耳元で囁かれた。ぞわっとする。
「……は?」
「噛んでいい?」
とっさに肩をすくめた。首を守るように。
開いていた本を乱雑に閉じる。バタッという音とともに、背後の人影がポッと消えるんじゃないかと思った。もちろん、気のせいだ。「コレ」は幻影なんかじゃない。
本を読む自分の真後ろに立つ、人形みたいな顔をした男。
「雲雀、首噛んでいい?」
窓閉めていい?みたいな気軽さ。椅子に座る自分の耳裏から、ドアスコープを見るような格好でこっちを覗き込んでいる。1人の男が。
レイだ。このボンゴレの「犬」を名乗る、秀麗な人間。
「何読んでんの」
とっさの事に固まっていれば、追撃するようにまた問われる。つい1秒前の発言など無かったかのような、ごくごく平然とした面持ち。
唇をこじ開けた。妙な冷や汗が背をつたう。規則正しい鼓動にズレが生じたような気分だった。
「……聖書」
「はい、ダウト」
ふふっ。レイが笑う。ふにゃっと動いた表情に、襟元を緩められたように安堵した。
椅子ごと後ろを振り返りつつ、離れていくレイを見上げる。雲雀の耳元を覗き込んでいた相手は、今度は距離を取るように後方へ下がった。一歩、二歩。
「僕だって、聖書くらい読むかもしれないだろ」
「いーや、無いね。それが聖書なワケがない」
机の上、乱暴に放ったままだった本の表紙を手で押さえた。
「……やけに断言してくれるじゃないか」
「そりゃあ、まあ」
両腕を組みつつ、レイが首をゆるゆる振った。
「聖書ならとっくに、雲雀の身体は蒸発してる」
「……別に、聖書は怪物を溶かす武器じゃないよ」
呆れた。眉を上げ、軽口を叩くレイを見上げる。
とん。後退する相手の背中が、本棚に当たった。もたれるように背を預け、なぜか彼は目を伏せる。聖書が似合う美貌をうつむけて。
妙だな。
じろじろとその姿を観察して、思った。暗い。
机の上、小さく光るデスクランプしか灯りの無い書斎と同じく。
「何?情緒不安定ならよそでやってくれる」
そっけなくあしらった。心臓の鼓動はまだ落ち着かない。
なんとなく、嫌だった。自室の間取りが変化していたみたいな、そういう不自然さに肌がざわつく。
「だいたい君、昨日任務だったでしょ。報告終わって、」
「白蘭に会った」
ブツッと。流れを断ち切るような、色の無い声音。
目を合わせない顔を眺めて、ああ、と納得した。
それが、原因か。
奇妙な関係性だ。この男とは。
綺麗で、優秀で、強くて、かつて別組織の駒だった人間。ちょっと出歩けば色めいた視線を送られる、美人という標本から抜け出てきたような姿形の。
そういう目前の青年と、一度だけキスをしたことがある。
「……君の元親だっけ?」
「元カノみたいな言い方やめろよ」
「似たようなものだろ。君にとっては」
レイが小さく笑う。薄暗い笑みだった。いつもの取り繕うような綺麗な笑顔でも、時折見せるおかしそうに吹き出す顔とも違う。
無意識で胸元を引っ掴む。心臓は、やはり奇妙な感覚で脈打っていた。
「なんで、雲雀って俺の性格よく見抜いてんの?」
「……君はわかりやすいから」
「はい、ダウト」
わかった。このざわつきの正体が。
不自然さ。見覚えのある景色が歪んだような。つまり、初めて見るのだ。
この青年が、ここまでハッキリと弱っているのは。
「俺はわかりにくいよ」
「……それは、自分は変人ですっていう遠回しな自己紹介?」
「自分でもよくわからないのに」
自嘲するように呟いて、レイがズルズルと座り込んだ。重力に沈んでいくような、そういう力の無い仕草で。
白蘭。ミルフィオーレファミリーのボス。今、自分の前で座り込む男の「元親」で、「元兄」。
そこまでは知っている。沢田綱吉から聞いた話だ。
「……で?」
諦めて、椅子から身を起こす。お目当ての資料探しは今度になりそうだ。
「で?」
近付けば、レイがおうむ返しに繰り返した。体育座りで顔を上げた姿は、路地裏でうずくまる子供のようだ。
ただし、子供はこんなに美しくない。
「で、って聞いた?いま」
「聞いた」
そして、こんなに鋭い目付きもしない。
「……ここはフツウ、優しい言葉で慰めてやるのがお決まりだろ?」
「君は自己申告通りわかりにくいからね。まさか慰めて欲しいとは見抜けなかった」
「発言が二転三転してるけど自覚あります?雲雀サン」
「柔軟な思考してるからね、僕は」
「信念のない男は嫌われるよ?」
息をするように返しつつ、レイは口元をつり上げた。
「ま、雲雀に限って信念に欠けるなんてこと、無いだろうけど」
足を止める。戯れ言はここまでだ。
靴一足分の間を残して、立ったまま問いただした。
「君が、白蘭のことをそこまで引きずってるとは思わなかった」
レイが目線を下げた。悪質なイタズラがバレた子供みたいな仕草。
デスクから届く灯りは遠い。遮るように、雲雀がランプに背を向けているからだ。
「……俺も、思わなかった」
影に落ちた顔は、感情が薄かった。
壊された人形のような表情。目を伏せ座り込んだ姿は、どう見ても憔悴しているようなのに、驚くほど内情が滲んでいない。そういうポーズを取ったモデルみたく。
この男の悪癖だ。こういう時、素直に感情を表に出す方法をまるでわかってない。
「未練ある?って聞かれた」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「……は?」
「僕に未練ある?って」
ミレン。未練。
一人称は僕、と来た。僕と言うなら六道か。それとも自分。まさか。そんなわけがない。
答えはひとつだ。この流れで来たら、当然。
「白蘭に」
白蘭。やはり、あの男か。
「……君のプライベートに口出すつもりは無いけど、デートに選ぶ相手を間違えてない?」
「任務中に首突っ込んできたんだ。向こうが」
ため息をついた。自分が生粋の日本人じゃなければ、両手を上げて天を仰いでいるところだ。
「君、首突っ込まれすぎじゃない?」
「そういう星の元に生まれついてきたんだろうな……」
遠い目で呟くところじゃない。
「不幸にも程があるでしょ。六道といいあの白髪といい、面倒なのに絡まれすぎ」
「知ってるか雲雀、不幸の後には同じくらいの幸運が」
「幸福量一定の法則、かい?君、いつからそんなポジティブになったの」
流れるような掛け合い。いつもの雰囲気と同じだ。
固定されたようにこちらを見上げる瞳は、強気な光を取り戻しつつある。このまま、彼は流れを戻すつもりなのだろう。それこそ、そこらの廊下で出くわしてちょっと喋るくらいの、そういう調子に。
それは、嫌だ。
「人をネガティブの塊みたいに」
「ネガティブでナーバスさ。君は」
「あれ、俺わかりくいんじゃなかったっけ?」
べらべら喋りながら、レイがぐっと立ち上がりかける。タイミングを逃さず、身をかがめた。
狙うは、足。
「わかりにくいさ」
自分の本心を隠すのが得意な君は、いつも。
「?ひば」
り、と動いた唇が、途中で引き攣る。もう遅い。
相手がそれ以上動くより早く、雲雀は的確にレイのくるぶしに足払いを決めた。