野ばらの夢

今日も人目を盗んでポートマフィアの事務所を抜け出した私は、ある目的地に向かって歩いていた。
珍しく人間失格の効果が長く続いているようで、感覚も今は普通の人間そのもの。何時それが切れるか判らない以上、今日どうしてもやりたい事が一つだけあった。
作之助さんが通っている、あの洋食屋のカレー。あれを食べる事だった。
カレーを食べるついでにあの子達に何かお土産を購って行こうと思い、洋食屋に向かう途中にあった駄菓子屋でお菓子を購った。(お金は何とか太宰さんを云い包めてお小遣い制にして貰ったから多少持っている。)最後に会ったのも随分前の事だから若しかしたら忘れられているかもしれないが、その時は洋食屋の店主から渡して貰うように頼めば何とかなるだろう。
そうして何とかやって来た洋食屋に入れば、美味しそうな香りが漂ってきた。いらっしゃい、と店主に迎えられる。
店内には他の客の姿は見当たらなかった。お菓子の入った紙袋を抱えてカウンター席に座ると店主が私を見て驚いた声を上げた。

「おや?祈ちゃんじゃないかい。久しぶりだねぇ」

どうやら私の事を覚えていてくれたらしい。嬉しくて笑顔でお久しぶりです、と答える。ご注文は?と訊かれたので迷う事なく例のカレーを注文した。
最後にこのカレーを食べたのも随分前の事で、しかもその時に限って何時も異能が暴走するものだから味も殆ど覚えていない。だからこの好機を逃すまいと洋食屋にやって来た。
作之助さんは此処のカレーを週に三回は食べているらしい。彼を虜にする料理を食べてみたいと思って何度も挑戦しているのだが、何時も異能に邪魔される。気合いで完食するが、味の無いどろっとした液体と具材と白米を噛んで飲み込むのは中々の拷問だった。
どうか今日は間に合ってくれ、と思いながら待っていると注文していたカレーがやって来た。此処に来る度に思うが、凄く美味しそうだ。異能が暴走しない事を祈りつつ、いただきますと手を合わせた後、スプーンでカレーを口に運ぶ。
美味しい。異能が暴走していない状態で食べる料理は矢っ張り美味しい。感動しながらじっくり味わっていると、じわじわと口の中が痛くなる感覚がした。
美味しい。美味しいけれど、辛い。違う、辛いなんてものじゃない、辛過ぎる。水を飲めばマシになるかと思って傍にあった水を飲んだが、寧ろ余計に辛さが増した気がする。
長い戦いになりそうだ…と黙々と食べ続ける。何とか半分程食べ終えた所で背後にある扉が開く音がした。

「……祈か?此処に来るなんて珍しいな」

聞き慣れた声に振り向けば、其処には作之助さんが立っていた。彼もカレーを食べに来たらしく店主にカレーを注文すると私の隣に座った。

「太宰はどうした?」
「…………さ、さぁ……?」
「また抜け出して来たのか」
「た、偶には一人で行動したくて……」
「そうか。前に太宰がぼやいていたぞ。『祈が最近構ってくれない』と」
「そ、そうですか」

構ってくるのはどちらかと云うと太宰さんの方なのだが。というか私の居ない所でそんな会話してたのか。
作之助さんに会うのも久しぶりだった。彼と友人である太宰さんは偶に会ったりしているようだが、普段外を出られない私はこうでもしないと作之助さんと会う事は出来ない。
暫し他愛無い会話を続けていると作之助さんの分のカレーが運ばれて来た。私も止めていた手を動かし、せっせと残りを口に運ぶ。
そうして辛さに耐えながら何とか食べ切る事に成功した。水は何杯飲んだか判らない。というか、私が残り半分のカレーを食べ切るよりも作之助さんが食べ切るのが疾いってどういう事……。作之助さん、本当に好きなんだな。
満腹だが口の中に残る痛みを何とかしたくてまた水を飲む。中々の辛さだったが、異能が暴走していたらこれも味わえなかった。それが嬉しくて思わず頬が緩む。
そういえば、と思いお菓子が沢山入った紙袋を作之助さんに差し出す。作之助さんはきょとんとしていたが、私が渡すより作之助さんが渡した方が子供達も喜ぶだろうと思っての行動だった。

「これは?」
「子供達に、と思って購ったお菓子です」
「お前が渡せば善いじゃないか」
「で、でも子供達に会ったのは随分前ですし、覚えてないかと思いまして……」
「何を云うんだ。幸介も克己も優も真嗣も咲楽も、お前の事を覚えていたぞ。特に咲楽が会いたがっていた」

