あれからほんの数日、コールは床に伏しており、ベッドから起き上がるのもやっとだった。しかし、やっとのことで早朝目が覚め、身体を起こすと、気怠さから解放されていることに気づき、久々にベッドから立ち上がった彼女は大きな伸びをする。
コールが床に伏している間にも、ヴァニタスは度々様子を見に来ており、その度に食料をいくつか持ってくる。
コールは少し申し訳なさを感じていたが、起き上がろうとする度に「寝ていろ」と押さえ付けられては、何も出来ずにいた。少しずつコールが回復して行くと、監視を兼ねてこの小屋に一匹の負の感情の魔物———アンヴァース、フラッドを彼女の元に置いていった。
カーテンの隙間から浴びる光よりも、日光を直接浴びたくてたまらない。
コールはカーテンを開けると、ベッドの枕元にいたフラッドは目元をくしくしと眩しそうに擦る。コールはその様子を見て優しく微笑むと、「おいで」とフラッドに手のひらを差し出す。フラッドは慣れたように彼女の手の上にのり、コールは自身の肩元へと乗せてあげる。
「お茶にしよっか。今日も"ヴァニちゃん"来るだろうし、コーヒーでも淹れようかな」
フラッドを撫でながらコールはキッチンに向かい、コーヒー豆の入った袋を取り出し始める。
"ヴァニちゃん"と言うのはコールが付けたヴァニタスの呼び名(あだ名)である。
この呼び名を付けた時、コールは発熱で頭がほわほわとしており、思わず飛び出たのがその"ヴァニちゃん"なのだが、かなり自分でも気に入ってしまったらしく、それからずっとヴァニちゃん、ヴァニちゃん、と呼ぶようになってしまった。なお、呼ばれている本人はとても険しい顔をしていた。
今日のコーヒーは美味しくなるといいな。とコールは鼻歌混じりにコーヒーを淹れていく。
初めてコーヒーを淹れた時、まだ身体が回復していなかった。そのため、ヴァニタスの目を盗んでフラフラのまま、コーヒーを淹れようとしたのだが、いつも紅茶を飲むコールがコーヒーの淹れ方などわかるはずもなく、倍以上のコーヒー豆を使用したコーヒーをヴァニタスが飲むハメになった。それを飲んだヴァニタスは、酷い顔で頭を抱えていた。
それからは、無闇に動き回ろうとするコールに「寝てろ」と押さえつけるハメになり、フラッドまで付けたのだが、はたまた、彼から生まれたフラッドも料理のことを知るはずもなく———
「どうやったらこうなる…」
「私が聞きたいよー!今日はうまくいくと思ったんだもん」
そう言いながらも律儀に飲み干してくれるヴァニタスに、コールは心配ながらも笑顔になる。
コールはヴァニタスのこういったところがとても好きだ。
勿論、彼が純粋な闇の存在であることは初めて出会った時から何となくわかっていた。それでも、ヴァニタスは「マスターの命令で死なれたら困る」と言いながら食物や娯楽品を持ってきてくれるし、それこそ体調の悪い時は食べやすい粥などを作って部屋に置いたりもしていてくれた。……闇の存在だからといって、必ずしも“悪”であるとは限らないのだ。
コールはそんなヴァニタス(闇)を、優しいと思ったし、彼女にとっては美しくも見えたのだ。
「ヴァニちゃん、今日は私の様子を見に来ただけ…?」
「いや……マスターから伝言だ」
ヴァニタスの言葉にコールは驚いたように二度瞬きをすると、左手で髪を耳に掛けて「なぁに?」と首を傾げる。
「この小屋から出ることを許可する。らしい…勿論、この世界から出ることは許されない……"まだ"な」
その言葉にコールは目を輝かせる。
