ヤグルマの森の奥深くに佇む、みすぼらしい小屋。私はその小屋の主に復讐するためにあらゆる努力を重ねた。二度もイッシュを我が物にしようとあまりにも利己的な野望を振り翳したあの男に、私は大きな憎悪を抱いていた。行き得る限りの地方を巡り、バトルを挑み、時には教えを乞い、ポケモントレーナーとしての腕を上げた。あの影のような三人組にも太刀打ち出来るよう、一通りの体術も身に付けた。そしてこの場所を突き止めるのに一年もの歳月を費やした。けれど、そんなことはもうどうでも良かった。今はただ、この復讐を果たすことが出来ればそれで良い。
ノックをしようと扉の前に構えた拳をけれど下ろした。こんな鍵も掛かっていなさそうな寂れた復讐相手の家にノックをして入る輩がどこにいると言うんだ。蹴り飛ばして破壊したいような気持ちをどうにか抑え、勢い良く扉を開けた。堂々と家の中に入ると、遠くにロッキングチェアに腰掛ける人影を見つけた。気付かれてしまったのだから始末は早いに越したことはない。幸いあの三人も近くには見当たらないため、私はその人影の元に駆け寄った。
「こんな所に、珍しい。客ですか」
あまりに覇気の無い声音だった。けれど、確かにその声は私が憎むあの男のものに違いなかった。以前は整えられていた髪も所々色素が抜け落ち無造作に下ろされ、飾りのない白い質素なシャツを身に纏う彼からは、あの城で対峙した時の面影は一切感じられなかった。
「お茶を淹れて来ますから、そこに座って待っていなさい」
毒気を抜かれたように動かない私に対し、彼は私の傍の椅子を指差して立ち上がった。覚束無い足取りで歩く彼を見ていられなくて、私はもう良い、と声を掛けた。そうですか、と言って彼は椅子に戻り、私の目をじっと見据えた。自分でも何を言っているのか分からなかった。相手も自分を嫌っているだろうに、どうしてあんなに優しく目を細めるのか。私には理解できなかった。武器に手を触れることは出来ても、それを振り翳すことはどうにも出来そうに無かった。
「……私が、憎いのでしょう」
彼は目を逸らしてどこか遠くを見るような目をした。
「知り合いにある程度話は聞いています。けれど貴女には申し訳無いのですが、私はあまり以前のことを覚えていないのです」
「だからって、貴方が私達にした事の罪が許される訳じゃない!」
私は喚くしか無かった。こんなにも復讐したいと願ってきた相手なのに。この憎しみの矛先をどこに向ければ良いのか分からなかったのだ。だって、これではただの弱いものいじめに過ぎないじゃない。
「……ええ、そうですとも。私も貴女に向けられた、あの憎しみに満ちた眼差しだけは今でも覚えています。確か、丁度今の貴女のような目をしていましたよ」
「それが、それがどうしたっていうの。どうして貴方は私を憎まないのよ。分からない、分からないの、何もかも……」
涙が零れ落ちてくる。彼は椅子から離れて私に寄り添い、ゆっくりと背中を撫でた。こんなにも頼りない、細い手のくせに、温かい体温は服越しに伝わってくる。
「私が憎いのなら、私を殺しなさい。貴女はそのために来たのでしょう?私の命もきっと、どのみちそこまで長くは無いのです。なら、最後に誰かの願いを叶えられれば本望です」
「……嫌だ」
「それは何故ですか」
「貴方を殺してしまえば、貴方の願いが叶ったことになる。それでは復讐にならない」
嘘だ。仮にも私が彼をここで殺したとして、私の願いが叶ったとはきっと言えない。だって、私はもう彼を殺す気にはなれない。
「成程。これは失言でしたね。けれど、これでは貴女はあまりに報われないではありませんか」
口を開こうとしたその時、風が吹くような音と共に三人の闇のような影が私を取り囲んだ。
「ゲーチス様、この女は危険です」
一人の男は彼を守るように立って言った。一人は私の身体を取り押さえ、
もう一人は私の首筋に刃物を当てた。振り払おうとすると、その刃物は私に浅い傷を付けた。つぅ、と傷口から漏れ出る血が首筋を伝っていく。三人がかりで奇襲されては流石に何も出来やしない。
「抵抗するなら、命は無い」
「じゃあどうしろって言うのよ。どのみち無事に逃がしてはくれないんでしょう?」
「そうだな。この場所を他に知られては困る」
「やはり、ここで始末せねば」
いくら喚いても、暴れても、彼らはただ無情に私の無様なさまを見ているだけだった。疲れて、諦めるように抵抗を止めると、あの男と目が合った。ああ、そんな憐れむような目をしないで。
「ダーク、その者は良いのです」
「ですが、彼女は」
「私の命を狙っている。それは知っています。しかし、今の彼女は私に手を出すつもりは無いようです。本当に私を殺すつもりなら、もうとっくに私の命は無かったでしょう」
「では、彼女をどうなさるおつもりで?」
彼は暫し、沈黙した。命を狙って反撃されることは承知の上だった。なのにこの男は私を庇おうとするのだから、本当に理解できない。
「彼女は、ここに置いて下さい」
「……と、言いますと」
「彼女が居れば、私の記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれません。それに何より、私は喋り相手が欲しかったのです。老いてくると、何事も物寂しく感じてしまいますから」
記憶を取り戻せば、彼は私に命を奪われることを分かっている筈だ。だとすると、彼は私のためにこのような提案をしたということになる。でも、そんなことがあって良いのだろうか。
「分かりました。……おまえ、くれぐれもゲーチス様に手を出すなよ」
漸く解放されたが、手足が痺れて上手く立ち上がれない。すると、ゲーチスは私の元に近寄ってきた。
「手を貸しましょうか」
「ゲーチス様。漸く歩けるようになったとはいえ、まだお体の調子は万全ではありません。そこは私が」
三人の中の一人は、私を椅子まで連れて来てそこに座らせた。
「言っておくが、お前のためではない」
私を座らせた彼は念を押すように重い響きで言った。三人は私達の様子を注意深く見てから、ここを離れて何処かに行ってしまった。
「……さて。先程私はああ言いましたが、気に入らなければ貴女はここを離れても良いのですよ。あんなのはただの言い逃れのようなものに過ぎません。ですが、あれも私の本心です」
彼は私の目をじっと見据えて、私の答えを待っている。私は、どう答えるべきなんだろう?
「知ってるわよ。今の貴方はあまりにも優しいものね。だけど、私はここには残らない。だってこんな小さな小屋は、私にはあまりにも窮屈だもの」
「おや、そうですか。それは残念です」
「ただ、時々遊びに来ることにするわ。その時もし貴方が私のことも憎める位に記憶を取り戻せたなら」
「ええ、分かっています」
別れの挨拶も程々に、未だもやもやした気持ちを抱えながらも私は小屋を出た。外はもう薄暗くて、森を抜けるには一苦労しそうだ。こんな筈じゃ無かった。だけど、今はきっとこれでいい。これでいいから、誰か今すぐ私のみっともない涙を引き取って。
「……全く、見ていられませんね」
2019.04.03