「よぉ。ツナから聞いてるぜ、書類配達、ありがとな」
「こちらこそ」
ドアを開け、物音立てずに入り込んできた影へ声をかける。隙間をすり抜ける猫のごとき動き。彼の、「ボンゴレの犬」の、得意技。
にこり。顎を上げたレイが微笑んだ。
「入り口の黒服に襲われて、楽しいひと時だった」
口元も瞳も見事に笑んでいる。これも、彼の十八番。
場の空気が強張ったのを感じながら、ディーノは笑みを深めた。
「わりぃな、伝達ミスがあったみたいで」
「俺の来訪、ワザと知らせなかったんだろう?」
おや。唇を舐めた。肌をピリリと切るようなオーラは、穏やかな口ぶりの相手から伝わってくる。
なるほど。「ボンゴレ」以外に、尻尾を振る気はないということか。
「俺の腕を試したかったってワケだ」
レイがうっとうしそうに首元をこする。硬貨サイズの血痕が滲んだ。
猫が毛づくろいするより何気ない。おそらく、自分の血ではないのだろう。
「まさか。こっちの不手際で迷惑かけて悪かったな」
肩をすくめ、誘うように声音を明るくした。この応接室の真ん中、ドアから離れた部屋の奥へと。
「自分の部下を騙し討ちに利用するのが、キャッバローネのお作法か?」
笑んだ目の奥が、冷たい氷のように光っている。雑誌のモデルにも似た美しさだ。
内心を滲ませない微笑み方。これだけ毒を吐いておきながら。いっそ不気味だ。
「でも、楽しんでただろ?オレの部下は」
「……ああ。なるほど」
ふいに、レイが眉をあげた。繕った笑みが薄くなる。
「そういう信頼関係が成り立ってるのか。ここのボスと、仲間は」
「?」
「どうりで、笑いながら連射してくると思った」
「げ、アイツら銃使ったのか。1人相手にはやめとけって言ったんだけどな」
滑らかに返しながら、内心では別の事を考えていた。
おそらく、使ったのではない。"使わされた"のだ。
「なんか言ってたぞ。『勘弁してくれよボス』とか、『とんだサプライズだぜ』とか」
「マジか〜」
「『今度こそボスの前髪引き抜く』とか」
「うわっ、オレの毛根を死守しねーと」
レイが左手をゆっくり持ち上げる。茶色い包みが握られていた。
「次は、ちゃんと歓迎してくれ。キャッバローネ」
思わず、笑ってしまう。今度は本心からの笑いだ。
立ち上がり、デスクを回る。荷物を差し出すレイの方へ、緩やかに歩を詰めた。
「どうしようかな」
「おい」
むっとした顔。この短時間で、警戒レベルはずいぶん引き下がったらしい。
可愛い奴だ。素直にそう思った。猫が人に懐く過程を見るような気持ちになる。
「試すようなマネして悪かった。次はちゃんと歓迎するぜ、レイ」
「それは嬉しいね」
「ファミリー総出で門の脇に並んでやっからな!」
「次来るのやめるわ」
くだけた口調。呆れた顔がおかしくて、その頭をクシャッと撫でてやった。
ついでに荷物を受け取る。A4サイズのそれは、ハガキのように軽い。
「お前って可愛いヤツだな」
本音が漏れる。木の葉の隙間から、日光の筋が零れるように。
レイが目を細めた。不意に抱きしめられた子供のような、どこか照れの混じった驚きの表情で。
会うのは初だ。だが、ディーノは一方的に面識があった。
可愛い弟弟子の新しい仲間だ。それだけでなく、ひどく綺麗で強いらしい。
彼が、また厄介事を抱えこんだわけではないといいのだが。そう懸念していた。
『厄介な男だよ』
自分が唯一教育した男は、真顔でそう評した。
『……それマジ?キョウヤ』
『この前は骸と腹を刺し合ってた』
『な、何してんだ……』
『あいさつだって』
挨拶で腹を刺し合う?
