「放せよ!」「レイ、」
パッと距離を取った相手が、フゥーッと毛を逆立てる。睨まれた。
無視して踏み込む。1歩近付けば、1歩分後退された。何の因果か、この男が逃げ込んだ先はあの医務室だ。
「……落ち着け」
獄寺は諦めて、声をかけた。足は止める。
「近付くな。っていうか来るな」
「なんで」
「来たら刺す」
会話が成り立ってない。舌打ちした。
「いーから落ち着け、レイ。らしくもない」
「"らしくもない"?」
レイが口端を持ち上げて吐き捨てた。
目がギラギラしている。本当に、野生の獣のようだ。
「じゃあ、どうあれば俺らしいんだ?」
虚を突かれた。答えられないまま、見つめ返す。
「聞いてたんだろ。ひとりじゃ生きられないくせに他人嫌いな、臆病者の甘えたがり」
「……ああ」
白蘭が言った言葉だ。レイが、ナイフを投げる1秒前のセリフ。
「合ってんだよ」
「え」
「合ってるから、腹立つんだ。わかってるくせに、見抜いてたっていうのに」
レイがギリッと歯を噛んだ。手負いの獣が、最後に一矢報いる寸前みたいに。
「そこまでわかってて、なんで助けてくれないんだよ」
頬を殴り飛ばされるみたく、鼓膜をレイの声が打った。
吠え叫んでいる。手負いの獣が。傷口を見破られたことに恐怖して。
欲しいなら求めろ。口で言え。
そう言ったのは、自分だ。なのに、今この瞬間、絶望している。
言葉にしても、叶わないものの大きさに。
「……失望しただろ。みっともないって」
ピントが合うように、視線が交わる。殺意に近い鋭さで、レイがこちらを睨んでいた。
「……は」
「大切な物ってなんだ。誰かを愛しく思うってなんだよ。どうして生い立ちも過去も知らない相手の事を、好きだなんて言えるんだ」
怒鳴るような声だった。狭い医務室に、行き場を失った声がぶつかって反響する。
「……お前」
脳裏に答えがひらめくように、一瞬で言葉が口をついて出る。
「お前、誰かに執着したこと、無いのか」
大切な物。誰かを愛しく。他人を好きだと思える心。
それらは全部、作ろうと思って作ることのできるものじゃない。そんな感情、一度も得ずに生きる者だっているかもしれない。
けれど、目の前の男はそれを知りたいともがいている。一度蜜の味を知った蟻が、もう一度欲しいと渇望するように。
ああ。
目が眩むような感覚だった。月明かりだけの暗い医務室で、足場が崩れたように。
唐突に、理解した。ボスがこの男を拾った意味を。
多分、こういう感覚だったんだ。
手を伸ばす。
「……なに……」
レイが、目を見開く。
「手を」
「は、」
「手を、取れ」
たぐいまれな美貌の男が、土砂降りの最中に放り出された幼子のような濡れた目をする。
この世で、1番美しい光景のように思えた。
「手を」
この世で、1番誘惑される光景だと、思った。
人間は秘密に惹かれる。灯りに寄る蛾のように。
自分も同じだ。ただ、灯りでは無く闇に惹かれた。この男の秘められた薄暗さに。
恋情でも欲情でもない温かさが欲しいのだと、孤児のような望みを育ちきった青年が吐露する。そのアンバランスさを、面倒でも奇異でもなく、哀れだと思った。
今だ。今、この瞬間、自分が手を伸ばさなければ、この人間は死ぬ。
自分が手を取らなければ、その手を掴まなければ。
自分が、この男が望む家族じゃなかったとしても。
傷口を抉るとわかっていて、訊いた。
「……代理のモノで空白を埋め続けるって、どういう気分だ?」
レイが虚ろに笑った。取られた手は、冷水に浸かっていたように冷たい。
「愛が恋に変わる境目って何?」
「は?」
質問に質問返し。はぐらかされた事にイラ立つより、質問の中身に戸惑った。
「んだその、恋愛ドラマ見すぎたみたいな問いは」
「獄寺が恋愛ドラマとか言うと、面白いな」
「テメ、」
「『代理のモノで空白を埋め続けるって、どういう気分だ?』」
言葉に詰まった。
蒸し返された。このタイミングで。こめかみを殴るように。
「終わらないイタチごっこさ」
笑った男は、手を振るくらいの軽さで続けた。
本音だ。それがわかったから、すぐに反応できなかった。
「俺を救ってくれる人は皆、俺を好きだと言ってくれるんだ」
「……それは、喜ばしい事じゃねぇのか」
「そうだね」
レイは笑っていた。共感者はとうの昔に諦めた。そういう笑い方。
「俺が、大切だと思えたなら」