#3

「うわ‥はれちゃってる」

ズキズキと痛む手首を擦りながら、職場への道を急ぐ。初夏の爽やかな風が今日はいやに重たく、湿っぽく。禍々しい曇天は今にもコンクリートに迫るほど低く垂れこめ、まるで蒸籠に閉じ込められたかの如くじわりと暑い。

「‥‥怖かった」
―――昨晩は酷い目に遭った。
マンションの下で二人と別れた後すぐに、恋人に電話をした。別れ話に持ち込むべく浮気の件を伝えたのだが‥何故か逆ギレされた挙げ句、直接話をしたいと電車で一時間の距離を、わざわざ自宅まで押し掛けられた。

「‥」
‥彼を家に入れたのは、完全に判断ミスだった。別れを告げた途端激昂した彼はもはや‥獣であった。抵抗したが手首を無理矢理押さえつけられ、その反動で壁に背中を強打した。その体勢のまま‥別れを撤回しろと、脅された。

(宇髄先生がいたずら電話してきたから何とか助かったけど‥)

何故か、突然宇髄から着信が来たのだ。
電波が悪いとか何とか言いながら、窓を開けろだの玄関に近寄れだの指示を出されて動き回らされたあげく、"あー面倒くせぇ!直接話に行くわ!"などと大声で言うものだから、世間体を気にする恋人はそそくさと帰っていった。‥結局先生は来なかったけど。

「‥‥‥」
掴まれた手首を見つめ、恋人の言葉を思い出す。
"お前とは絶対別れねーから"

‥とうすればいいの。

こちらの愛はとうに消え失せているのだ。向こうからは‥歪んだ支配欲や執着心のようなものを感じた。本能が警告音を鳴らしている。彼は危険だと。







(よし、今は仕事だ!頑張れ私!)
どろどろとした嫌な曇天を一瞥して、なまえは短く息を吐いた。
赤い手首を覆うようにブラウスの袖を伸ばし、元気に職員室の扉を開ける。


まだ来て間もない新しい職場。少し緊張感がある。
ガラガラッ「おはようございまブッ」

ブタみたいな声出た!涙
後ろに飛ばされながらなまえは、心の中で泣いた。
勢いよく身を乗り出した瞬間、同じタイミングで中から出てきた宇髄の胸に顔を強打したらしい。

「悪ィ‥大丈夫か?」
パシリと手首を掴まれ、ぐらついた上半身は静止した。
しかし。

「いっっっ‥」
昨夜彼氏に拘束され真っ赤にはれた手首だ。
激痛で思わず声が出てしまう。

「‥‥‥!」
しまった、と思った。
と同時に、真正面に立つ宇髄の、綺麗に整った眉が寄せられるのを見た。


手首を軽く掴んだだけだ。不自然過ぎる。
何かフォローを、と考えたその一瞬で‥美術教師は彼女の手の甲を掴み直すと、制止する間もなくブラウスの袖を上へずらした。

「‥‥‥‥」
「‥‥‥お前‥、」


‥露わになった赤い手首。京藤色の瞳にじっと見られ、唇が震えた。擦り傷や打ち身ではない。どう見ても不自然な跡に、ぐるぐると言い訳を考え脳をフル回転させた。‥何も浮かばない。

‥‥‥どうして‥
なまえの声にならない声は、誰の耳に届くともなく地面に落ちた。
他人のトラブルになど、面倒くさがって関与しないタイプだと思っていた。なまえの様子を不審に思ったとしても、知らないふりも、‥できたのに。

「‥」
なまえは取り繕い方も分からず、真っ直ぐな宇髄の視線から目を逸らした。

「‥もう会うな」
「え‥?」
驚いたなまえは、弾かれたように顔を上げてしまった。

「彼氏と二度と会うな」

静かな廊下に、宇髄の低い声が消えた。
‥どうして分かった?
‥どうしてそんな事を‥?

薄い唇が紡いだ短い科白が、頭の中を木霊する。

「うず‥」
ドサドサドサッ‥‥

「え?」
喉の奥からやっと音を絞り出したなまえは、大きな音にハッとする。

「‥!」
誰もいないと思っていたのだが。たまたま職員室前を通りがかった罪なき女子生徒の手から、プリントの束が投げ出されたらしい。

「宇髄先生‥!」
涙目の彼女の瞳には、なまえの腕を掴み、彼氏と別れるようせまる想い人が‥なんの弁解の余地もなく、はっきりと映っていた。


「「‥‥‥」」←宇随&なまえ
「宇髄先生っ‥うわぁん!!」
何かとてつもない誤解をした彼女は、砕け散った恋心と共に廊下を走って消えた。なまえは頭を抱えた。どうしよう。色んな意味で。よし、一旦家へ帰ろう。←混乱


珍しくポカンとした美術教師が、手を離した。
と同時にテンパったなまえは、ギリギリの思考回路で今何をすべきか思案する。
(とりあえず、ここを片付けなければ‥)

先程よりも更に明度を落とした空はもはや、夜のようだ。なまえは床に膝を付き、プリントへ腕を伸ばす。‥が。

「いい。俺がやる」
ふわりと香水の風が髪を揺らした。
その瞬間に‥なまえの手を制するように、宇髄のそれが重なる。

「‥‥‥」
鉛色の空を、目もくらむほどの稲妻が切り裂いた。

ドオオオォォン‥
「‥‥っ」
雷鳴轟く、その瞬間まで‥なまえは、呼吸が止まっていたのを自覚した。‥すぐに離れていったその一瞬の温もりが‥‥何故か、グラリとなまえの心を揺らしたから。




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