「いや〜、お前が目覚めて良かった! もうちょっと早いとなお良かったんだけどな!」
「そりゃどーも」
「とりあえずお前の家まで運んできたんだけど、気ぃ失う前のこと覚えてるか?」
「ああ。お前の援護が遅くて液体飲まされたところまで、もうバッチリ」
「うわッ」
短い声を発し、ディーノが見事に固まった。
雲雀は膝に肘をついた。その上に顎をのせ、交互に見やる。濡れた髪でニコニコし合う、非常に胡散くさい男2人を。
「最初の提示額にプラス2割、上乗せすっからチャラ。……で、どうだ?」
おそるおそる、といった表情で、ディーノが上目に葵を見る。
葵の背が高いわけではない。ディーノが床に正座しており、対する葵はソファの上で足を組んでいる、というだけの話だ。お座りを命じられた犬みたく、ディーノの腰は低い。
「え、ムリ」
葵は良い笑顔で、ディーノの提案を却下した。この間、0.1秒。
「わかったって悪かった! プラス3割!」
「ムリ」
「4割!」
意外とけちだな、この人。雲雀は困り顔のディーノを見つつ、そう結論付けた。
左手首はまだ握られたままだ。目覚めてから、なぜか葵はずっと放そうとしない。
「ムリ。そもそも、欲しいのは金だなんて言ってない」
「は? じゃあ何なら良いんだよ」
ニコリ。音が聞こえそうなほど、綺麗な微笑み。
その顔を見、ディーノの唇が引き攣った。
「ディーノがキャッバローネ全員の前で腹踊りしてる動画」
「悪かった! オレが全面的に悪かったです!」
今、語尾にハートマーク付けたな、この人。雲雀は客観的に判断した。土下座のごとく床に崩れ落ちるディーノを横目に、葵が女王然と顎を上げる。
彼はけしてSっけがあるわけではない。これはディーノ相手だから見せる、意地悪な一面だ。
長い付き合いだからこそできる、馬鹿げたやり取り。
「……もう許してあげれば。葵」
それが面白くない、とは言えなかった。
口を開いた。隣に座る男が、とんでもない早さで振り返る。
「えっ、雲雀、今……なんて?」
「許してあげれば、って言った」
「えっ」
葵が絶句した。なんでだ。
「常に目には目を、歯には歯を、の雲雀が、こんなに慈悲深い……?」
しまいにはブツブツ呟きだす始末だ。失礼極まりない。
ため息をつき、雲雀は握られた左手首を見下ろした。きゃしゃだけれど、長めの指先。大人の指だ。
それが、いつもよりほんの少し、熱い。
「恭弥ッ!」
がばり。顔を上げたディーノが、きらきらと目を輝かせている。
「さすがオレの愛弟子……!」
「気持ち悪い」
「ストレートだな、おい!」
冗談抜きで鳥肌が立つ。
「僕は、濡れた大型犬が床に這いつくばっているのを見るのにウンザリしただけ」
「え、何? 情報量が多すぎんだけど?!」
哀れな大型犬は困惑している。左手、触れる指先が震え出したのを感じて、雲雀はもうひとつため息をついた。
「早く帰って。ここまで運んできてくれた事は感謝してる」
「お、おお。……え? 感謝?」
「動画は後日受け取るから。じゃあね」
「えっ、動画? 待て恭弥、何のはな、うおっ?!」
うるさい人だ。ヒバードに頭をつつかれ、ハリネズミに足元をすくわれ、玄関ホールへ運ばれていく金髪を目だけで追う。
部下がいなければマトモに歩けない人だ。自分が直接手を下さずとも、家の外へ追い出されるだろう。外は土砂降りだが、そこまで気にかける余裕は無い。
「……雲雀」
ぐいっ。左手を大きく引っ張られる。
横を見た。まだ拭けていない黒髪の隙間から、同じように濡れた目がのぞく。
そう、余裕は無い。
「馬鹿だね」
その言葉が合図だったように、勢いよく引っ張られた。
