#60

「それでも、俺は嬉しい。」

濃藍と、青竹と、焔色と。
美しい空間を、柔かな秋の風が吹き抜けていく。


にこりと微笑まれ、えへへありがとうございますと脳が溶ける。気持ち悪くて申し訳ない。多分顔には出していないからセーフだと信じたい。

冷静に考えると、それは煉獄の記憶が理由ではないだろうか。恐怖に怯え、震えて泣いたなまえの顔が彼の脳裏に焼き付いて、未だに消えないのだろう。だから、嬉しいのだ。なまえが幸せそうにしているのが。今は大丈夫と分かっていても。


「今日は、無事か!」
いつもより声量は落としているが、変わらず快活な話し方である。


‥そういえば、煉獄は今夜、この話題に一度も触れてこなかった。何かあったと認識したから連れ出してくれたのだろうと解釈しているが、果たしてどこまで言うべきか。

(物理的危険があった訳じゃないし‥)
正直、精神はかなり追い詰められたが‥だからこそ、あんな所で人目も気にせず座り込んでしまっていたのだが‥
今回のケースは担任に報告するほどの事でも無い、と思う。誰しも‥何なら炭治カあたり、同様にやられているのではないだろうか。甘えてはいけない。


ぐるぐると熟考したなまえは、
「無事です!」と、右手の拳を胸元まで突き上げ、力強く返事をした。ポージングが漢らしい!


「‥‥‥」
いつもの様に口角を上げ、こちらを見ていた赤い瞳が、ふいに細められた。

「!」
‥同時に、拳を煉獄の左手が包み込んだ。
ドクリ、と心臓が跳ねる。


「君の、頭のなかで‥」
話しながら、煉獄の左手がなまえの拳をほどく。


「今、遠慮をしただろう。俺に話すことでは無いと。」
「‥‥‥っ」


ほどかれた手は上を向き、その下に煉獄のそれが重ねられる。
教師の親指がなまえの手のひらを柔らかに押さえており、‥力を入れれば振りほどけるが、真っ直ぐな視線に射抜かれ、動くことができない。


「‥‥‥」
じっと‥微笑んだまま見つめられ、頭が真っ白になる。あぁ、この目だ。今この煉獄は、教師ではない。


「言いたくない事は聞かないが。‥それとも、俺では、君の悩みを聞くには役不足だろうか?」


煉獄の親指が、するりとなまえの手のひらを撫でた。


「‥‥‥!!」
胸に落ちた落雷が、体の中枢を地面に向かって貫いた気がした。ビリビリと痺れる頭は役目を果たしておらず、見開いた目は金縛りにあったかの如く赤に囚われて瞬きもできない。


「!」
と同時に、スッと煉獄の手が離れた。目を細めていた教師は、己の手を見つめ、驚いた顔をしている。

(あれ、静電気でも起きたかな‥)
先ほど落雷と感じた衝撃は、実際は静電気だったのだろうか?弱っ

ちょっと頭が混乱していてよく覚えていない。
離された右手は、所在無さげに椅子に落ちた。


‥煉獄は‥優しい。
恐らく、例の廊下の一連は、聞こえていたのだろう。なまえの震える声も。
だから、そんな些細な心のささくれさえ、取り除いてくれようとしている。


「煉獄先生、」
なまえはふぅと呼吸を整えると‥煉獄の目を見た。先ほどの一瞬の表情は消え、彼は再び微笑んでいる。

「さっきまで、悩んでいました。もしかしたら、自分の選択で‥誰かを悲しませているのでは、と。迷惑をかけているのでは、と。」

至近距離で見下ろされ、鼓動は早鐘の様に鳴り響く。ふわりと風が吹く。煉獄の匂いがする。

「‥でも今、煉獄先生が手を握って下さったから‥‥嬉しくて、鬱々とした気持ちが、どこか飛んでいきました」
そう言って、笑顔を作る。


赤い瞳が、ゆらりと揺らめいた。気がした。

あぁ、言ってしまった。今までひた隠しに隠してきた好意を今、滲ませた。伝わっただろうか。拒絶されるだろうか。だがもう決めた。彼の負担になりたくない。終わるならば、終わればいい。


「‥‥‥」
沈黙が、痛い。


「人肌に触れると、人は安心するものだ」
ん?
伝わらなかった?それとも、かわされた?

