21,ロト(中)

「いッ……て〜」
 レイがぐしゃっと両目をつぶり、うめく。大袈裟な仕草だ。
 呆れる。床に仰向けで転がったレイへまたがり、雲雀は短く息を吐いた。保育園児じゃあるまいし、足払いで転ばされたくらいで、今更。

「ちょっと雲雀サン、俺の脳細胞が物凄い勢いで死んだんだけど?」
「悪かったね」

 全然全くちっとも思ってなかったが、そう言った。
 内心とかけ離れた言葉を平然と口にできる態度。何のためらいもなく空嘘を口にする、この男の影響を受けたのかもしれない。
 両の手首をしっかり押さえ込みつつ、細い腕だ、と改めて実感した。これで数多の任務を遂行しているんだから、この男の存在自体、それこそ真っ赤な嘘みたいな代物だろう。

「今度は、やる前に報告するよ」

 言いつつ、膝で相手の太腿を押さえ込んだ。
 アジトの電気を消していくのと同じくらい、順序よくレイから自由を奪っていく。
「報告するって、どうやって」
「ウインクとかどう?」
 押さえた両手の間で、端整な顔がコミカルに歪んだ。予期せぬ笑いに襲われたように。
「ういんく?」
 片言で返された。眼下の唇が、若干ヒクついている。
「そう。ウインク」
「雲雀のウインクとか、世界遺産並みの尊さだな。ぜひ拝みたい」
「僕の瞬きひとつに、そんな価値があるだなんて嬉しいね」
「骸のラップばりの値打ちがあるよ。もっと喜んで」
 全然嬉しくない。顔をしかめた。手首を押さえる手に力を込めれば、簡単に真下の顔は歪む。
 やっぱり、こっちの方が良い。嘘に嘘で応酬するより、素直に内心を露わにする方が、ずっと楽だ。

「君、危機感とか無いの?」
「何に対する危機感?」

 握った手首の脈は平常。いつぞやソファに倒した時とは、打って変わった落ち着きようだ。
 嫌な奴だと思った。二度目は動じませんよ。そういうことか。

「それとも、貞操観念が雑草並みに低いとか」
「挨拶レベルで人をさらっとこき下ろすの、やめてくんない?」

 レイが目元を引き攣らせた。汚水を被ったみたいに。
「ねぇ」
 ぐっと顔を近付けた。目を覗き込むように、首を傾ける。
 大きな瞳は、一度だけ耐えかねたように瞼を下ろした。それから、平然とした目付きで見上げられる。
 あれ。そこで、初めて思い当たった。
「……何?」
「この体勢、覚えがあるよね?」
 幼い子供をさとすように言う。レイの瞳孔が揺らいだ。この近さなら、感情のささいな動きまでよく見える。
 動じないんじゃない。
 動じないように、心を死なせているんだ。きっと。

「キスするよ」

 低い声で、耳に流し込んだ。木の葉が震えるように、びくっと細い肩が跳ねる。

「何があったか、全部言わないと」
 後半に笑いを含ませたのは、わざとだ。猫がヤモリをいたぶるように、逃げ場を潰した言葉で追い詰める。
 相手は、舌戦にかけては百戦錬磨だ。僅かな動揺を見逃さず、正確に囲っていく。
 でなければ、逃げられるから。

▽▲

 奇妙な関係性だった。
 綺麗なだけなら観賞用。優秀ならば利用するまで。強さを備えているなら咬み殺す。かつての居場所が違う事には、さほど頓着しない。雲雀は基本的に、他人の現在にしか興味が無いからだ。
 なら、なぜキスしたのだろう。
 そして今、なお。

▽▲


 目を伏せていたレイが、急にこちらを見た。ピースを嵌めるように、視線がかち合う。
 すうっと、脳が冷える。血液が引いていく感覚。
 底冷えのする目だった。殺伐とした、色で言ったら水っぽいグレー。飛び降りる寸前の女学生みたいな。

「……なんで、愛情の先に肉欲は存在するんだ」

 呟かれた問いに、心臓が硬直した。
 かろうじて、瞬きをする。囁かれた言葉が、書斎を一周回って壁に跳ね返り、それからやっと自分の耳に入ってきた気がした。
「……なに?」
「兄弟に欲情はしないだろ」
 咎めるような鋭い声で、レイが重ねる。血だまりでも眺めているような薄暗さがあった。
 息を呑み込む。いつぞや、皮肉交じりに六道へ投げた言葉が浮かんだ。

 子供に欲情する親がいるなら合ってるんじゃない。
 君、よくそういうことが言えますね。

 あの時の言葉が、こういう形で返ってくるとは。

「……本当に?」
 静かに訊ねた。レイが僅かに眉をひそめる。
「本当に、って」
「なら、聖書は近親姦を禁じたりしない」
 禁令は、犯される可能性があるから禁令なのだ。誰も起こさない行動なら、規制されることはない。
「聖書の人間ですら、家族愛と恋情をはき違えると?」
 綺麗な顔が陰った。敵の足を1本もぎとった瞬間みたいに。
 語るに落ちたな。淡々と手に力を込めつつ、雲雀は悟った。


「白蘭に、何されたの?」


 レイが、口元を引き攣らせた。

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