20,ロト(上)

「噛みたい」
 耳元で囁かれた。ぞわっとする。
「……は?」
「噛んでいい?」
 とっさに肩をすくめた。首を守るように。
 開いていた本を乱雑に閉じる。バタッという音とともに、背後の人影がポッと消えるんじゃないかと思った。もちろん、気のせいだ。「コレ」は幻影なんかじゃない。
 本を読む自分の真後ろに立つ、人形みたいな顔をした男。

「雲雀、首噛んでいい?」

 窓閉めていい?みたいな気軽さ。椅子に座る自分の耳裏から、ドアスコープを見るような格好でこっちを覗き込んでいる。1人の男が。
 レイだ。このボンゴレの「犬」を名乗る、秀麗な人間。


「何読んでんの」

 とっさの事に固まっていれば、追撃するようにまた問われる。つい1秒前の発言など無かったかのような、ごくごく平然とした面持ち。
 唇をこじ開けた。妙な冷や汗が背をつたう。規則正しい鼓動にズレが生じたような気分だった。

「……聖書」
「はい、ダウト」

 ふふっ。レイが笑う。ふにゃっと動いた表情に、襟元を緩められたように安堵した。
 椅子ごと後ろを振り返りつつ、離れていくレイを見上げる。雲雀の耳元を覗き込んでいた相手は、今度は距離を取るように後方へ下がった。一歩、二歩。

「僕だって、聖書くらい読むかもしれないだろ」
「いーや、無いね。それが聖書なワケがない」
 机の上、乱暴に放ったままだった本の表紙を手で押さえた。
「……やけに断言してくれるじゃないか」
「そりゃあ、まあ」
 両腕を組みつつ、レイが首をゆるゆる振った。
「聖書ならとっくに、雲雀の身体は蒸発してる」
「……別に、聖書は怪物を溶かす武器じゃないよ」

 呆れた。眉を上げ、軽口を叩くレイを見上げる。
 とん。後退する相手の背中が、本棚に当たった。もたれるように背を預け、なぜか彼は目を伏せる。聖書が似合う美貌をうつむけて。

 妙だな。
 じろじろとその姿を観察して、思った。暗い。
 机の上、小さく光るデスクランプしか灯りの無い書斎と同じく。

「何?情緒不安定ならよそでやってくれる」
 そっけなくあしらった。心臓の鼓動はまだ落ち着かない。
 なんとなく、嫌だった。自室の間取りが変化していたみたいな、そういう不自然さに肌がざわつく。
「だいたい君、昨日任務だったでしょ。報告終わって、」
「白蘭に会った」
 ブツッと。流れを断ち切るような、色の無い声音。
 目を合わせない顔を眺めて、ああ、と納得した。

 それが、原因か。

▽▲

 奇妙な関係性だ。この男とは。
 綺麗で、優秀で、強くて、かつて別組織の駒だった人間。ちょっと出歩けば色めいた視線を送られる、美人という標本から抜け出てきたような姿形の。
 そういう目前の青年と、一度だけキスをしたことがある。

▽▲


「……君の元親だっけ?」
「元カノみたいな言い方やめろよ」
「似たようなものだろ。君にとっては」
 レイが小さく笑う。薄暗い笑みだった。いつもの取り繕うような綺麗な笑顔でも、時折見せるおかしそうに吹き出す顔とも違う。
 無意識で胸元を引っ掴む。心臓は、やはり奇妙な感覚で脈打っていた。
「なんで、雲雀って俺の性格よく見抜いてんの?」
「……君はわかりやすいから」
「はい、ダウト」
 わかった。このざわつきの正体が。
 不自然さ。見覚えのある景色が歪んだような。つまり、初めて見るのだ。