だから祈が渡してやれ、と云われたので大人しくそれに従う事にした。嬉しくて思わず顔がにやけそうになり、何となくそれを見られたくなくて俯いた。後で子供達に会いに行こう。
私と作之助さんしか居ない店内は静かだ。店主は裏で仕込みをしているようで此処には居ない。ふと、そこである考えが過ぎった。
次に作之助さんに会えるのが何時になるか判らない。またこうして会えたとしても、私の異能が暴走してしまったら真面に会話なんて出来ない。
善い機会だ。そこで思い切って、以前から気になっていた事を訊いてみる事にした。「あの、」と声を発すれば作之助さんがこちらを見た。

「作之助さんが人を殺さないのは、何故なんですか」

殺さずのマフィア。初めてそれを聞いた時はそんな事有り得るのかと自分の耳を疑った。黒社会に居ながら人を殺さないなんて、そんな事が出来るのかと。
その為か彼はポートマフィアの中でも最下級の構成員で、彼の元にやって来る仕事は誰もやりたがらない仕事ばかりらしい。そんな立場に居ながらも彼が頑なに人殺しをしない理由を、私は知りたかった。
作之助さんがゆっくりと口を開いた。

「……小説家になりたいんだ」
「……小説?」
「ああ。……昔、ある古い小説を見つけたんだ。それが面白くて夢中になった。だがその小説は上巻と中巻しか見付けられなかった」

人を殺さない理由と小説に何の関係があるのだろう。彼の過去の話に思わず聞き入る。

「ある人が俺の許にやって来てこう云った。『その小説は下巻がとんでもなく最悪だから、上巻と中巻だけで満足しておけ』と。そうもいかないと答えたんだが、その男は何て云ったと思う?」

検討もつかず、判りませんと正直に答える。作之助さんの口許が、僅かに緩んだ気がした。

「『ならばお前が書け』と云われた。それがその小説を完璧なままにしておく唯一の方法だと」
「……」
「結局その人が下巻をくれたんだが、最後の数頁、それも重要なシーンが切り取られていた。古本屋を探し回ったが見付からなかったし、問い糾そうにもその人は二度と現れなかった」
「それで、自分で書こうと」
「ああ。……『小説を書く事は、人間を書く事だ』とその人は云った。人の命を奪う者に人の人生を書く事は出来ない。だから俺は、人を殺さない。
紙とペンだけを持って、海の見える部屋で机に向かって小説を書く。それが俺の夢だ」

夢、と思わず口からその言葉が溢れた。
彼の話を聞いた途端、彼の真っ直ぐな言葉に思わず気圧されそうになった。夢、なんて。私には縁の無い言葉だった。隣に座っているのに、彼が遠い場所の人のように思えて、途端に何とも云えない不安と寂しさに襲われた。

「……小説……ですか。私にはとても……」
「?祈も小説が書きたいのか?」
「えっと……ごめんなさい、そうじゃなくて、その」

何て云ったら善いか判らずしどろもどろになる。
彼は小説を書く夢を叶える為、という明確な理由があって人を殺さないと決めている。なら私は?明確な理由なんて無い。でも人を殺したくない。考えている事の整理がつかず、思わず考えていた事を口にしてしまった。

「私は、私も、本当は、人を殺したくなんかないんです」

云ってしまった。隣の彼は何も云わない。
自分の心の奥底にある事をこうやって口に出すのは初めてだった。それに緊張感を覚えながら、ぽつぽつと思った事を口にしていく。気持ちの整理がついていない状態だから云っている事がちぐはぐかもしれないが、これを逃せばこんな事を云える機会が二度と訪れないような気がして、とにかく吐き出したくて仕方が無かった。

「でもそうするには、何か理由がなくてはいけないのかと」
「理由?理由なんて、何でも善いだろう。人を殺したくないから殺さない。これでは駄目なのか?」
「……そんな簡単で善いのでしょうか」
「難しく考える必要なんて無い。お前がそう思ったのなら、それに従えば善いだけの話だと思うが」

慥かに。作之助さんの云う通りだ。私がそう思ったから、そう決めたから。理由なんてそれだけで充分な筈。だけど。

「……でも、そんなの周りが許す筈がありません。そんな事許される訳がないんです」
「誰かがそう云ったのか?」

そう訊かれて思わず閉口した。誰かに直接云われた事は無い。でも、きっと、誰かはそう思っているに違いない。私の事を人形とか化け物とか、そう呼ぶ人なんかは特に。
人形であり、兵器であり、化け物である私に人間のような振る舞いをするなんて許される筈が無いのだ。