この窮屈な小屋(箱庭)から出られるだけでも、コールは十分だ。目に映る知らぬ世界、鮮やかな彩りの花、街中から香るどこかの家から漂ってくるご飯の匂い、それらを吹き飛ばす自由気ままな風……それらをやっと感じれることに、彼女は胸がいっぱいになる。
「私、外に出られるの…?」
「あぁ……代わりに俺がここに来る頻度は少なくなる」
「え、そしたら今すぐ行く!行こう!!あのね、私、ヴァニちゃんと一緒に外に行きたい!」
は?と口元を引き攣らせるヴァニタスとは裏腹に、コールはヴァニタスの手首を掴み、引きずるように手を引く。
「おい…っ!手を離せ!」
「い・や!私、初めて外に出るんだからエスコートしてくれなきゃ困るもん!」
嫌そうな顔をするヴァニタスに、手を離したコールは彼が小脇に抱えていた仮面を取っては頭に被せる。どうやら、仮面をつけてあげれば良いんでしょ!の意だったらしい。無理やりすぎるコールの行動に、仮面の内側でヴァニタスは舌打ちをする。なんだかんだコールに振り回されてばかりな気がしてならない。
そんなヴァニタスに怖けず、今度は手を引くのではなく、腕を組んでくるコールの姿に、ヴァニタスは玄関先で思わずちがう、そうじゃないと頭を抱える。
「お前本当に元マスターか?」
「あー!今私のこと馬鹿にしたでしょ!でも、私のこと拉致軟禁したのはそっちでしょ?だから責任、とってよ!」
早く終わらせてヴェントゥスの動向を探りに行くか、マスターの修行の方がマシだとヴァニタスが今日ほど思ったことは無い。
⬛︎
「見て!ヴァニちゃん!シーソルトアイスだってー!食べてみようよ」
そう言って自身の手を引き走り回るコールの姿はまるで飼い主を振り回す大型犬の様だった。
小屋を出たすぐ後も、コールはこの
レイディアントガーデンはどこか近代的でもありながら植物が共存し、光に溢れてとても美しい世界だ。コールはこの世界を大層気に入ったようで、こうしてヴァニタスの手を引いている。
「おい、走り回るな…ったく」
予想以上にコールのペースに飲まれ、振り回されてしまったヴァニタスは舌打ちと同時に片手で頭を抱える。
こんなことなら、コールを外に出すべきではなかったのかもしれない。ヴァニタスは脳裏でマスター・ゼアノートが鼻で笑う様子が思い浮かんで苛立ちを覚える。
ヴァニタスは思わず右手を握り込み、自身からアンヴァースが生まれないように抑え込む。ヴァニタスの負の感情によってアンヴァースは生まれている。痛み、苦しみ、妬み、嫉妬、怒り……それらの負の感情は全てヴァニタス自身でありアンヴァースでもある。コールの元に置いているあのフラッドでさえ、ヴァニタスの一部でもあり、中でも「イラつき」を象徴したアンヴァースでもある。そんなアンヴァースを手懐けてしまう
ふと、コールが振り向きヴァニタスの様子を見て、ふわりと微笑んで「どうかしたの?」と仮面の中を覗き込んでくると、風が吹いて、花弁と共に彼女の結われた髪が宙に揺れる。そうすると何処からか、花独特の甘い香りが広がる。
「……ヴァニタス」
一瞬だけ、目を細めて微笑むコールがどこかの聖女様の様に懐かしくて温かい気配を感じて目を凝らす。
「お前……予知書の、」
そう言いかけた時、ヴァニタスの仮面……素顔なら口元辺りに右手で人差し指を当てれば、コール———予知書の乙女は口を閉じる様に促す。
その姿にヴァニタスは思わず目を奪われ、思わず動きを止めてしまう。その様子を見て一瞬目を見開いたが、乙女はまた優しく微笑めば「ほら、行きましょう」と彼の手を引く。
どうやらこちらの"コール"も、ヴァニタスに一本取るのが得意らしい。
2.
