#41

その日は、朝から酷い雨だった。

昼間であるというのに、まるで冬の日暮れ前のように暗い。鉛色の雲は、一切の光を遮断したかの如く空に蓋をして、弾丸の様な雨粒を無機質なコンクリートにただただ穿つ。

コンクリートから立ち上る雨の匂いが、今は梅雨なのだと思い出させる。

「‥‥‥‥‥」
雨は嫌いではない。どちらかと言うと、好きな方だ。屋内から眺める分には。

HRが終わり、太陽が出ていってしまったかの如く世界が薄暗く感じた。このところ、煉獄への依存度がいよいよおかしい。

伊黒に言われて以降、何度か話しかけようと試みてはみた。だがいざ話しかけようとすると、緊張してしまって動けない。異性に対して、このように怖じ気づく事は今までなかった。
そも、もうデフォルトであるが、煉獄は忙しい。その隙間を縫って、いつも沢山の生徒に囲まれている。彼はプライベートな話にはあまり応じないので、駄弁ったりせず、話が終わればすぐに職員室へ引っ込む。引き留めるような事はしたくない。それほどの話題も持ち合わせていない。

それなのに、会う時間が増えれば増えるほど、その美しい顔や肉体、声、言葉遣い、上品な仕草‥彼の一挙手一投足へ想いが募り、もう気持ちが溢れそうだった。自分が怖い。そろそろ生き霊でも飛ばしかねない。
彼が授業中、机の横を通るとき。ふわりと彼の匂いがすると、思わずその腕を取り引き留めたくなる。緊張して話し掛けるのにも二の足を踏んでいるのに、矛盾だ。

机の中のクラス編成表。煉獄の名前を指でなぞる。好きなのだ。もうどうしようも無いくらいに。





一日窓の外を見ていた気がする。板書はノートに写しているあたり、授業は聞いていたらしい。

こんな事を一日考えていたなんて、いよいよ自分が心配だ。人生、恋愛だけではない。今は大事な時期だ。将来の事とか、考えろ。

気持ちを切り替えようと、体を動かすことを期待したが‥部活は今日は動画視聴だった。振りの一連と部分的な解説を聞いただけで、時計は無情にも17:00を告げる。なまえはため息をついた。


こんなに鬱々としたのは久しぶりだ。雨のせいだろうか。雨の音はリラックス効果があるらしいのに。



(うわ‥どしゃ降り‥‥)

昇降口に下りたなまえは、肩を落とした。もはや警報レベルの大雨である。傘なんかで太刀打ちできる相手ではない。長靴にカッパだ。でなきゃ洗濯物宜しく洗われてしまうだろう。

スマホで雨雲レーダーを確認する。今が一番酷いようだ。仕方ない、教室で雨宿りでもするか。

うわっ凄い雨!‥、お母さん、迎えに来て!‥等、困惑する声に背中を向け、階段を上る。3階は地味に遠いが、あと30-40分過ごすのだから、自席が落ち着くだろう。


既に廊下にも教室にも誰もいなかった。
室内は消灯されていたが、外はまだ日も落ちていないしと、そのまま自席に着く。

ザァァァー‥‥‥
昼間の喧騒が無い分、やけに雨音が大きく聞こえた。横の窓を開けると、ふわりと生ぬるい風と共に、雨の匂いが広がった。

校庭からパラパラと生徒達が捌けていく。校門前は、迎えらしき車が数台止まっていた。

「‥‥‥‥」
雨音を聞きながら、生ぬるい風が額に当たるのが存外心地いい。なまえは頬杖をつき、ただただ外を見つめていた。





ガラリという扉の音で我に返る。
音の主は、こちらを見て驚いた顔をしている。
「みょうじ‥」

なまえは、内心頭を抱えた。とうに過ぎた下校時間、電気も付けず雨を見つめる女。
妖怪かよ。

「煉獄先生、こんにちは」
雨宿りです、と愛想笑いをし、窓の外に視線を戻した。‥今は、今だけは無礼を許してほしい。そっとしておいてほしい。煉獄への想いで、ぐちゃぐちゃなのだから。


だがそんななまえの気持ちを受け流し、教師はつかつかと彼女の元へ歩み寄ると‥、なまえの正面、机の前にしゃがみこんだ。両腕は机の上で組み、手の甲に顎を乗せて。


ギクリとなまえは身体が強張るのを感じた。自身は前屈みに頬杖をついている。距離が。‥‥‥顔の距離が‥。

赤く丸い瞳に上目遣いに見つめられ、なまえの身体は金縛りにあったかの如く動かなくなる。

「先生‥」
「元気か」

静かな声が耳に響く。言われた事はいつもと同じなのに、煉獄の匂いと、距離の近さが思考回路を遮断する。

「元気、です。部活も出ました」
「なるほど。」

形の良い口角の上がった唇が、短く動いた。
なるほど‥とは。


バチバチッ‥
刹那に強い風が吹き、雨を窓ガラスに打ち付けた。開け放たれた窓から少し雨が吹き込んだ為、慌てて閉める。ガタッという椅子の音が、しんとした室内にいやに響いた。
‥座り直し、姿勢を正したので顔は少し離れたが‥それでも。30cmも無い。

