#67

文化祭の翌日は、朝から雨であった。

ザァァァーーー‥
分厚い灰色の雨雲が、地上へと迫らんばかりに低く垂れ込め、大粒の雨を注いでいる。
(嫌な雲だなぁ)

1限目が始まるのを自席で待ちながら、なまえは外を見ていた。
‥何だか、気持ちがすっきりしない。理由は明白であった。HRでの、煉獄の表情だ。


−おはよう!
いつもと同じ、太陽のような明るさで挨拶をした瞬間は、この嫌な天気も忘れてしまうほど‥幸せな気持ちになったのだが。

「‥‥‥?」
ふと、彼の笑顔に違和感を感じた。煉獄を慕い、2年間見つめ続けてきたなまえにだけ分かるような、些細な変化であった。
彼は何か、物思いに耽っているようだった。
昨日の別れ際‥様子がおかしかった、あの時から。

パラパラ、と雨が窓に当たる。
この時期の雨は、梅雨のそれと違い、温かさが無い。ただただ無機質にコンクリートを叩きつけ、寂しさだけが募った。

‥煉獄に、何があったのだろうか。彼にも悩みの1つや2つあるだろうが‥いや、こんなにぼんやりとした煉獄を、なまえは知らない。





結局、雨は一日止むことがなかった。放課後の空は、いよいよ夜のように暗い。


「ごめん、なまえ!冨岡先生の手伝いを頼まれた!先に帰ってていいから!」

いつもならすぐに帰るのだが、何となく一人になりたくなくて。勉強して待っていると炭治カに告げた。少しでも、日常を取り戻したかった。太陽に雲がかかった、ただそれだけで、全ての物がモノクロに見えた。不安だった。


「さてと‥」
何故今日に限って雨なのだろう。
何故部活は無いのだろう。
何故炭治カは用事を頼まれたのだろう。

誰もいない教室で、自席に勉強道具を広げる。
考えてもしかたがない。だが、小さな日常のルーティーンが、今日は恋しかった。


「‥‥‥‥」
カリカリと、ペンを走らせる音が響く。集中できていないせいか、外の雨音がやけに耳に響いた。

ゴロゴロと、低い轟が聞こえる。雷だ。やはり帰るべきだったか。だが今歩いて帰るのは、危ない。



「!」
ガラガラと、扉を開く音がして、反射的にそちらを見る。炭治カが「おまたせー!!」と、明るく入ってくるのを期待していた。

「‥‥‥」
だがそこに立っていたのは、眉を寄せた煉獄であった。


「‥‥‥」
「みょうじ、帰らないのか!」

いつもの声量の煉獄に、我に返る。何かを思い悩む赤い瞳は煉獄本人なのに、まるでそこには何も入っていないかの如く、虚ろであった。

「煉獄先生、こんにちは!炭治カを待ってます!」
精一杯、元気に答えた。笑顔も作った。いつもの元気な煉獄に、戻ってほしかった。

「そうか!」
煉獄はそう言うと、教卓に近づき、中から荷物を取り出している。何か忘れ物をしたらしい。そして、そのまま、‥背中を向けた。


ドオオォォォォォォン‥‥‥
「!!!!!」

突然の雷鳴に驚き、声にならない叫びを上げる。ガシャンと音を立てて、筆箱の中身が飛び散った。


「あっ‥」
一本のペンが、煉獄の元へ転がる。
振り向いた赤い瞳が、それを捉えた。


拾ってくれなかったら、どうしよう。
‥刹那に、そんな事を考えた。
煉獄は、誰よりも人間のできた教師であった。余程の事が無い限り、怒りや悲しみといった負の感情を表へ出したことは、なまえの記憶する限り一度も無かった。彼は、己の機嫌を他人にさらけ出す事はなく。常に笑顔であったし、誰にでも親切で裏表の無い男であった。

その彼が、昨日まであんなに親しくしてくれた彼が‥目も合わさずに背中を向けた事に、なまえは酷く狼狽していた。

もし、もし彼が足元のペンを拾ってくれなかったら‥‥‥それは、もはや拒絶だ。なまえの好意を理解した上での、NOという返事だ。


「‥‥‥」
だがなまえの不安に反し、煉獄は徐に屈むと、ペンを拾い上げた。そのままゆっくりとなまえのもとへ歩き、大丈夫か、とペンを差し出した‥‥‥

「‥‥煉獄先生?」


煉獄の長い指から、なまえのペンが音を立てて床に落ちた。彼は目を見開き、ただただなまえを凝視していた。瞳は揺れ、薄い唇を開いたまま、立ち尽くしていた。まるで雷に打たれたみたいに。彼は何かに驚愕し、怯えていた。困惑していた。

「‥‥‥‥‥」
物理的に何かが起こったわけではない。雷鳴も、今は聞こえなかった。彼を貫いたのは、彼自身に他ならなかった。思い悩んだ彼が、その思考の果てに結論を手にしたのは明らかであった。そしてその答えが、彼にとって受け入れ難いものである事も。

「煉獄先生、大丈夫ですか‥?」

散らばった筆記用具を全て拾い終わったなまえが、再び声をかける。

ハッとした煉獄は、明らかに動揺し‥後ろに一歩下がった。
「すまん!」
「へ?何がですか‥?」

隣の教室まで響く音量で謝罪され、飛び上がる。もはや今の煉獄は、誰がどうみてもいつもの彼ではなかった。


ゴロゴロゴロ‥
ピカッ‥と、空が白に染まった。
再び夜に戻り、雷鳴が轟く。近い。


「なまえ!ごめん遅くなって!」
「!」

炭治カの明るい声がした瞬間、煉獄はなまえから目を離した。
「あっ煉獄先生、こんにちは!」‥と、笑顔で挨拶をした炭治カが、バタバタと走ってくる。

「雷危ないから冨岡先生が送ってくれるって!」
帰ろう!とにこりと微笑む。

そうだね、と‥返事をして荷物をまとめる。
その間に、煉獄は教卓に戻り‥遠くから、二人を見ていた。

「「煉獄先生、さようなら!」」
「うむ、また明日!」
元気に挨拶する二人を、扉の前で見送ってくれる。


煉獄先生、どうしたんだろう‥。
階段を降りる直前に、振り返ると‥、教室に戻る背中が見えた。何だか寂しくて、鼻の奥がつんとした。




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