27,星に願いを(下)

 突き飛ばされる。わかったから、その前に突き飛ばした。
 細い体がコンクリート塀に叩きつけられる。あー、痛そう。冷静に、そう思った。

「……ッた、」
「なんで雲雀チャンだったのかなぁ」

 立ち上がりかけ、レイが咳き込む。くの字に折れ曲がった体に、二歩で近付いた。
 
「僕にしておけば良かったのに」

 気配を感じたのだろう。相手が、むせながらも顔を上げる。
 下りた前髪の奥から、涙目がのぞいた。上目遣いも悪くないが、苦しげな口元の方はもっと可愛い。

「……何、それ。玩具とられた子供みたいな」
「僕、そんな駄々っ子に見える?」
「お前の執着なんて、そんなもんだろ、うぐっ」

 濁った声で嘲笑するレイへ、蹴りを入れた。
 音もなく崩れ落ちる肢体に、どんどん胸が冷えていく。対照的に脳だけが熱い。全身の体温が集中したみたいだ。血がのぼっている。
 その感覚を消したくて、何度も足を上げた。

 そんなもんだろ。そうだよ、その程度のつもりだった。
 無様なコ。手に入らないものばっかり追いかけて。馬鹿で惨めで、カワイイね。
 そうやって、遠くで笑いながら手を伸ばしてあげるはずだったのに。

