#68

煉獄と目が合わなくなってから、3週間が経過した。

正確には、煉獄との関係性が、入学式の時点に戻ってから、だ。彼は変わらず口角を上げて溌剌と話すし、挨拶も返してくれる。受験の相談にも乗ってくれる。だがそれ以上の会話は無いし、美しい赤い瞳を細めて微笑むことも、無くなった。視線が合っても、どこかフィルターがかかったかのように‥壁を感じた。

あぁ、ふられたんだ。
なまえはぼんやりと、己の手を見つめた。
煉獄に好意を滲ませたのはたったの2回。修学旅行と、文化祭の車の中だ。娘と思われていなくて良かったと、伝えたあの夜から‥煉獄は様子がおかしかった。

きっと彼は、なまえを守ったのだ。告白してしまえば、なまえは担任という支柱を失ってしまう。失恋のショックで、受験にも影響が出るかもしれない。だから、早くにその気がないことを伝えているのだ。‥なまえはそう理解していた。頭では。


じわり、と涙が滲んだ。今は現代文の時間であるのに、筆者の伝えたいことなど何も分からなかった。黒板がぼやけるのを見て、慌てて瞬きをして涙を乾かした。


−ほうじ茶も飲むか?
眉を下げて微笑んだ煉獄を思い出す。


好きだったなぁ。
大好きだった。煉獄の事が、世界中の誰よりも。

片想いで終わってしまった。何てことはない。彼に想いを寄せる、沢山の女性と同じ。ただ、恋が終わっただけだ。

今は受験に集中しなければならない。
何とか、問題文を再度読み込む。前の席の炭治カが、眉を下げてこちらを見る。ハッとして隣を見ると、善逸も悲しい顔をしてなまえを見つめていた。

「受験ノイローゼかな‥」
この二人に、気持ちを隠す事はできない。だがまだ煉獄の名前は出したくない。言葉に出したら、本当に終わってしまう気がして。

善逸が小声で話しかけてくる。
「俺、大学行ってもなまえちゃんの側にいるから。うざがられても、めげないからね」
「うん、俺も。」
炭治カの横顔がにこりと微笑んだ。
凄く嬉しかった。後ろから、「あ?何話してんだ、混ぜろ」と聞こえてきて、そのいつも通りな感じに笑ってしまった。






文化祭以降の3年生の部活は、主に後輩指導だ。受験勉強で時間が取れない者は実質引退であるし、時間のある者はたまに顔を出す。そういえば、1年の頃、この時期に先輩が随分減った事を思い出した。

「お疲れ様でしたー!」
なまえも例外無く受験生であるのだが、帰国子女枠の方がほぼ確実に受かりそうだったので、余裕がある。そんな中、この鬱々とした気持ちを晴らす為にも、たまに部活に顔をだしていた。

「あ‥」
練習を終え廊下を歩いていると、何かが落ちているのを見つけた。伊黒のボールペンだ。特徴的で、彼がいつも白衣の胸ポケットにさしていたから間違いない。

化学室は同じ階だ。届けに行こう。
そう思い、長い廊下を歩く。丁度その時扉が開いて‥蓬組の教室から、焔色の髪が出てきた。


正直、今は会うのが辛い。あんなに好きだったのに、いや今でも大好きだから。冷たくされて、傷つくのが怖い。しかし。


「煉獄先生、こんにちは!」
勇気を振り絞って、笑顔を作る。ふられたからといって態度を変えることは、したくなかった。彼の記憶の中で、最後まで良い子でいたかった。

「うむ、こんにちは!気を付けて帰れよ!」
「‥‥‥はい!」

また、目が合わなかった。こちらに視線はよこしていたが、どこを見ているか分からなかった。去っていく背中を見つめる。ぐっと、胸が締め付けられるのを感じた。


「失礼します」
トボトボと化学室に向かうと、電気が付いていた。良かった、この後職員室に行く気には、どうしてもなれない。


「どうした?」
何かの分厚い資料集を読んでいた伊黒が、驚いたように顔を上げた。それもそうだろう。理系の授業を受けていないなまえは、もう何ヵ月も化学室を訪れていない。

先ほどのショックを必死に隠し、落ちてました!と、ボールペンを差し出す。ダメだ、指先が震える。机に置けば良かった。

「‥‥‥‥」

長い睫に縁取られた、綺麗なオッドアイが伏せられ、ボールペンを受けとり‥‥そのままなまえに、視線を合わせる。


「みょうじ‥‥‥、どうした‥」
優しい眼差しだった。

落ち着いた大人の声が、以前の煉獄と重なった。また普段冷淡で、他人の機微に興味を持たない教師の優しさに打たれ‥この3週間、誰にも相談できず、一人気丈に振る舞ってきたハリボテの虚勢が、いとも簡単に崩れた。


