細い体がコンクリート塀に叩きつけられる。あー、痛そう。冷静に、そう思った。
「……ッた、」
「なんで雲雀チャンだったのかなぁ」
立ち上がりかけ、レイが咳き込む。くの字に折れ曲がった体に、二歩で近付いた。
「僕にしておけば良かったのに」
気配を感じたのだろう。相手が、むせながらも顔を上げる。
下りた前髪の奥から、涙目がのぞいた。上目遣いも悪くないが、苦しげな口元の方はもっと可愛い。
「……何、それ。玩具とられた子供みたいな」
「僕、そんな駄々っ子に見える?」
「お前の執着なんて、そんなもんだろ、うぐっ」
濁った声で嘲笑するレイへ、蹴りを入れた。
音もなく崩れ落ちる肢体に、どんどん胸が冷えていく。対照的に脳だけが熱い。全身の体温が集中したみたいだ。血がのぼっている。
その感覚を消したくて、何度も足を上げた。
そんなもんだろ。そうだよ、その程度のつもりだった。
無様なコ。手に入らないものばっかり追いかけて。馬鹿で惨めで、カワイイね。
そうやって、遠くで笑いながら手を伸ばしてあげるはずだったのに。
「あーあ。なんで、僕じゃなかったの?」
得られないモノを追い求める馬鹿。その馬鹿を追い回すバカ。
見苦しいイタチごっこだ。こんなもの。
「どうせ、君の欲しいモノなんて、一生手に入らないのに」
断ち切る方法なら知っている。投げ出された手首へ、足を置いた。躊躇なく体重を乗せる。
「ぐっ……」
「ねぇ、ノアチャン」
苦痛に身をよじった青年へ、かつての弟へ、片思いの相手へ。
最後の救いだと思って、言葉を与えた。
「今、僕がここで殺してあげよっか」
「……ヤダ」
一筋、血が垂れる横顔が笑む。
無様な人間を見下すような表情。神が下界を嘲弄するとしたら、こんな顔だろうか。
「白蘭は、俺のこと殺せないから」
思わず、笑みがこぼれた。
そこまでは信頼してくれてるんだ、ノアチャン。
「どうかな?」
「そうだよ」
「愛憎表裏って知らない?愛と殺意は紙一重だよ」
手の内で、匣を弄ぶ。足元の彼にも見える位置だ。
いつでも殺せる、そういう意図を込めて。
「、ははっ」
なのに、相手は血にまみれた顔で笑った。初めて手放しで褒めてもらった子どもみたいに。
とても、この上なく綺麗な笑顔で。
「俺のこと、愛してくれてたんだ。白蘭」
――ひゅっ、と。
何かが、落ちる音がした。手の内の匣と、心のどこかが。
『君は未だに、永遠に変わらない愛情を待ってるんだね。レイチャン』
自分にはよくわからなかった。親のぬくもりや家族のやさしさを知らなくとも、人とは関われるし付き合えるし、殺せるし。
だけど、君はそれが欲しかったんだよね。
「……バカだなぁ。君は」
気付けば、膝を折り、彼の前へ頭を垂れていた。懺悔するように。
「何回も聞いたよ。ソレ」
手を伸ばす。彼が目を細めたのは、どこか痛んだからか。それとも。
伸ばされた手に動揺したのか。
「……ごめん、痛かったね」
「えっ、怖……」
「反応おかしくない?」
普通に傷付く。立ち上がるのを助けようとした心に悪意はない。純度100%の善意だ。それなのに、なぜかドン引きの眼差しを向けられている。
「白蘭に似合わないワード・トップスリーを発表します」
「どうぞ?」
レイの左手を掴み、右腕の下に手を差し入れる。完璧な手助けだ。よろめきながら、相手はその場に立ち上がる。
「いたわり・なぐさめ・しおらしさ」
「もっかい蹴ろうか?次は肋骨狙ってあげる」
「そうそう、調子戻ってきたな」
ゆっくり助け起こした体は、細かった。こんなに弱そうなカラダだったっけ。ぼんやり、思う。
ああ、そうか。この子、綱吉クンのとこから逃げ出すつもりなのか。
