明日も私は人の子でいられるだろうか

外に出たい、と傍に居る太宰さんに云えば善いよ、と返事が戻って来た。そのまま彼に連れられてエレベーターに乗り込んで下の階へ向かう。
今日は何処に行こうか。欲しい物は特に無いけど、ずっと前に見かけたクレープ屋さんのクレープが美味しそうだった。あれを食べようかな、と考えてある事に気付く。
そういえば私、お金の支払い方とかやり取りとか、よく知らない。物を購うにはお金が必要。これは判る。でも具体的な支払いの仕方とか、店員さんとのやり取りとか、そういう事がちっとも判らない。あれが欲しいと口にしなくても気付けば太宰さんが色々購ってくれるから物には困らないのだ。その所為で私には所謂一般常識だとかそういうものが欠けてる気がする。
流石にお金の遣い方とか知らないのは不味い気がする。そこで思い切ってこんな提案をしてみた。

「太宰さん。今日は私にお財布を持たせてください」
「どうして?欲しい物でもあるのかい?そんな事しなくても私が購ってあげるよ」
「いえ、その。よく考えたらお金の遣い方とか私よく知らないなぁって思いまして…」
「何だ、そんな事。祈は気にしなくていいんだよ。支払いは私がやっておくから」

矢っ張り駄目だったか。財布くらい持たせてくれても良いのに。
予想通りの返答に少し、ほんの少しだけムカッときてしまった。そこである事を思いついた。
人間失格の効果は暫く続くだろうし、お金も持っていないから出来る事は限られてくるが散歩くらいなら別に善いだろう。決して太宰さんへの嫌がらせとかそう云う事では断じて無い。
エレベーターから降りてもうすぐで屋外に出れるというところで太宰さんが他の構成員達に捕まり何やら話し始めた。屹度仕事の話だろう。好機、と思い太宰さん達の目を掻い潜ってそっとその場から離れた。どうせすぐに見つかるんだろうけど一人の時間とか偶には欲しい。
誰も見ていない事を確認して外へ出る。行く宛も無いまま軽やかな足取りで私は拠点を後にした。

「こんな時に仕事の話とか勘弁して欲しいよ全く。却説行こうか祈。……祈?」

***

久々の単独行動はとても気持ちが善いものだった。欲を云えば途中で見つけた喫茶処とかクレープ屋さんで何か購って食べてみたかったのだが、財布を所持していない今の状態では出来なかった。だが、青空の下であちこち行ったり来たりするだけでテンションが上がるくらい今の自分は単純だった。
異能が発動していないだけでこんなに世界が違って見えるなんて。いや異能が制御出来ていたら発動しても世界は変わって見えたりしないのだろうけど。
太宰さんの異能様様だ。太宰さんが、太宰さんの異能が無ければ私は正常では居られない。その事実を思い返せば先刻までの晴れやかな気持ちから一変して自嘲が込み上げた。
私は周囲の構成員からこう呼ばれていた。太宰さんの″人形″。その他にも忠実に任務を遂行する姿から自動歩兵人形とか、機械人形だとか、兎に角私の呼び名には人形と云う言葉が付いて回った。嗚呼、化け物とも呼ばれていたな。
本当にその通りで何も云い返せなかった。何をするにも太宰さんが居なければ私は何も出来ない。彼無しでは存在出来ない。人形でありながら人殺しの道具としてしか存在出来ないそんな自分が嫌で、嫌いで、憎くて仕方なかった。
特に宛ても無くふらふらと歩き回っていたら目の前に河があった。そういえば此処は何処なんだろう。殆ど外に出た事もない私が地理に疎いのは当然だった。
これから何処に行こう、と思って特に何をする訳でもなくじっと河を見ていると唐突に視界がブレた。人間失格の効果が切れかかっている。嫌だ、と思っていてもそれを自覚した途端、どんどん少しずつ世界が色褪せていくのが判った。そう時間も経たないうちに照りつける日差しの暖かさも、空気の匂いも、音も次第に判らなくなっていくだろう。また太宰さんに無効化して貰わなければ。
そういえばよく太宰さんが河に飛び込んでいたっけ。何度も自殺を試みている様だが苦しくはないのだろうか。そこまで考えてふと、ある事を思いついた。
このまま人としての機能を失ってまたあの世界に囚われるのなら、この綺麗な景色を見たまま死ねるのは実はとても善い事なんじゃないか。そうだ、この綺麗な世界に居たまま死ねたら、屹度幸福に違いない。そうすれば、私は人のまま生を終える事が出来る。
誘われるようにふらふらと河に近付く。今すぐに飛び込んでも暫くは苦しいだろうが、次第にそれも感じなくなるだろう。そうしてそのままこんな世界とは左様なら。嗚呼、素晴らしい。こんな簡単な事に今まで気付かなかったなんて!

「駄目だよ、祈」

もうすぐ河に飛び込んで死ねるというのに、背後から腕を掴まれて歩みが止まってしまった為、それは叶わなくなった。
色褪せ始めた景色に急速に色が着く。暴走し始めた私の異能が無効化されたからだ。
ぎり、と強く掴まれた腕が痛い。思わず振り向くと冷たい眼差しでこちらを射抜く太宰さんと目が合った。

「一人で死ぬなんて許さない」

彼は怒っていた。ここまで怒りを露わにする彼の姿を珍しいと思うのと同時にその瞳に射抜かれて身動きが出来なくなる。
気付いたら殆ど無意識に謝罪の言葉を口にしていた。

「……ごめんなさい」
「……判ってるなら善いよ。にしても、黙って出て行ったと思って捜しに来てみれば河に飛び込もうとしてるんだから……肝が冷えたよ」

と云って溜息を吐かれた。貴方だって隙を見つけては河を見つけて飛び込んだり首を吊ろうとしたりしている癖に。そんな事を云い返す勇気も無く、再度ごめんなさいと謝れば「出て行った事に関しては怒っていないからもう善いよ」と云われ頭を撫でられた。それを聞いて先程まで高揚していた気分が重りが付けられたかのようにずし、と沈む。
一人で生きる事も出来なければ、死ぬ事も許されないのか。思わず視線が下に下がって俯くと頭上からねぇ祈、と声を掛けられた。

「私がいいって云うまで死んじゃ駄目だよ」

eclipsissimo