・10年後
血にまみれた六道骸が大嫌いだった。
返り血を馬鹿みたく浴びた彼は、自分のことを殺すような勢いで激しく抱くから。
「……っと待て、なんでそんな血で濡れてんだよおまえ、」
「目の前で最後の標的が自爆したんです。霧の炎で強制移動させようとしたが間に合わなかった」
「うえ、こっちはハンバーグ食った直後なんだぞ、そんなエグい話聞かせんな」
「大丈夫です、笹川了平が治療していました。何の心配もいらない」
「いや俺が心配してんのは自爆したヤツじゃなくて俺の心配で、うわッ」
ぐっと押し倒され、足がもつれる。
反射でとっさに目をつぶった。背中から襟首を引っ張られるような感覚に続けて、後頭部からふわっと柔らかいシーツに包まれる。人に押し倒される瞬間は、何度経験しても慣れない。
「おいこのバカ、満員電車だってもうちょい平和だぞ。無理やり押してくんな」
ぎっ。ベッドが嫌な音を立て、のしかかる骸を歓迎する。返答はない。
照明の点いていない部屋は、灰色の絵の具で沈めたように薄暗かった。くくられた長髪の先が、猫の尾みたくしなだれ落ちる。天井を見上げる自分の頬、そのすぐ横に。
その毛先からすら、血の匂いがした。
「……君、満員電車なんて乗ったことあるんですか」
「俺を何だと思ってやがる。お望みなら満員電車を乗っ取って世界一周の旅をしてやるよ」
「無いですね」
人のジョークを摘み取って放り捨てるような口調。
空気を読むとか文脈から察するとか、同調精神の欠片も無い男だ。やれと言われたらいくらでもその他大勢の輪になじめるくせに、自分に対してはその気遣いが全く発揮されない。
「無駄口はいいや。とりあえず、今すぐ俺の上からどいてシャワー浴びてきて」
「無駄口叩き始めたのは君でしょう」
葵はたまに、俺は人形だったっけ、と思案することすらある。
全く配慮されないということは、その分心を許されていると言えば聞こえがいい。が、一方で人権を軽んじられているのと紙一重だ。
そして、血をまとった六道骸は、人権どころか自我さえ踏み潰すように自分を抱く。
「なに、お前って案外、物事のスタートにこだわるタイプ?」
「タイプ、ですか」
「確かにアダムは食った果実をイヴのせいにして、イヴは唆した蛇のせいだと罪をなすりつけたけど、実際は食べた全員が共犯だ」
「そうですね。そして君は、」
こちらの目を見るように、骸が顔をのぞきこんでくる。血の匂いが近付いた。
くっと息を詰める。鼻を通ってあばらを揺さぶるような鉄臭さ。何度嗅いでも不快に感じるのは、きっと人間の本能に芯から刻まれているからだろう。
この匂いを嗅ぎ過ぎたら、つまり出血しすぎたら、人は死ぬ、と。
「怯えると、驚くほど口数が増えるタイプだ」
とっさに身を起こした。逃げろと本能が告げると同時に、逃がしてくれる余地はないと痛いほどにわかっていた。
手首を掴まれる。今から潰す空き缶を握るような力で。
「っ、離せ!」
それでも、見えている恐怖を胸張って受け入れられるほど、自分はできた人間じゃない。
「嫌です」
そして、こいつは人の意思を尊重するようなできたタイプじゃない。
手首をするりと何かが這う。蛇のように冷たく薄い何か。無から有を生み出す霧の幻術だ。
なんとか身をよじってベッドに膝をついたところで、両手を見えない拘束具で戒められては意味が無い。
「大人しくしてくれませんか」
鼓膜に絡み付くような囁きに、必死で首を横に振る。
背後から覆い被さる血と質量。死んだ人間の残り香と、生きている人間の重みだ。背骨にくっつくような骸の肋骨の感触。