「今日は、一日外を見ていたな」
‥何故それを。他の教師から報告が行ったのか。
「言っただろう。俺は‥‥‥君が考え事をしていると、気になる。」
煉獄の顔から、微笑みが消えた。

バチバチと、再び窓が鳴る。

何だ。何が彼にこう言わせている?
呆けていたのを咎めている?
−−否、彼は細かい事で生徒を叱ったりしない。
また不審者被害に遭っていないか、気になるのだろうか。だがこれは問いかけではない。


脳が揺れる。煉獄との関係が、約束されていた生暖かい永遠の平穏が、ガラガラと崩れ去る音を聞いた。何が。何が壊れた。何を失った?

こちらを見つめる赤い瞳には、いつもの陽だまりのような暖かさは無かった。これは煉獄先生ではない。煉獄杏寿カだ。覚えがある。式場のバイトをした、あの日。
炎の奥底の、生身の感情だ。あの時と違って、悪寒はしない。映るのは‥憂慮と、後悔と、少しの戸惑い‥

煉獄は一度目を伏せると、短く息を吐いた。

"守れなかった、守りたかったと‥"
千寿カのメールを思い出す。
‥もしかしたら彼は、自責の念から、なまえを案じ続けているのだろうか。そんなことは望んでいない。そんな風に苦しめるくらいなら、縮まった関係がリセットされる方がずっとマシだ。


「煉獄先生、私、元気です。」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

赤い瞳がじっとこちらを見る。気を抜くと焼かれそうだ。机の下で拳を作って耐える。
「何かあったら必ずご相談します。だから、心配なさらないで下さい。」

上手く、笑えただろうか。


「‥‥‥」
紅蓮の瞳がゆっくりと瞬く。

煉獄は、
「わかった」
‥と、眉を下げて微笑んだ。


「‥‥‥」
今さら、動悸がしてきた。よくよく考えたらこの近さ、いや今考えるな!噴火する。


「‥‥‥」
目の前の教師は窓の外を見、立ち上がる。
‥そして炭治カの席へ、横向きに腰かけた。

「!!」
解放されたと思ったなまえは、心のメガネが割れた。
これは何の拷問でしょうか!
次は耳の穴から煙が出そうだ。
遠くから目が合うだけで、また声もかけられないほど緊張するというのに。
喋るの?お喋りするの?先生。

「段ボールに轢かれたらしいな!」
ゴンッ
「どうした!」

まさかの。
なまえは勢いよく額を机に強打した。

どうしたと言いながら、頭上からは笑いを堪えている声がする。確信犯か。好き。

なまえは額を擦りながら、眉を下げて教師を見る。こんなにフレンドリーだったっけ?
‥自分の分析と最近の煉獄の乖離についていけない。心臓がもたない。

真っ赤だ!と煉獄が額を指差す。‥その指先は‥触れている。
何だこれ何だこれ‥いや以前にもあった。でもこんなニコニコと!!!


その時。
バチリと教室の電気が付き、暗さに慣れた目がやられたなまえはム●カになった。入口に、長身の影。

「おい‥お前ら何こんな時間までいちゃついてんだァ?」
呆れた声が聞こえ、宇髄だと分かった。
いちゃっ‥!!!

「めったな事を言うな!免職される!」
え?煉獄先生、そんな否定でいいの?
確かに拒否されたら傷付くけれども。流石大人だ。

「煉獄、PC付けっぱだぜ」
「うむ!まだ途中だ!」

ほんとに何してんだよ‥と、美術教師はため息をついた。なまえと目が合う。

「おい、みょうじ。帰るぞ」
帰るぞって、彼女か。
「乗せてってやるから」

そういえば、もう外は暗い。宇髄は気を遣ってくれているのだ。

「ありがとうございます!でも大丈夫です!」
「はははは!フラれたな、宇髄」
「やかましいわ!てか、何でだよ?」

以前も思ったが、煉獄と宇髄は仲がよさそうだ。まぁ、煉獄と仲悪い人はいないだろうが。

「ファンの子に怒ら‥いたた!」
「うるせェ!行くぞ!」

また頭を鷲掴みに。扱いよ。
きょとんとした煉獄を置いて、宇髄はずかずか歩く。

強引だが、引き離してもらって助かった気もする。そろそろメーターが振り切れて、倒れそうだった。


‥先ほど感じた違和感は何だろうか。
彼は何も口にしていない。ただの、感覚だ。考えても仕方がない。
ただ、今夜は眠れそうにない。




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