい』が届いたのは、それから一週間後の事だった。
 私は部屋の隅に腰を下ろし、今日も冷め掛けた紅茶を飲む。


「なまえ、此方へおいで」


 彼に促され、私は隣へと移動する。
 太宰さんは私の肩に手を回し、身体を引き寄せた。
 その腕の力は、執着というよりは、何かを壊さないように確かめているような、酷く慎重なものだった。
 彼は私の耳元で、甘い吐息を落とす。


「如何したの?今日は随分と大人しいね」


 顳顬に唇が触れる。此れはもうお決まりの、儀式のような接触だった。
 私は彼の胸元に頭を預け、彼の心音を盗み聞こうと試みる。
 けれど、太宰さんの心臓は、私のそれよりもずっと冷静で、いっそ惨めに思える程に一定の調子リズムを刻んでいた。
 彼は私を抱き締め乍ら、私とは別の世界へと思考を巡らせているのだ。


「……別に、何でも有りませんよ。唯、今日はこうしていたい気分なんです」

「そう。なら良いけれど」


 彼は私の髪をゆっくりと指で梳く。その手付きは、まるで壊れ易い宝物を扱うかのようだった。
 でも、私は知っている。彼にとっての私は『宝物』ではない。屹度私は、寂しい夜を遣り過ごす為の、都合の良い『代替品』なのだ。
 そう分かっていても、彼の指先が頭皮を撫でるだけで、私の理性は脆くも崩れ去る。


「……太宰さん」

「ん?」

「私、貴方の事、何も知らないんですね」


 ポツリ、と本音が零れる。
 私の言葉に、彼はほんの一瞬目を丸くしてから、少しだけ笑った。
 気配で解る。それはまるで、私の浅はかさを慈しむような、残酷な微笑みだった。


「なぁに、如何したの急に。……私はね、なまえ。君のそういう、直ぐに傷ついて仕舞うところが好きだよ」


 悪魔のような囁きだ。それなのに、彼に『好き』と言われたという事実に、私の心は熱く疼いてしまう。毒だと分かっていても尚、私は林檎を噛み砕く。
 じゅわり。
 甘い蜜が口一杯に拡がった直後、痛みが全身を蝕んだ。


「……酷いです、太宰さん」

「そうだね。私は最低な男だよ」


 彼はそう言いながらも、抱き締める腕を緩めようとはしない。この矛盾した時間が、私を泥濘の奥底へと引きずり込んでいく。
 本当は、彼を愛したくなんてなかった。
 だって、こんな風に、他の誰かの面影を抱えた男の隣で、流れに身を任せて消えていく夜を消費するだなんて、余りにも自分が惨めだ。
 深夜三時。窓の外の街灯が、鋭い光を放っている。
 太宰さんは既に眠気に誘われているのか、或いは唯の芝居なのか、私の肩に頭を預けた儘、微動だにしない。
 彼の纏う淡い香りラストノートが、熱い体温に融けていく。
 もうすぐ、この夜が終わる。
 彼に、別れを告げられる時間が近づいている。
 私は太宰さんの肩に触れ、そっと距離を置こうとした。
 すると、彼の手が私の手首を掴む。


「……未だ、行かないで」


 耳元で、彼が呟いた。
 寝言のように、でもはっきりと告げられた切ない言葉の響きに、私は思考を停止させる。
 振り払えば直ぐに離れて仕舞いそうなほどに弱い力なのに、私にはそれを振り解く事が出来なかった。
 だって、太宰さんが私を引き止めるなんて、今まで一度も無かった事なのだ。
 期待してはいけない。此れは屹度、今の私を繋ぎ止めておく為の、彼なりの手法に過ぎないのだから。


「太宰さん……?」


 困惑する私の言葉に、彼はゆっくりと顔を上げた。
 鳶色の瞳が、硝子玉のように反射して煌めいている。
 その目は、私を見ているようで、そのずっと奥にある『何か』を投影しているようだった。


「ねェ、なまえ。若し、私が他の誰かを想っているとして……君はそれでも、傍に居て呉れる?」


 心臓が締め付けられるように痛い。
 嗚呼、やはり彼は知っているのだ。
 私が何に傷つき、何に怯えているのかを。
 非道い人だ。彼は敢えて私を追い詰め、そして試している。


「……はい」


 私は答えた。自分の声が、震えているのを知り乍ら。


「離れてなんて、いきません」


 彼が僅かに目を見開く。
 それから満足げに、それでいて少し寂しそうに笑みを浮かべると、私の頬を優しく撫でた。


「……良い子だね。本当に、君は良い子だ」


 微かな体温を感じ乍ら、私は考える。
 此れは御褒美なんかじゃない。私という人間が、何処までも彼に依存し、彼の毒から逃げ出せないことを確認して、彼は安堵しているのだ、と。
 私は彼の掌に、そっと自分の頬を擦り寄せ、目を閉じた。
 此の儘、彼と何処までも堕ちていければ良いのに。
 そう思ってしまうほど、私は彼に溺れていた。
 
 夜明け前になると、太宰さんは何事も無かったかのように何時もの調子へと戻っていた。


「そろそろ行こうか。其処の公園まで送るよ」


 私は太宰さんと朝まで過ごした事が無い。
 だからほら、今日も此の時間に帰される。


「有難うございます」


 喉元まで出掛かった溜息を飲み込み、私は立ち上がった。
 外に出ると、冷たい空気が肺を刺す。
 約束通り、近くの公園まで私を見送って呉れた太宰さんに背を向けると、夜明けの街灯が私の影を極端に長く引き伸ばし、無様に倒れ込むような形を作っていた。

『惨めだね』

 その冷淡な光は、私の事を指差して嘲笑っているように見える。
 私はそれを睨みつけると、俯いて歩き出した。
 道すがら、自分に言い聞かせる。
 彼は私を利用し、私は彼に縋る。この歪な毒入りの林檎を、二人で一生噛み締め続ければいい。
 其れが、私に許された唯一の、そして最も残酷な恋の結末なのだから。
 昇り始めた朝日が、私の背中を容赦なく照らす。
 私はまた、今日という日常を生きるために、薄っぺらい笑顔を貼り付ける。
 また夜が来れば、私は屹度、此の惨めな泥濘の中へと戻っていくのだろう。
 火取り虫が、消えそうなライトに向かって、羽を燃やしながら飛び込むように。
 私は此の先もずっと、残り香ラストノートしか知らない儘でいい。朝に感じるトップのノートだって、好きだよのミドルだって、全部欲しいけど欲しく無い。
 ―本当の彼なんて、知りたくない。
 そう信じ込むことで、自分を守り乍ら、終わりに向かって灰のように落ちていく時間を、ただ静かに待ち侘びていた。

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