嫌だ。心の底からそう思う。死と生とが入り乱れる瞬間。心臓をねじりとるみたいな不安に近い不快感と、急速に高みへ押し上げられる快楽。
五感がぐちゃぐちゃに壊されて混ぜられるような感覚は、いつも自分を自分で失くしてしまう。
「……やだ、」
いやだ。声にならない声で動かした唇が、錆びた香りの手袋でぐっと押さえ込まれる。
視界いっぱいを占めたのは、大きな窓ガラスだった。この薄暗く重苦しい部屋の中で、唯一の発光源。ガラスを粉々にすり潰して撒いたような点々と光る照明と、遠くで煌めく街灯の群れ。
神が計画して作ったわけでもあるまい。なのに、夜の街並みはなぜこうも整然と美しく見えるのだろう。
「きれい」
そう呟いたのは、自分ではなかった気がした。
「六道、沢田が呼んで、……チッ」
ノックも無しにドアを開けた男が、人相悪く舌打ちをかましてくる。ため息をつき、とりあえずドアを閉めろと手で示した。
「状況判断でいったら、間違いなく僕が勝ちますね」
「何の話?」
「君の行儀が悪いという話です、雲雀恭弥」
「ああそう」
大股で部屋をつっきり、雲雀が窓を開け放った。
死んだように光のない静かな街並みと、僅かにぽつぽつ光る街路灯。夜明け前の高層階から見える景色としては上等だろう。
「僕の作法はともかく、この部屋の空気は最悪だね。空気清浄機じゃない僕にだってわかる」
「君が空気清浄機なら、僕はさしずめエアクリーナーでしょうか」
黙れという視線が飛んできた。無視して床に落ちていた上着を肩にひっかける。気温は冬の余韻を含んで、まだまだ肌寒い。
「なんで大事にできないの?」
ド直球。それも時速150kmの剛速球で。
顔を上げる。窓のすぐ側、ベッドの枕もとに座る雲雀の目は冷めていた。そのくせ、シーツにくるまった葵の頭を撫でる手付きは、ぎょっとするほど柔らかい。
「……君って、そんなに優しく人間に触れたんですね」
「僕は力加減を忘れたロボットとかじゃないけど」
「それは嘘」
標的の骨を容赦なく折りまくる人間の台詞ではない。
「たまには人間らしいところも見せておかないとね」
「君が言うと笑えない」
「別に僕は君を笑わせたいわけじゃない、」
毒にも薬にもならない会話だ。会話かどうかも怪しいが。
「ただ、君に訊ねたいだけだよ。六道骸」
視線が合う。交わるというよりも、互いを突き刺すように。
雲雀の瞳は、やはり凪いでいた。批難も弾劾の意もない。まるで初めて雲の色を聞くように、彼は唇を動かした。
「葵のことが大切なんだろう?」
「……まあ。でなきゃ恋人という肩書きを付けたりしないので」
「じゃあ、ここまで抱き潰すのはやめた方がいい」
「だ、」
あまりに直接的すぎる。雨だから洗濯物を干すのはやめた方がいい、みたいなあっけらかんとした言い草に、さすがにたじろぐ。
「……君こそ、他人の性性癖に首突っ込むのはやめてくれませんか。僕と葵がそういう趣味かもしれないでしょう」
「こんなに泣かせといて?」
笑う男の口元が、馬鹿な事を言うなと言外に匂わせる。猫が捕まえた獲物をいたぶるような笑い方をしつつ、その指先が葵の目の下を撫でた。
ホコリを拭うような仕草。情愛や憐憫を抱いていない人間の手付きだ。確かに、人間味は薄い。
「別に葵に同情はしないし君を愚かだとも思わないけれど、ただ単純に不可思議だ」
「……何が」
「壊すように扱う君のやり口が」
息を吐いた。未だ部屋にわだかまる、血と情事の匂いが今さら鼻につく。
「……夜景に」
「うん?」
「夜景に火をつける」
「は?」
「海に血を流し込む」
「……。」