「ほら、早くメニューから選びましょ。折角来たのだから、何か頼まなきゃ迷惑よ」
そう言って頬杖をつき正面に座る乙女に、ヴァニタスは「あのなぁ…」と口を開く。
「お前、自分の立場を分かってるのか?」
「えぇ、この場にいる誰よりも」
どこか乙女の余裕そうな姿に、ヴァニタスは呆れた様子で奪う様に手元にあったメニュー表を見始めるが、彼女はそのそぶりを気にする事はなく、笑顔で彼がメニューを見る様子を眺めている。
二人が入ったのは、レイディアントガーデンの城下町、コールの軟禁されていた小屋からそう遠くはない喫茶店。
どこか静かで落ち着いた雰囲気なこの店に、どうやら乙女は興味を抱いたらしい。実際に隠れ家的なカフェなのか、店内に人は少ない上にメニューはそこそこ手の込んだものが多い。
暫くして、ヴァニタスがメニューを選び終わったのを確認すると、乙女は慣れた手付きで店員を呼び、自身の分の紅茶とヴァニタスの選んだコーヒーを注文する。
「"私"の作ったコーヒーにご不満でも?」
「ありすぎるくらいな」
あの苦味と何を淹れたのか得体の知れない
「それで?わざわざこんなところに来て呑気にお茶か?そんなこと小屋でもできるだろ」
「そうね……でも、貴方とこうして外に出たかったのよヴァニタス」
そう言って乙女は目を細めて真っ直ぐヴァニタスの目を見る。仮面をつけているはずなのに、ヴァニタスはしっかりと乙女のエメラルド色の目が合ってしまい、心臓部が飛び跳ねるそうになるのを感じる。
「俗に言うデート、というやつよ。今を楽しみましょう」
何かひっかかる物言いではあったが、突っ込んではまた彼女のペースに飲まれてしまうとヴァニタスはあえて黙り込む。
そもそもの話、ヴァニタスがデートとはなんなのか、あまりよく分かってない節もある。
そういった所に丁度よく店員が紅茶とコーヒーを持ってくる。乙女は目の前に置かれたティーカップを確認すると愛想よく「ありがとう」と店員に微笑む。ヴァニタスに向き直ると、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「…仮面は取らないとコーヒーは飲めないわよ、ヴァニタス」
「それぐらい分かっている」
「ふふ、じゃあもしかして熱い飲み物は嫌い?猫舌…というやつかしら」
ヴァニタスの様子を見てニコニコと笑う乙女に嫌気が刺し、彼は嫌々乱雑に仮面を脱ぎとれば自身の足元に
仮面を置く。
“初めて“15年後、キーブレードの勇者となる少年と同じヴァニタスの素顔を見た乙女は目を見開くが、すぐにまた微笑み顔に戻ると「そう」と目を伏せて、いつの間にか開けたであろう角砂糖の入った瓶から小さなトングで角砂糖を一つずつ入れていく。
「私、前のあなたの素顔も好きだけれど、今の顔も好きよ」
「……」
「……何か言いたげな顔ね」
金のティースプーンでカップを音を立てずに混ぜ合わせれば、慣れた手つきで乙女は自身の口元にカップを傾ければ一口紅茶を飲む。
「顔を褒められたところで、この顔は俺のものではない」
「勿論、知っているわ。でも、貴方が“貴方“であることは変わらないわ、ヴァニタス」
そう言いながら目を伏せ、ティーカップの中の紅茶に写った自分の姿を見つめる乙女はどこか物憂であるが、どこか自身の身体、顔について思うところでもあるのだろうか?
「それは私も同じ。“姿“が変わっても私は“私“よ?予知書そのものであっても、今のこの姿でもね」
そう言ってまた、乙女はティーカップに口をつける。ヴァニタスはそんな彼女に呆れた声で「そうかよ」とだけ返し、そろそろ冷めた頃だろうかとやっとコーヒーに手をつけ始める。
乙女が紅茶を飲み終える頃には、乙女の面影は消えて、いつもの“コール”がきょとんとした顔でヴァニタスの顔を見つめており、今の状況があまり理解できていない状態だったが、唸るようにして頭を悩ませた後に「ショートケーキ一つ!」と注文をし始めて思わず椅子から転げ落ちそうになる。
結局のところ、しばらく予知書の乙女を軟禁している間はヴァニタスは振り回させるんだろうなと思い始め、頭痛を耐えながらもコーヒーを飲む。
ヴァニタスがコーヒーを飲み終わったのは、完全にコーヒーが冷め切った後だった。