6,In a desperate situation


 それは、突然やってきた。
 宙から少年が降ってきたように、唐突に。


「……は?」

 呆然と、見上げる。何が起きているかわからないまま。
 混乱と混沌。フォークでかき混ぜられたような脳内を、努めてクリアにしようと試みる。それでも、ヴィーはバクバク鳴る心臓を抱えたまま、凍ったように立ちすくんでいた。
 場所は――廊下。とっかかり一つない、滑らかな石細工の白い床。すぐ左には並ぶ窓枠。間違いない、いつか、自分が雲雀の元へ飛び降りた窓枠だ。
 時刻は――わからない。多分、正午。綱吉達が連れ立って出かけていったのが早朝だったから、おそらくそのくらいだろう。実際、昼時の鈍い日差しが直に降り注いでいる。自分の顔へ。

 そう、直に。

「……ァ?」

 "目の前の何か"から、そう聞こえた。声も出ず座り込んでいる自分の代わりに、声を発したかのように。
 ドクン。心臓が、弾けるように痛く鳴った。……違う。
 発した"かのように"、なんかじゃない。

 「声を発した」んだ。

 ヴィーは尻餅をついた格好のまま、茫然と目だけで光景を追った。自分の目の前を塞ぐ、天井に頭がつくんじゃないかと思うような『人間』を。

 毛虫をくっつけたみたいな眉と団子じみた鼻。黒い、袖の部分が裂けた……いや、黒のタンクトップ。やはり膝下のないズボン。飛び出た両足は、絵に描いたように筋骨隆々だった。浅黒い肌がてらてら光っている。衣を付けて唐揚げにされた最中のような脂っぽさ。
 恐竜が急激な進化で人間になったみたいな。そういう感想が、一瞬でヴィーの頭をよぎった。

 おそらく、そこまでは放心状態で、頭がちゃんと理解していなかった。今、自分がどういう状況で、いったい何が起きたのか――この平穏なボンゴレアジトに、ティラノサウルスのような大男が突如、現れた意味を。

「……グぁ……あ……?」

 グルンッ。コマを回すような勢いで、男が首を回した。頭の周りを飛ぶ蚊を追っ払うような仕草で。割れたガラス片が突き刺さった頭を。
 ぱらぱらと、透明な破片が降る。へたりこんだ爪先の数センチ先に、サクッと手のひら大の破片が刺さった。包丁が肉に突き刺さるように、深く。あっさりと。
 その瞬間、我に返った。

「……う、わ」
「グぅ、ぐぐ、ううァ……」

 ぐらぐら揺れる足で立ち上がって、夢遊病者のようにふらつきつつ後ずさる。大男は犬のようにスンスンと鼻を鳴らし、昆虫を思わせる目を細めた。一連の動作を見上げ、ゾッとする。

 天井とほぼ同じ高さに、相手の顔があった。

 両親が身長高いから遺伝でとか、成長期が盛んでとか、そういうレベルじゃない。綱吉2個分近く、上に長い。ついでに横も。
 人間じゃ、ない。

「……お、まえ……」

 大男の真横、数分前にこの化け物が飛び込んできた窓ガラスは、手榴弾を投げられたみたくグシャグシャに割れていた。多分、自分は運が良かった。巻き込まれていたら確実に死んでいる。
 この廊下は唯一、ボンゴレアジトで地上に面している箇所だ。だから、人工じゃない自然の日光が降り注ぐ。だが、骸の幻術で巧みに隠されているはずだ。ボンゴレアジトが、そうそうあっけなく目に触れるような造りをしているはずがない。一般人にも、敵にも。
 だから、今がイレギュラーなのだ。化け物かと見紛うような大男が廊下の窓を突き破り、獲物を探すように首をめぐらしている、この状況自体が。

「……どこのマフィアの、差し金だ?」

 ぴたっ。
 問いかけが合図だったかのように、井戸の底のような黒い瞳が自分をとらえた。




「……嘘、だろッ!!」
 叫んだのはヤケクソだ。目についた扉に体当たりして、転がるように中へ飛び込む。
 親の仇かと言わんばかりに扉へ背中を叩き付け、ハンドガンの弾倉を取り換える。背中を付けた扉越しに、廊下を歩く足音が聞こえた。地響きみたいな音がする。足音って本当にずしんずしん言うんだな、と至極どうでもいい考えが脳裏を掠めた。パニックだ。完璧に、脳が混乱している。

「ッんで、弾効かないわけ?!」

 ガチャン、と空の弾倉が絨毯に転がった。荒い呼吸を整えつつ、落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。
 21発、全弾撃った。廊下の曲がり角に身を隠し、隙を突いて急所を狙った。オールとは言わないが、8割急所を当てたはずだ。
 この至近距離で、鉛玉5発以上。普通の人間ならサヨナラだ。実際、ヴィーはこの目で見てきた。まだ数少ないとはいえ、綱吉や骸と同行した任務先で。
 それが、

「よろめいた程度、とか……」

 ざっと部屋を確認しつつ、うめく。何も考えず飛び込んだ先は応接室だった。黒いソファもローテーブルも無視して、隣室に繋がる扉だけ目に焼き付ける。あそこまで、この入り口から四捨五入で10メートル。
 できることなら、綱吉に連絡を入れたかった。おそらく、侵入された時点で警備システムが自動的に連絡しているだろうが、彼らが戻る前にアジトが崩壊しそうだ。物理的に。
 どこの裏組織か知らないが、大雑把すぎる。脳筋とか怪力専門とかじゃなくて、もはやバケモノ同然の刺客を送り込んできた、その意図が皆目見当つかない。本当にアジトを壊滅させるのが目的なのか、それとも、あの大男に扉を殴って破る以外の能力があるのか。
 わからない。わかっているのは、

「……このままだと、俺が死ぬ」

 呟いた瞬間、足音がピタッとやんだ。大きく息を吸い、一気に扉へ向かって走り出す。
 ほぼ同時に、大木が根こそぎ引っこ抜かれるような轟音。真後ろ、さっきまで自分がいた地点で。
 蝶番付きの重厚な扉がひっぺ剥がされる音を胃が痛む思いで聞きながら、ヴィーは必死で隣室に通じるドアへたどり着いた。ドアノブを引っ掴み、何の躊躇もなく開ける。少しだけ、気が緩んだ。地獄で地上から垂れ下がる蜘蛛の糸を見つけたように、僅かに。

 開いた、と一歩踏み出した瞬間、風にかっさらわれたかのように全身が浮いた。

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