ドサッ。肘を突っ張る。ソファの柔らかい生地のせいで、葵に体重をかけないよう気を配る事が難しい。ふんばった右手が葵の耳を潰しそうになって、息を詰めた。
「ちょっと、危ないんだけど」
見下ろす。仰向けになった体に雲雀を乗っける格好に持ち込んだ男は、ピクリともしない。
引っ張られた左手を、拒む事はしなかった。うながされるままに体勢を崩したのは雲雀だし、思ったほど衝撃が弱かったのは、葵が力加減を考えたためだろう。
この期に及んで。まだ、こちらの体の配慮をするのか。
「途中から、口数が減ったね。……耐えてたんだろうけど」
葵は口を開かない。濡れて固まった前髪が、その目を完璧に隠し切っている。
「……大丈夫かい」
言ってから、大丈夫じゃないだろうなと思った。
左手首を掴む手は、まだ震えている。手だけじゃない。全身が。
多分、雨に打たれたからじゃない。体温がやや高めなのも、きっと。
「ひばり」
名前を呼ぶ声が、奇妙に掠れていた。
目元を隠す前髪を、右手でどける。泣きそうな両目が、こちらを見上げていた。
「……なに」
何か、もっと言うべき言葉があるはずだった。ただ、何も浮かんでこないだけで。
喉が塞いだまま、葵を見つめる。衰弱した小動物が、自分の足元にすり寄るのを見下ろしている心地がした。
たまに、こういう気分になる。葵といると。
事切れる寸前の動物が、最期のひと刺しを願って自分を見上げているような。そういう。
「なに、してほしいの」
不意に、そう言っていた。口から言葉がこぼれ落ちるように。
葵の目が、少しだけ見開かれる。それから、ぐしゃっと顔がゆがんだ。
「……ひばり、」
微か、手首が引っ張られる。痕もつかない力加減で。
ぐっと息を詰める。ちゃんと聞かないと。なぜか、そう思った。
「……ぎゅって、して」
「え」
「ちゃんと、ぎゅっ、って……」
いつの間にか、左手首は放されていた。
まばたきをする。自分の下、目を細めた葵が口元をゆがめた。
「……嫌だ?」
「え、いや、」
面と向かって訊かれると困惑する。
こちらの動揺を見透かしたように、葵が口を動かした。
「でも、ごめん。嫌だって言っても、今日は、折れてやれない……」
「は」
「囮、慣れてるし、薬も初めてじゃないし、この感覚には慣れてる、きっとすぐ収まる、……」
声が、どんどん掠れていく。まるで、聞かれたくないみたいに。
雲雀は、そっと姿勢を倒した。その唇に耳を寄せて、そして。
「だけど、俺は……」
消えそぼる語尾を聞いた。
聞いて、言葉が脳に届く、届いた瞬間。今日1番の、大きく、そして深いため息が出る。
「……本当、馬鹿だね」
自分よりひと回り大きい頭に、両腕を回す。そのまま、胸に葵の顔を押し付けてやった。
「ぶふッ」
「もう、こういう仕事は引き受けないで」
自然と早口になる。呼吸がとか鼻が潰れるだとか何とか聞こえたが、全部無視した。
こっちは胃がやられるような思いをしたのだ。鼻ぐらい潰れてしまえばいい。
「……ぷはっ、てめ、ひば、くるしいだろ、が」
胸元、抜け出した葵が目を三角にしている。
ああ、ちょっと元気になったな。そうわかって、やっと肩の力が抜けた。
「あなたがどんな仕事をしようと僕には関係ないけれど、」
体を倒す。腹と腹に隙間ができないほどぴったり距離を縮めれば、この胃の震えも伝わる気がした。
さっき葵が呟いた、かすかな語尾。
……だけど、俺は、雲雀だけがいい。
馬鹿め。それが、自分だけだと思っているのか。
「僕も、あなただけがいい」
呟いた言葉の重みが、そのまま伝わればいいと思った。
この、我慢しがちで馬鹿で下手に器用な、強くて弱いひとの心に。