#8

星が見えない。
今日は満月だ。


エンジンを止めると、煉獄は静かになまえのほうを向き、落ち着いた声で「変わり無いか」と聞いた。

「え?」
てっきり「また明日だ!」と言われるものと思っていたなまえは目を瞬かせる。

「困っていることは無いか。‥俺に、言いたいことはないか?」
「えっ‥」
心臓がうるさい。言いたいこと‥好きですとしか‥いや言えるか!

当惑するなまえからフロントガラスに視線を戻すと、教師は「単刀直入に言おう」と呟いた。
月の光で煉獄の高い鼻に陰ができる。

「執拗に交際を迫られたり、怖い目にあったりしていないか」
酷く、優しい声。
「!!!!!」
何でそれを。
誰かに見られた?誰かが言った‥?
握りしめた手が震える。
何に動揺しているのか自分でもわからない。何となく、好きな人に知られたい話題では無かった。

「言いたくなければ言わなくていい。ただ、」
一人で抱えないでほしい。
そう言ってこちらを見た赤い目が月光で暗く揺らめき、酷く美しかった。

「はい‥今は何もありません。ありがとうございます。」
なまえが声を絞り出すと、うむ、と微笑まれた。
優しく、包容力のある笑顔だ。


「遅くなってしまったな!!親御さんも心配する!帰るといい!」←声量Max
「ぎゃっ」
煉獄に見とれていたなまえは声の大きさに驚き、飛び上がってしまった。ドキドキと、別の意味で煩い心臓を押さえながら、
「あ、私一人暮らしなので親は大丈夫です」などと言いながらありがとうございました、と慌ててシートベルトを外した。

「よもや!!!」
「キャー!」
耳が!耳がァァァ!
心のなかでのたうち回りながらなまえは隣を見る。
当の煉獄は前を向くと、そうか、だから悲鳴嶼先生が‥などとブツブツ呟いている。
あ、心配させてしまった。
焦ったなまえは何とか教師を安心させようと「大丈夫です!逃げ足は早いし‥向こうで合気道もかじってましたし‥」
と素早く付け加える。


「‥‥‥」
しばらく思案した様子の煉獄は、短く息を吐いた。
「‥力では、女は男に勝てない」
言葉を選んでいるように見える。

「体格差にもよるが、武道を極めた女性でも、素人の男性に負ける」
「え‥」
そうなの?
声に出ていたかもしれない。隣に掛けていた教師が、ベルトを外して体をこちらに向け、そして‥

「れっ‥」
「俺を押し返してみろ」
左手を助手席の座面に置き、右手はなまえの顔の横。
なまえに覆い被さるように。
「‥‥‥っ」


顔が、近すぎる。上から見下ろす煉獄の声が鼓膜を揺らすと、吐息が頬にかかる。

私は今、どういう顔をしているだろう。
息が、できない。仕方がわからない。
何も聞こえない。低い煉獄の声と、自分の鼓動だけ。

だめだ、このままじゃ気を失いそうだ。
震える手で、煉獄の肩あたりを押してみる。
びくともしない。当たり前だ。敵う筈が無い。

いよいよ精神が限界を迎えそうになった時、ふっと目の前が明るくなり、代わりにぽんと頭の上に温もりを感じた。
横を見ると、「すまない。怖がらせるつもりはなかった」と、教師が眉を下げている。左手は、なまえの頭の上。
‥ヤバい、先生、殺しにきてる?
もう、もう限界‥



倒れなかっただけマシだが。
ぼーっとして足に力が入らない。
先生と別れたあと、こうして玄関に座り込むまでの記憶も無い。
覚えているのは、助手席の扉を先生が開けてくれたこと、お礼を行って車から転がり降りた瞬間に思い切り躓いたこと、先生が腕をひいて助けてくれたこと。
マンションに入る前、振り替えると先生が手を振ってくれたこと。
‥ハンカチを返し忘れたこと。

いま、今何が起こっていた?
憧れの煉獄が、送ってくれて、心配してくれて、そして‥
駄目だ。脳がキャパオーバーだ‥

とりあえず、寝よう。
そして明日、頭を整理しよう。
放心状態で支度を済ませると、ベッドに潜り気絶したように眠った。


‥翌朝復活したなまえの第一声は、
「また転んだわ!!!」であった。


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