42,信義

「何をぐずぐず泣いてるんですか」
「泣いてねぇよ死ねや」
「君、いよいよ僕に対して遠慮も配慮もなくなりましたね」

 呆れたものだ。顔をゴシゴシ拭う相手を一瞥して、窓枠に腰掛ける。
 真っ赤な顔。おおよそ、安全圏にあった人間に牙をむかれて動揺したとか、そんなところだろう。大馬鹿だ。

「書庫に逃げ込めば、雲雀恭弥がいると思ってたんでしょう?当てが外れて残念でしたね」

 風が吹き込む窓際は、心地が良い。
 遠くの書棚に焦点を合わせながら、適当に煽った。

「いや。お前がいる気がしてた」

 顔を向ける。こちらに近付く声の方へ。
 まっすぐ自分を見据える目。何の色も無い表情だ。彫像にも似ている。

「……さっきまで涙目だったくせに」
「は?」
「そういうところ、君は空恐ろしいですよ」

 動揺や驚きが薄い。というより、他者に向けられる好意に対して執着がない。
 治らない部分だろう。ヒビが入った皿のように、レイには修復できない箇所がある。

「僕に似ているんですよね。そういうところ」

 首を回す。薄めたような水色の空が、視界いっぱいに広がっていた。
 妙な解放感を覚える。カゴから飛び立つ鳥は、こんな気分になるのだろうか。

「散々、似てないとかほざいてたクセに」
「さぁ。案外、同じ血が流れてるかもしれませんよ」

 不意に、気配が密着する。すぐ隣にレイが立っていた。

「骸と兄弟?」端整な顔がゆがんでいる。
「生首とタップダンス?みたいな発音でしたよ、今」
「もっと嫌だわ。勘弁して欲しい」
「さすがの僕も傷付きました」

 窓枠に頬杖をつき、レイは遠くを見つめている。
 ここではない、遥か遠くの世界を遠望しているようだった。

 不思議な気持ちだ。
 剣呑な雰囲気も物騒な会話も無い。この青年と、ただ穏やかに空を眺めているだけの時間。
 パラレルワールドにでも飛び込んだようだ。

「……奇妙なものです」
「は、お前の顔が?」
「君が、誰のものになろうとどうでもいい。僕は」

 颯爽と煽る唇を、人差し指と親指でひん曲げる。
 全く、可愛げの欠片もない口め。


「でも、最期には僕の元へ来てほしいと思うんですよ」


 ふわり。カーテンが、レイを包むようにひるがえった。
 書庫から、二人だけ切り取るみたいに。

「……よくわからん」
 レイが、雑ながらキッパリ言い放つ。笑った。
「だから奇妙だと言ったんです」
「それって愛?俺のことが好きってこと?」
「別に、お望みならキスできますし抱きますよ」
「いや望んでないし。真顔で言われても怖いし」

 くだらない会話だ。学生の雑談くらい、薄っぺらで意味が無い。
 それでも、ずっとこんな時間を過ごしたかった気がした。そういう、ただ胸に降り積もるような他愛ない会話を。彼と。

「……ああ、そうだ。君に、あのへんの本おススメですよ」
「あのへんってどこだよ。指さされただけでわかるか?普通」」
「分類番号、164番。神話学」
「……ほお」

 眉を上げたレイの後ろ、ずっと奥。
 そこを指さして、暗誦するように告げた。

「そこに、細かすぎるくらいに詳しいギリシャ・ローマ神話の本があります」
「へえ」
「厚さ10センチを超えますね」
「何、それでお前を殴れってこと?」

 無言で頬をつねる。同じく、無言で腿を殴られた。

「ディウス・フィディウス。ローマの古い神ですよ。主神ゼウスと混合されたようですが」

 明るい色の空だ。まるで、フィクションのような。
 だからかもしれない。ただの、何でもない学生が放課後に喋っているみたいな気持ちになるのは。そんなありえない現象にさえ、今なら浸れる気がする。

「司るのは、信義と真実、誓言」
「……。」
「ちょっと君に似てません?」

 下を見る。眉根を寄せたレイは、難しい言葉を思い出そうとしているみたいな顔だ。

「……どのあたりが?」
「まあ、本を読めばわかりますよ」
「絶対わかんないと思うわ、俺。誓っていい」

 笑う。皺の寄った眉間をつつけば、後ろ髪を引っ張られた。
 奇妙な気持ちだ。この青年の心臓に三叉槍を突き立てる日は、いつか来るのだろうか。

「君は好みですよ。本当に」
「ありがと、俺は全然好みじゃないけど」
「来世は兄弟とかどうです?」
「どういう誘い文句だよ。生まれた瞬間に心中図るわ」
「物騒な」
「お前とは他人ぐらいでちょうどいいよ」

 さらり。骸の髪をいたずらに弄んで、人の信義を追い求める男が笑う。


「程よく遠い存在なら、最期に縋りにいけるから」

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