ポタリと、涙が一滴、黒塗りの机に落ちる。伊黒がギョッとして固まるのが見えた。困らせたくないのに、涙は止まらない。

熱い涙が次から次へと出てきて、もはや何も見えなかった。うっ‥と、嗚咽まで漏れた。冷静に受け止め、我慢してきた3週間分の涙が、今溢れてきたかのようだった。こんなに泣いた事は、一度もない。


「‥‥‥」
伊黒が椅子を出してきて、座らせてくれた。ふわりと香った煉獄ではない男の香りに、私は何をしているんだと自嘲した。たかだか失恋で、あの伊黒にここまでさせてしまうなんて。

「いたっ」
ベシリと、布が顔に当たる。綺麗に折り畳まれた、ハンカチであった。目に当てると、伊黒の香りが強くなった。私は本当に何をしているんだろう。


「‥‥‥」
ハンカチを目頭にあて、涙が止まるのを待つ。近くから、パラリ、とページを捲る音がした。いつの間にか鏑丸が首もとに来て、優しくすり寄ってくれている。

「伊黒先生、ありがとうございます‥」
「‥‥‥」
教師の流し目がなまえへ向いた。

「色々あって、追い詰められてしまって‥」
グス、と鼻をすする。
「泣いたら凄くスッキリしました‥。帰ります」

こんな下らないことで、迷惑をかけたくなかった。なまえは何とか立ち上がると、椅子をもとの位置に戻す。


「‥一人で抱え込むな。人の精神は脆い」
「‥‥‥」

顔は本を向いたまま、横目でこちらを見る彼に向き直る。


「他人を頼れ。最悪俺でもいい。いいな」
ふふふ、と、笑ってしまった。最悪って。こんなに優しくしてくれておいて。

涙を拭いながら笑うなまえに、伊黒は何笑ってる、気持ち悪い奴だな‥と眉を寄せた。


「俺はこれから来客だから、煉獄に送らせる。待っていろ」
「あっ一人で帰ります!大丈夫です!!!」

スマホを取り出した伊黒を、思わず大慌てで遮ってしまった。教師はぽかんとしている。

「あのっ‥ハンカチ洗って返します!本当にありがとうございました!!」
バタバタバタ‥ガラガラ‥ピシャン!

「‥‥‥」
途中机に何度かぶつかりながら、なまえは物凄いスピードで去っていった。勿論、鏑丸を置いて。





その夜。
来客対応を終えた伊黒が職員室に戻ると、既に殆どの席は空だった。煉獄がまだ作業している以外は。

「‥‥‥」
ガラリと椅子を引き、腰を下ろす。そして胸ポケットからボールペンを取り出し、手帳を開いた‥が。小さく舌打ちをすると、再び立ち上がる。

「煉獄」
声をかけると、何だ!、と返事が返ってきた。特段変哲は無い。忙しいのか続けて何かを打ち込んだ後‥煉獄は、くるりと椅子を回転させ、伊黒に向き直った。


「みょうじが俺の前で泣いた」


その時の煉獄の表情を、伊黒は珍しいと眺めた。彼の瞳は見開かれ、いつも人懐こく上がった口角は下がり。何故だ、と紡ぐ唇からは、明らかな動揺が見て取れた。

「さぁな。何も言わなかった」
「‥‥‥」
煉獄の眉が歪む。

「何かあったら担任に言えと言っておいた筈だが‥」
「‥‥‥」
「何故だろうな?」


赤い瞳が、伊黒の左右の目を交互に見た後‥地面に落ちた。
「‥‥‥‥‥俺か‥」


呻くように呟いた煉獄の低い声に、伊黒は眉を寄せる。
「煉獄‥まさか‥」


ガラガラッ
「あー疲れたわ!やっと描けたぜ‥あ?」

ガブリ。
空気を打ち破る大声で宇髄が入ってきたのと、鏑丸が煉獄の頭に噛みついたのは同時だった。

宇髄は片手で肩を揉みながら、向かい合う二人を凝視する。
「おい、煉獄。頭に蛇付いてんぞ。メデューサかよ。何で真顔なの?怖いんだけど」
「‥‥‥‥」

間延びしたコメントに、伊黒はため息をついた。




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