「……レイチャン、やめときなよ。綱吉クンは優良物件だから」
「ハ?」
レイが目を丸くする。
「少なくとも、僕ほどエキセントリックじゃないでしょ」
「お前はエキセントリックどころかアグレッシブだよ。考えを改めろ、綱吉に失礼だわ」
「意気揚々と人をコケにしてくるなぁ」
「そりゃ、お前に教わったからな」
「ん?」
「会話術からナイフの扱い方、日本文化まで」
額から垂れる血を、無造作にぬぐう。そんな仕草までスマートだ。
マナーは体に染み込めば癖付く。けれど、彼はそうではない。流れ星が勝手に弧を描くように、動作が素で小綺麗なのだ。
「全部、お前に教わったから」
そして、こういうことをサラッと言う。
『気まぐれだよ。ぜーんぶ、気まぐれ。銃が下手だからナイフ持たせたのも、ハイクっていう文化を教え込んだのも』
嘘だ。全部、意識した上で教え込んだのだから。
古典的すぎるナイフ。役立たない異国の文化。他者交流に害成す、毒を含んだ会話術。
『君は未だに、永遠に変わらない愛情を待ってるんだね』
信者は、全てを見透かす神に逆らわない。あの感覚を真似た。彼を支配しようとした。
君のことは、全部わかってるよ。見切ったとばかりの言葉を与えては、傷付ける。その繰り返し。
『……あなたに依存した覚えはないんだけれど』
『当たり前でしょ。そうしたかったのに、その前に消えたのはそっち』
あいしてる、も、だいじょうぶだよ、も二の次だった。
傷が絶えなければいい。その痛みが当たり前になれば。
次は、傷が無いことに違和感を覚え始めるだろう。
『だから、僕に依存すればよかったのに』
『……お前に依存とか、先が見えない』
『だから、いいんじゃん。他の何にも、君の目には映らなくなる』
依存性。見えない麻薬のように、その精神を奪う。信頼も好意も関心も興味も、ただ一人へ。
それが自分のやり口であって、それこそが彼を救うと思っていた。
『ひとりじゃ生きられないくせに他人嫌いな、臆病者の甘えたチャン』
そういう恋で、そういう愛だった。
「好きだった。……5年前の君を、愛してたよ」
終わりにしよう。そう思った。
部屋中の写真を剥がす時だ。今、この瞬間に。
「白蘭……」
奇妙な表情だった。幼い頃、蒸発した母親が、目の前に降って現れたような。
レイの目が自分を見上げている。期待と怯えと、それらが薄れてとっくに遠のいた色だ。
だらりと垂れた腕に、手を伸ばす。
『なんで流れ星に願い事するの。ノアチャンも神様なんて信じてないくせに』
『信じてないから願うんだよ。叶わないってことを、自分に言い聞かせるために』
満点の星空の下で、いつかの彼がきれいに笑った。
時の経過は傷を癒すのだ。昔、互いを切り付けあうように傷つけたことも、ずっと遠くなっていく。
許し合えるのだ、人は。復讐心を保つのに苦労するように、負の感情を持続させるにはエネルギーがいる。だから。
「……好きだったよ。レイチャン」
過去にできる。
虐待の記憶が足に絡まるように、無かったことにはできなくても。
「うん。……俺も」
だって僕たちは、兄と弟だったんだから。
レイが口元をゆがめて微笑んだ。喉を絞められたように苦しげに。
「ありがとう、……白蘭」
するり。触れ合っていた指先が、魔法が解けるみたく離れていく。
これで、最後だろう。そうわかった。彼は、見切りを付けた関係性へ二度と寄り付かない。
5年前、白蘭の元へ来る以前のことを、一言も語らなかったように。
「さよなら」
そう呟いたのは、どっちだったのだろう。火を点けた写真に、弔いの言葉を投げるような。
それが、彼との最後の会話だった。