「1ミリの狂いなく立てられたドミノを崩す、あの瞬間の快感を人は誰しも知っているでしょう」
「だから?」
「つまり、そういうことです」
皺の刻まれたシーツを、日の光が細く照らしている。日の出の時刻だ。
日光は何の躊躇いもなく全てを明るみにする。涙の痕が残る葵の横顔も、手首に浮かぶ鬱血痕も、自分のどうしようもないほど混沌とした感情も。
「……よくわからない」
眉を寄せ、きっぱり言い放たれる。危うくベッドから滑り落ちるところだった。
「君のそういう潔さ、ノーと言える日本人の典型ですよね。好ましいですよ」
「君がさっき並べ立てたのは全て、戻らない美の例だ。だけど、」
するり。雲雀が、眠る葵の前髪をかき分ける。
「彼は、戻るでしょ。壊れ切ることはない」
「……だから不可解なんです」
いい加減、触りすぎだろう。雲雀の手から遠ざけるように、意識の無い体を抱き抱える。
「僕が嗅ぎ慣れた血の匂いを、この男はいつまでも厭う。何度無理を強いても、次の朝には憎まれ口を叩く。生と死の混線するこの世界に身を浸しながら、彼はいつまでも揺らがない」
「葵のそういうとこは好みだよ。僕に似ている」
「君はハナから裏世界に身を置いている人間でしょう。始めから日陰に咲く花が、枯れるはずがない」
「詩的だね」
鼻を鳴らすこの男には、情緒というものが間違いなく欠けている。
「だから、壊そうとしているのか」
「……わかりません」
ぐたり、肩にのっかる頭を支えながら、視線を窓へと逸らす。
「ただ、彼が壊れる瞬間が、僕の終わりでもある」
アダムとイヴが連帯責任であるように、この男と自分も一つの縄で繋がれている。
一蓮托生と言うほどおキレイではない、もっと深く沈んだ関係で。
「人間ぽいね」
立ち上がった雲雀は、まるで己がアダムを生み出した神だと言わんばかりの口調だった。
「飛び降りたら死ぬとわかっているのに、何度も柵に足をかけているような行為だ」
「愚かだと?」
「いや。楽になりたいってことでしょ?実に人間らしい」
それに、と横目で付け加えられる。
「その子は壊れないよ。どうせ」
ぱたり。ドアが閉まる向こうで、雲雀がひらり、手を振る。
どうせ、という言葉がこうも肯定的に聞こえたのは、初めてだった。
「……葵。目が覚めましたか」
「あ、むくろ、……」
「痛むところは、ッだ?!」
「はよ、すっげー清々しい目覚めだ」
「僕はぶん殴られて清々しいどころか忌々しさマックスなんですが?!」
「もう一発殴らせろ、そんでおあいこな」
「おあいこの意味を調べてきてください今すぐに」
「バーカ」
笑った彼のまなじりから、涙が落ちる。
眠っている間に溜まっていたのだろう。花の茎を雫がつたうように、感情と乖離した動きだった。
「次やったら半殺しにすっから」
「できるものならやってみてください」
「腹立つなぁ、俺に寝首かかれてから泣いても遅いんだぞ」
「君に僕の寝首をかけるとは思えないので」
「まあ、俺は骸のこと溺愛してるからねぇ」
思わず、息をひそめた。振り返る。
昇り切った太陽を背景に、彼は目を細めて微笑んでいた。世界で一番己が幸福だと、そう信じて疑わないような表情で。
「だけど、血まみれのお前は嫌いだから今度はやめてね」
「……善処します」
「ふふ、」
何度繰り返しても、夜闇の後には朝陽が昇る。
それと同じように、この男も何度壊そうとしても微笑むのだろう。
「次、善処できなかったら雲雀と寝るから」
「死に物狂いで善処します」
「よろしく頼むわ。俺、さすがに雲雀を抱く覚悟はないから」
「君が抱くつもりなんですか??あの暴れ馬を??」