「あーあ。なんで、僕じゃなかったの?」

 得られないモノを追い求める馬鹿。その馬鹿を追い回すバカ。
 見苦しいイタチごっこだ。こんなもの。

「どうせ、君の欲しいモノなんて、一生手に入らないのに」

 断ち切る方法なら知っている。投げ出された手首へ、足を置いた。躊躇なく体重を乗せる。

「ぐっ……」
「ねぇ、ノアチャン」

 苦痛に身をよじった青年へ、かつての弟へ、片思いの相手へ。
 最後の救いだと思って、言葉を与えた。

「今、僕がここで殺してあげよっか」

▽▲

「……ヤダ」

 一筋、血が垂れる横顔が笑む。
 無様な人間を見下すような表情。神が下界を嘲弄するとしたら、こんな顔だろうか。

「白蘭は、俺のこと殺せないから」

 思わず、笑みがこぼれた。
 そこまでは信頼してくれてるんだ、ノアチャン。

「どうかな?」
「そうだよ」
「愛憎表裏って知らない?愛と殺意は紙一重だよ」

 手の内で、匣を弄ぶ。足元の彼にも見える位置だ。
 いつでも殺せる、そういう意図を込めて。

「、ははっ」
 
 なのに、相手は血にまみれた顔で笑った。初めて手放しで褒めてもらった子どもみたいに。
 とても、この上なく綺麗な笑顔で。
 

「俺のこと、愛してくれてたんだ。白蘭」


 ――ひゅっ、と。
 何かが、落ちる音がした。手の内の匣と、心のどこかが。

▽▲

『君は未だに、永遠に変わらない愛情を待ってるんだね。レイチャン』

 自分にはよくわからなかった。親のぬくもりや家族のやさしさを知らなくとも、人とは関われるし付き合えるし、殺せるし。
 だけど、君はそれが欲しかったんだよね。

▽▲

「……バカだなぁ。君は」

 気付けば、膝を折り、彼の前へ頭を垂れていた。懺悔するように。

「何回も聞いたよ。ソレ」

 手を伸ばす。彼が目を細めたのは、どこか痛んだからか。それとも。
 伸ばされた手に動揺したのか。

「……ごめん、痛かったね」
「えっ、怖……」
「反応おかしくない?」

 普通に傷付く。立ち上がるのを助けようとした心に悪意はない。純度100%の善意だ。それなのに、なぜかドン引きの眼差しを向けられている。

「白蘭に似合わないワード・トップスリーを発表します」
「どうぞ?」

 レイの左手を掴み、右腕の下に手を差し入れる。完璧な手助けだ。よろめきながら、相手はその場に立ち上がる。

「いたわり・なぐさめ・しおらしさ」
「もっかい蹴ろうか?次は肋骨狙ってあげる」
「そうそう、調子戻ってきたな」

 ゆっくり助け起こした体は、細かった。こんなに弱そうなカラダだったっけ。ぼんやり、思う。
 ああ、そうか。この子、綱吉クンのとこから逃げ出すつもりなのか。

「……レイチャン、やめときなよ。綱吉クンは優良物件だから」
「ハ?」
 レイが目を丸くする。
「少なくとも、僕ほどエキセントリックじゃないでしょ」
「お前はエキセントリックどころかアグレッシブだよ。考えを改めろ、綱吉に失礼だわ」
「意気揚々と人をコケにしてくるなぁ」
「そりゃ、お前に教わったからな」
「ん?」
「会話術からナイフの扱い方、日本文化まで」

 額から垂れる血を、無造作にぬぐう。そんな仕草までスマートだ。
 マナーは体に染み込めば癖付く。けれど、彼はそうではない。流れ星が勝手に弧を描くように、動作が素で小綺麗なのだ。

「全部、お前に教わったから」

 そして、こういうことをサラッと言う。

▽▲

『気まぐれだよ。ぜーんぶ、気まぐれ。銃が下手だからナイフ持たせたのも、ハイクっていう文化を教え込んだのも』

 嘘だ。全部、意識した上で教え込んだのだから。
 古典的すぎるナイフ。役立たない異国の文化。他者交流に害成す、毒を含んだ会話術。

『君は未だに、永遠に変わらない愛情を待ってるんだね』

 信者は、全てを見透かす神に逆らわない。あの感覚を真似た。彼を支配しようとした。
 君のことは、全部わかってるよ。見切ったとばかりの言葉を与えては、傷付ける。その繰り返し。

『……あなたに依存した覚えはないんだけれど』
『当たり前でしょ。そうしたかったのに、その前に消えたのはそっち』

 あいしてる、も、だいじょうぶだよ、も二の次だった。
 傷が絶えなければいい。その痛みが当たり前になれば。
 次は、傷が無いことに違和感を覚え始めるだろう。

『だから、僕に依存すればよかったのに』
『……お前に依存とか、先が見えない』
『だから、いいんじゃん。他の何にも、君の目には映らなくなる』

 依存性。見えない麻薬のように、その精神を奪う。信頼も好意も関心も興味も、ただ一人へ。
 それが自分のやり口であって、それこそが彼を救うと思っていた。
 
『ひとりじゃ生きられないくせに他人嫌いな、臆病者の甘えたチャン』

 そういう恋で、そういう愛だった。

▽▲

「好きだった。……5年前の君を、愛してたよ」

 終わりにしよう。そう思った。
 部屋中の写真を剥がす時だ。今、この瞬間に。

「白蘭……」

 奇妙な表情だった。幼い頃、蒸発した母親が、目の前に降って現れたような。
 レイの目が自分を見上げている。期待と怯えと、それらが薄れてとっくに遠のいた色だ。
 だらりと垂れた腕に、手を伸ばす。

『なんで流れ星に願い事するの。ノアチャンも神様なんて信じてないくせに』
『信じてないから願うんだよ。叶わないってことを、自分に言い聞かせるために』

 満点の星空の下で、いつかの彼がきれいに笑った。

▽▲

 時の経過は傷を癒すのだ。昔、互いを切り付けあうように傷つけたことも、ずっと遠くなっていく。
 許し合えるのだ、人は。復讐心を保つのに苦労するように、負の感情を持続させるにはエネルギーがいる。だから。

「……好きだったよ。レイチャン」

 過去にできる。
 虐待の記憶が足に絡まるように、無かったことにはできなくても。

「うん。……俺も」

 だって僕たちは、兄と弟だったんだから。
 レイが口元をゆがめて微笑んだ。喉を絞められたように苦しげに。

「ありがとう、……白蘭」

 するり。触れ合っていた指先が、魔法が解けるみたく離れていく。
 これで、最後だろう。そうわかった。彼は、見切りを付けた関係性へ二度と寄り付かない。
 5年前、白蘭の元へ来る以前のことを、一言も語らなかったように。

「さよなら」

 そう呟いたのは、どっちだったのだろう。火を点けた写真に、弔いの言葉を投げるような。
 それが、彼との最後の会話だった。

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