書庫のドアは開いていた。クロームは何の疑問も持たず、するりと中へ入る。
「わ、……」
暗い。夜の森へ吸い込まれたかのごとく。
窓には、カーテンが引かれている。その生地を透かして、白い稲光が落ちていった。
流れ星みたい。そう思いながら、手探りで壁のスイッチを探す。
「あれ、……つかな、」
「クローム?」
ひゅっ。喉が細く鳴る。
同時に、頬に手が触れた。冷たい。人形みたいな他人の手。
「きゃっ」
「あ、ごめ」
慌てた声。指先が離れた。
ひんやりとした温度だけが残る。触れ合った感触の名残だ。
この声。ぼんやり、思い当たる。
「……レイ?」
「ああ、うん」
驚かせてごめん。相変わらず、王子みたいに落ち着いた声音だった。
そっか。今更のように、納得する。カギが開いていたのは、レイがいたから。
「レイ、……どうして、電気点けないの?」
「いや、点かなくて」
苦笑混じりの声。首をひねって、声のする方へピントを合わせた。
闇に目が慣れてきた。なんとなく、レイの輪郭が見えてくる。
「この雷雨のせいかな。ブレーカーが落ちたのかも」
「でも、廊下の電気は点いてた」
「え、マジで?」
ピカリ。稲光に、綺麗な顎のラインが浮かび上がる。
「じゃあ、この部屋の電気だけおかしいのかな」
「電球が、……切れちゃった?」
「書庫の電球まるごと、全部?」
くすぐるような言い方だ。
これは、冗談。楽しんで言っている。
「クロームって、相変わらず面白いな」
これは、ほんと。
暗闇って不思議だ。顔は見えないのに、声だけで感情がわかる気がする。
「……からかって、る?」
「え?いや、そんなつもりは無かったんだけど。ごめん」
言葉、間違えたかな。
静かな声が、書庫に浸み込むみたいに響く。
「クロームって、相変わらず可愛いな」
……これも、ほんと。
そう気付いて、固まった。じわり、肌が熱くなる。
おかしい。雨粒が窓を手荒に叩くこの部屋は、寒いくらいなのに。
「……レイ、」
「ん?暗くて怖い?」
「あんまり、……どきどき、させないで」
小石が部屋中に投げつけられているみたいな騒々しさだった。
しいん、とした書庫の中で、鼓膜を打つ。激しい音が。
それは、自分を抱きしめたレイの胸から聞こえていた。はっきりと。
「……やめて、クローム」
かすれた声。耳の上をなぞるようなそれに、びくっとした。
熱い。レイの息も、体を抱きしめる両腕も。
「レイ……?」
「俺いま、……あんまり、余裕ないから」
稲光。また。
白い光の中、鼻先に迫った目は奇妙にゆがんだ。
唇が触れそうな距離間。驚いたけれど、嫌だとは思わなかった。
体を抱く腕も、名を呼ぶ声も。全部、熱に浮かされたように震えていたから。
「……レイ」
腕を回す。この人は、自分よりずっと背が高い。他のボンゴレの人と同じで。だから、レイは膝をついているのだろう。
こちらを抱きしめるその頭へ、そっと手を乗せた。
「前にも、言ったけど、……寂しいなら、手を繋いであげる」
「はは、……じゃあ、お願いしようかな」
まるで、偶像にすがるような姿だ。もちろん、自分は偶像なんかじゃないけれど。
どちらかというと、偶像みたいなのは。
「お願いついでに、もうひとつ。教えて欲しいんだ」
「……私に、わかることなら」
レイが、顔を上げる。
束の間の白い光に照らされて、それはいっそう、感情が削げ落ちて見えた。
「手を繋がなくても、寂しくならないようにするには?」
ドンッ。足元が揺れるほど、大きな音がした。
反射で身をすくめる。近くに雷が落ちたのだろうか。
「……ひとりに、なる?」
「え?」
大きな目。そうすると、ちょっとだけ人形っぽさが崩れる。
まるで、一人の男の人みたいに。
「私は、骸様に会うまで、……さびしいのも、よくわからなかったから」
事故に遭うまで。夢の中、あのオッドアイに会えるまで。
心はいつも静かだった。あらゆる感情から自身を閉ざすように。
「……そっか」
「でも、もう無理だと思う」
「なんで?」
「だって、……皆に、会えたから」
会った記憶を失くすことはできない。居場所の温かさを、今更消すことも。
氷が溶けても水が残るように、気持ちはずっと覚えている。
「……クローム」
「なに?」
「ほんと、お前って可愛いな」
「っ……?」
あわあわ。焦って、暗い書庫のあちこちに視線を飛ばす。
それから、気が付いた。自分の肩、ちょうどレイの頭がうずまったあたり。
熱い。まるで、濡れたように。
「……俺は、いつまでこうなんだろう」
ひっそりとした呟きだった。雷雨に紛れ込むみたく。
きっと、答えは欲してないだろう。だから、黙っていた。
「出来る事なら、誰とも繋がらずに生きたかった」
「それは、……きっと、すごくさみしい」
頭に置いた手を、控えめに動かす。傷付いた猫をいたわるように。
「そうかな。誰かと繋がる事を知らなければ、その寂しさを知る事も無い」
淡々とした声。冷えているけれど、こちらを追い詰めたいわけではないとわかって、クロームは頭を撫で続けた。
だって、レイの声はくぐもっているから。
「寂しさを知らない人間なんて、……いないよ」
「クローム、お前のすぐ近くに六道骸というヤツがいまして」
「だって、そんなの、人形みたい」
ドッ。壁がうなるように揺れた。落雷。
暗い中で、顔を上げたレイと目が合った。こちらの言葉の奥の奥まで探るような、虚無の目。
まるで人形だ。綺麗で、美しくて、皆が一目で目を奪われる。
「それは、……いやだな」
ぐにゃり。泣き笑いに近い顔。
人形が崩れ、形を変える。レイという、整然とした見目の混沌とした青年に。
「大丈夫、だよ」
「ん?」
「……もうすぐ、雷も止むから」
抱きしめる。頭を抱え込むように、強く。
雷は止む。雨も止む。そしたら、電気も点くだろう。
それと同じだ。きっと、この人が抱えている闇も、いつかは晴れる。
「変なの、……変なクローム」
耳元で囁く声。それは確かに、笑っているように聞こえた。
目を閉じる。二人きりで、真っ暗な書庫の中。互いを包む温度。
それはまるで、闇がやさしく抱きしめてくれているようにも思えた。母胎に子をかくまうみたく、じんわりと。
だから、クロームは見落とした。
レイの後ろ、散らばったいくつもの資料と、切り抜かれた新聞紙の破片を。