異文化コミュニケーションすぎる。思わず、頭を抱えた。
『……おいおい、大丈夫かよツナぁ』
『大丈夫じゃないだろうね。彼、レイのことが好きだから』
『はぁ?!』
『父親になってあげたいんだってさ』
滑らかな物言いだ。上質のシルクに指をすべらすような淀みの無さ。
凶悪な攻撃力を持つ男が、どこか哀れむような調子で告げる。
『唯一無二の存在に、なってあげたいんだってさ』
写真や動画。他人の噂。
マフィアだけあって、情報は山ほど入る。それらを見ているうちに、なんとなくわかった。
「……お前、オレのとこに来いよ」
レイが目を見開く。
誤って美しくなりすぎた道化役のような。そういう、仕草と見た目がズレすぎているところにうすら寒さを覚えていた。かつては。
「魅力的に見えるんだろ?オレと、ファミリーの関係」
ぐっと、顔を近付ける。頭に置いた手はそのままに。彼の大きな目いっぱいに自分が映るように、ギリギリまで。
レイの視界に、自分以外が映り込まないように。
「お前も入れば一緒になれるぜ」
声が甘くなったのは無意識だった。
なんとなく、理解してしまった。ツナが彼を抱え込んだ理由を。父親役になろうとする心の裏も。
「……なに、言って、」
「めちゃくちゃ、可愛がってやるから。な?」
そして、それを哀れむ雲雀の心情も。
「っ、離せ」
視線が外れる。ぱっとレイが目を伏せた。だが、ディーノの手を振り払おうとはしない。
エサをチラ見する猫みたいだ。その場で固まったまま、逃げるそぶりは見せない。
「……馬鹿だな、レイ」
人を騙せる作り笑顔と皮肉の滑らかさ。ファミリーの数人を相手に、傷ひとつ負わない身体能力。
恵まれた才能と世渡り上手なスキルに満ちた人間だ。きっと生きやすいだろう。
なのに、絶望的な望みを抱えている。
「キャッバローネボスの前で、」
まるで、空に溶けた雲の切れ端を探しているような。そういう。
「隙を見せたらダメだぜ」
レイの体がピクッと跳ねる。本能的な反射だろう。マフィアとしても優秀だ。
顎を持ち上げた。ゆっくりと、唇を重ねる。
「ツナの元が辛くなったら、オレのとこに来てもいいぜ」
「絶対行かない」
レイが忌々しげに言い放つ。ひらり、その体が後ろに下がった。
「なんでだよ、悪くない申し出だろ?」
「世界中でキャッバローネファミリーしか残らなくても行かねぇわ、絶対」
乱れた襟元を整える。レイに思いっきり突き飛ばされたせいだ。
「まあまあ。そんな怒んなよ〜」
「ホントに悪いと思ってんのか、お前」
シャーッと毛を逆立るレイの目元は赤い。尻尾を踏まれた猫みたいだ。
実際、ディーノは踏んだのではなく噛んだのだけれど。唇を。
「だって初体験ってワケじゃねーだろ?いつが最後だ?」
「いつ?」
訝しげな顔。顎に手を当てたレイを、にやにやと煽る。
「ほらほら、ちょっと言ってみろって」
「あ〜……、ちょっと前に、任務先で」
「おっ。美女か?」
「いや。骸と」
うっかり包みを投げ飛ばすかと思った。
「むっ…むくろ?」
「骸」キッパリとレイが頷く。
「そっ……か。へぇ、おう、趣味悪いな」
「動揺しすぎ」
そりゃ動揺もするだろう。腹を刺し合っていた2人組が、キスしあう中へ。
異文化コミュニケーションってすげぇな。ディーノはもはや感嘆の域だ。
「そもそも、俺と骸はそういう仲じゃない」
「ああ、そういうのオレは偏見無いぞ、安心してくれ」
「違う。嫌いなんだよ、俺」
つまらなそうに言う顔を二度見する。
「……嫌よ嫌よも好きのうち、か?」
「いや、全く。心の奥底から嫌い」
「なんで?」
嘘ではないだろう。レイの言い方でわかった。人は本気で何かを厭う時、どこか歪んだ笑い方をする。
「俺とよく似てるのに、俺を助けてはくれないから」
唐突に闇を見た気がした。足元、靴の横にポッカリと空いた落とし穴を。
息を詰めた。幻覚だ。ここは室内で、床はカーペットで覆われている。穴なんてあるはずがない。
「昔、会ったばかりの頃は、俺を救ってくれるのは骸だと思っていたんだ」
「……レイ、お前」
美しい横顔は、どこか遠くを見ていた。壁の向こう、無限に広がる青空を眺めているかのように。
「業が深いな」
レイの視線が戻る。その口端が持ち上がった。
「そんな言葉、よく知ってるな」
「日本とは付き合いが長いんだよ」
「愛人を囲ってるとかか?」
「愛人じゃねぇけど、大切な人は多いからな」
ツナにリボーン、キョウヤ。そして、彼らの仲間が。
「……そうか」
レイが目を細める。その瞳の奥に、影を見た。
ああ。また、胸に風が吹くような感覚がする。
「お前もだぜ。レイ」
巣から落ちた雛鳥は、ああいう目をするのだろうか。
遥か頭上の巣を見上げ、居場所を諦めるように。この男が時折見せる眼差しは、そういう鬱屈さを持っている。
「……ありがとう」
「だから、馬鹿な真似は考えるなよ」
レイが目を伏せた。唇を引き結び、不意にくるりと背を向ける。
聡い奴だ。応えられない忠告を与えられた時、どうすればいいのか知っている。
「お前が大切に思えなくても、さ。レイ」
困った奴だ。そう思った。
こいつを真の意味で救えるのは、多分、ツナではないのだろう。
「お前を大切に思う人はきっと多いから」
レイの背中が、ドアの向こうへ消えた。
自分を救ってくれるのは、骸だと思っていた。
自分を救えるのは自分だけだとわかっているのだ、彼は。それは人間にとって永遠の命題であって、おそらく大多数が気付いている真理でもある。
だからこそ。
「……もしもし、ツナ?お前がくれたこの包み、開封痕があるんだけど……」
手の内、数枚の書類に目を滑らせながら、片手の携帯へと言葉をつむぐ。
だからこそ、人は他人を求めるのだ。もうひとりの自分なんて見つからないのだから。
「……おまえんとこの『犬』が、中身を見ちゃったかも」
お前は業が深いよ、レイ。心の内で、呟いた。