 この青年が、ここまでハッキリと弱っているのは。

「俺はわかりにくいよ」
「……それは、自分は変人ですっていう遠回しな自己紹介?」
「自分でもよくわからないのに」

 自嘲するように呟いて、レイがズルズルと座り込んだ。重力に沈んでいくような、そういう力の無い仕草で。


 白蘭。ミルフィオーレファミリーのボス。今、自分の前で座り込む男の「元親」で、「元兄」。
 そこまでは知っている。沢田綱吉から聞いた話だ。


「……で?」
 諦めて、椅子から身を起こす。お目当ての資料探しは今度になりそうだ。
「で?」
 近付けば、レイがおうむ返しに繰り返した。体育座りで顔を上げた姿は、路地裏でうずくまる子供のようだ。
 ただし、子供はこんなに美しくない。
「で、って聞いた?いま」
「聞いた」
 そして、こんなに鋭い目付きもしない。
「……ここはフツウ、優しい言葉で慰めてやるのがお決まりだろ?」
「君は自己申告通りわかりにくいからね。まさか慰めて欲しいとは見抜けなかった」
「発言が二転三転してるけど自覚あります?雲雀サン」
「柔軟な思考してるからね、僕は」
「信念のない男は嫌われるよ?」
 息をするように返しつつ、レイは口元をつり上げた。

「ま、雲雀に限って信念に欠けるなんてこと、無いだろうけど」

 足を止める。戯れ言はここまでだ。
 靴一足分の間を残して、立ったまま問いただした。

「君が、白蘭のことをそこまで引きずってるとは思わなかった」

 レイが目線を下げた。悪質なイタズラがバレた子供みたいな仕草。
 デスクから届く灯りは遠い。遮るように、雲雀がランプに背を向けているからだ。

「……俺も、思わなかった」

 影に落ちた顔は、感情が薄かった。
 壊された人形のような表情。目を伏せ座り込んだ姿は、どう見ても憔悴しているようなのに、驚くほど内情が滲んでいない。そういうポーズを取ったモデルみたく。
 この男の悪癖だ。こういう時、素直に感情を表に出す方法をまるでわかってない。

「未練ある?って聞かれた」

 一瞬、聞き間違いかと思った。
「……は?」
「僕に未練ある?って」
 ミレン。未練。
 一人称は僕、と来た。僕と言うなら六道か。それとも自分。まさか。そんなわけがない。
 答えはひとつだ。この流れで来たら、当然。

「白蘭に」

 白蘭。やはり、あの男か。
「……君のプライベートに口出すつもりは無いけど、デートに選ぶ相手を間違えてない?」
「任務中に首突っ込んできたんだ。向こうが」
 ため息をついた。自分が生粋の日本人じゃなければ、両手を上げて天を仰いでいるところだ。
「君、首突っ込まれすぎじゃない?」
「そういう星の元に生まれついてきたんだろうな……」
 遠い目で呟くところじゃない。
「不幸にも程があるでしょ。六道といいあの白髪といい、面倒なのに絡まれすぎ」
「知ってるか雲雀、不幸の後には同じくらいの幸運が」
「幸福量一定の法則、かい?君、いつからそんなポジティブになったの」

 流れるような掛け合い。いつもの雰囲気と同じだ。
 固定されたようにこちらを見上げる瞳は、強気な光を取り戻しつつある。このまま、彼は流れを戻すつもりなのだろう。それこそ、そこらの廊下で出くわしてちょっと喋るくらいの、そういう調子に。
 それは、嫌だ。

「人をネガティブの塊みたいに」
「ネガティブでナーバスさ。君は」
「あれ、俺わかりくいんじゃなかったっけ?」

 べらべら喋りながら、レイがぐっと立ち上がりかける。タイミングを逃さず、身をかがめた。
 狙うは、足。

「わかりにくいさ」
  自分の本心を隠すのが得意な君は、いつも。

「?ひば」
 り、と動いた唇が、途中で引き攣る。もう遅い。
 相手がそれ以上動くより早く、雲雀は的確にレイのくるぶしに足払いを決めた。

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