「手を握って欲しければ、言えばいい。抱き締めて欲しければ、そう言えばいい。」
「え?‥ゴホ、ケホケホ」


何も飲んでいないのに、物凄いむせた。またそれ言う!言っても絶対抱き締めてくれないでしょう!!!
あ、友達にってこと?

‥気を落ち着ける為に煉獄から目をそらし、足元を見る。視界に二人分の靴が見え‥煉獄と二人で出掛けているという事実に、今更に緊張する。



「手が、冷たいな」
「!!!」

突如掴まれた右手に意識が集中する。煉獄は微笑んだまま‥持ち上げたなまえの手を自身の左手に乗せた。今度は手のひらが合わさる。待ってほしい。まるで、まるでこれでは、‥手を繋いでいるようではないか‥。


「じっとしてると、少し冷えますね」
もう訳が分からない。さっきの自分の台詞も、伝わったのか伝わってないのか。まぁ滲ませた程度だから、如何様にも解釈できるとは思うが‥‥
それにしても、この状況の説明が付かない。
混乱しておばあちゃんみたいな返事しか出てこなかった。


「よもや!みょうじが風邪を引く!」
「ファッ」
急に手を離して立ち上がるものだから、驚いて衛兵のように直立してしまった。

「向こうで温かいものを買おう!」
先ほどの落ち着いた雰囲気はどこへ。

この人の、リーダーシップというか‥カリスマ性が凄い。思わず直立のまま、承知致しました!などと言ってなまえは後を追った。





竹の小路を出てしばらく歩くと、お茶のお店があった。なまえが財布を出そうとしたところ、遠慮するな!とまたも制されてしまった。少額だが、ただの一生徒に出費させてしまい申し訳ない。そういえば、タクシー代なかなかだったな‥


煉獄はほうじ茶、なまえは抹茶ミルクのカップを持ち、夜道を歩く。

「苦いのかと思ったら、ほんのり甘くて濃くて美味しいです!!」
抹茶のお菓子は何度かいただいたことがあるが、何だかこれは本格的だ。深みがあり、こっくりしている。

「そうか!それは良かった!」

車が通りすぎ、赤い瞳を白い光が一瞬照らし、そして消えた。


「はー‥日本のお茶は美味しいですね〜」
我ながら誰なんだと思うが、本当に美味しいのだ。市販の物ともまた違う美味しさ。

「ほうじ茶も飲むか?」
小さく笑った煉獄が、まだ手付かずのそれを差し出してくる。

おねだりしたみたいになってしまった!?


「まだ飲んでいないから、遠慮するな!」
いや先生!私はいいかもしれませんが私が飲んだ後先生飲んだらそれって‥

私が中学生なの!?
あああ首傾げないで!可愛すぎる!


「ありがとうございます!」
行ったれー!
目を白黒させていたなまえは、意を決してカップを受け取った。


ふぅふぅ、
ずず、と飲み口からほうじ茶をすする。
「!」
何か甘い!!!
感動して思わず教師の顔を見上げた。


「甘くて濃くて苦いです!‥‥ん?私は何を言ってるんだ?」

「‥‥ふっ」
‥眉を寄せ、首をひねったなまえを見て‥煉獄が吹き出した。あ!顔背けてる!これ笑ってるやつだ!!恥ずかしい!!!


‥やってしまった、少なくとも後半は声に出す事じゃなかった‥。
なまえは遠い目で鼻をすする。


「‥本当だな、甘くて苦い」
「あ」

笑ったせいか、いつもより少し高い声が聞こえた瞬間にはもう、‥煉獄の唇はカップから離れていた。


ああああ、先生の唇が‥‥!
なまえは緊張でバキバキになりながら、煉獄とカップを交互に見る。


真っ赤だ!と、なまえの頬を指し、教師が再び笑う。
‥先生は私が笑われて赤くなってると思ってるでしょうけど、違いますからね!
恐ろしい美人だわ!自分の破壊力分かってなさすぎる!


チラリと、手元の抹茶ミルクを見る。凄く、凄く美味しかった。この幸せを分かち合いたい。

「これも飲みますか?凄く美味しくて、」

ちょっと待ってください、飲み口拭きます‥とハンカチを探すなまえの手から、‥飲みかけのカップが奪われる。

「あっ‥」

中途半端に伸ばされたなまえの手が空を切る。


「うむ!うまいな!」
そう言って口の端を拭う煉獄の赤い舌に、なまえは頭がくらくらした。




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