「私は、人を殺す為だけに存在しているようなものです。それ以外に価値が無いんです。人を殺さなかったら、私は、生きていてはいけないんです」
「……」
「でももう、厭なんです。あんな世界を見るのも、私自身が化け物なのに人を化け物としか認識出来ない自分も、人を殺す事しか能の無い自分も全部、全部、消えて無くなれば善いのにって、思います」

異能を制御出来ず、味方であっても人を人として認識出来ない自分は、何時周囲の人間を傷付けても可笑しくない。でも私の存在価値は、人を殺す為だけにある。
こんな力が無ければ普通の人として生きられたのだろうか。否、異能があってもこんな力じゃなくて、太宰さんのように異能無効化だったり、作之助さんのように数秒先の未来を読めるとかだったら善かったのに、と何度も思った。
なぁ、祈。と作之助さんから声が掛かる。幼子に云いきかせるような、諭すような優しい声音だった。

「お前自身はどうなんだ」

周りの人間がどうこうとか、異能がどうとかそんな事は今は考えなくて善い。本当の事を聞かせてくれ。
彼の言葉にハッとする。周囲の人間だとか、異能とか、そんなものを取り除くと浮かんでくる私自身の本音。それを此処で口にしても善いのだろうか。
でも今なら。作之助さんの隣でなら。少しだけ我儘を云っても許される気がした。
勇気を振り絞って重たい口を開く。思わず手に力が入ったのか、抱えたお菓子の入った紙袋がくしゃりと音を立てた。

「…………わ、私は」
「……」
「誰の手も借りずに外に出て、自分の足で歩いて。美味しいものを食べて。皆と同じ景色を、見ていたい」

あとそれから、と続ける。これから云う事が、私にとって一番大事な事だった。

「誰も殺したくない。もうこれ以上誰も殺さずに生きたい、です」
「……そうか。善いじゃないか、それで」

勢いで自分の内心を吐露してしまった。抱えていたものをそのまま一気に吐き出したから自分でも何を云っているか判らなかったが、作之助さんは最後まで私の話を聞いてくれていた。
そして彼の言葉に話して善かったと心から安堵した。慣れない事をした所為かどっと疲れてしまったが、抱えていた荷物を下ろしたみたいに、心が一気に軽くなったような気がした。
何だか息をするのも楽になったように感じる。緊張が一気に解けて今なら何でも云えそうな気がした。

「……その為にも異能を制御出来るようにならないと」
「そういえば制御出来ないんだったか」
「太宰さんに定期的に無効化して貰っているんですけど、彼が居なければこうして一人で外に出る事も、食事も出来ないので」
「それは不便だな。勝手に発動するのか」
「はい。しかも暴走してて、異能の負荷で怪我が増えたり、感覚が可笑しくなるので普段の生活もままならないです」
「成程」

妙に緊張した所為か喉がカラカラだ。コップの中に残っていた水を飲み干す。

「思ったんだが、お前はしたい事は無いのか?」
「……したい事?」
「ああ」
「したい事……したい事……」

作之助さんの突然の問いに暫し考えてみるが、そんな事考えた事が無いから判らない。直近でしたい事と云えば異能が制御出来るようになりたいとか、こうして外に出て購い物したり、美味しいものを食べに行きたいとかしか思い浮かばないが、彼が云いたい事はそういう事ではないんだろう。
私は作之助さんのように小説なんて書けないし……。何も思い浮かばず暫くうんうんと唸っていると頭に何かがぽんと乗せられた。

「何、ゆっくり考えれば善いさ」

そのままぐりぐりと頭を撫でられる。乗っているのは作之助さんの手らしい。
子供扱いされているな、と思ったが厭な気はしないのでされるがままにする。大きな手だ。私の手とは全然違う。

「今はどうなんだ?」
「えっ?」
「異能力は暴走しているのか」

そういえば、と思わず隣に座る作之助さんを見上げると彼と視線が合った。突然見上げたからか彼は少し驚いた表情をしていた。彼の瞳がよく見える。
無効化して貰ってから大分経つが、今日は異能が勝手に発動したりしていない。いきなり制御出来るようになる筈もないから、単に人間失格の効果が続いているのか、偶然なのか。
嗚呼、でも本当に。これだけで善いのだ。彼の目を見て、彼の声を聞いて、他愛ない会話をする。何て事ないこの時間がずっと続いてさえくれればそれで善かった。そしてまた同じような時間が訪れれば善い。そう強く思った。
けれど後になってこの日を思い返した時、私はこう思わずにはいられなかった。此処で時間が止まってくれれば善かったのに、と。

eclipsissimo