#71

「‥‥‥‥」
パーティー会場の扉を抜けると、背中にあった煉獄の手が、肩に回る。

「‥‥」
恐怖の記憶と、煉獄の体温が‥傷付いた心をぐしゃぐしゃに掻き回した。無言のままエレベーターに乗せられ、上へと上がっていく。二人しか乗っていない狭い箱の中でも、肩は抱かれたままであった。


「‥‥‥大丈夫か」
着いた先は、ホテルの最上階であった。夜景の見えるお洒落なバーを横目にフロアを進むと、奥まったところにソファなどが並ぶ、待ち合わせ場所のようなエリアがある。窓は全面ガラス張りで、照明も絞られているので夜景が堪能できそうだ。‥‥‥こんな状況でなければ。


夕飯時だからか、誰もいない。煉獄に促され、ソファに座る。前に立つ、煉獄の顔を見ることができない。きっと‥自分は今酷い顔だ。指先もぶるぶると震える。もはや、トラウマに怯えているのか、煉獄への想いで震えているのか分からなかった。

「はい」
本当は全然大丈夫じゃない。だがもうこれで乗りきるしか無い。好きでもない女に、何をしてくれるというのだ。本当は抱き締めて欲しい。そんな事、言えない。


「みょうじ」
煉獄が、徐に目の前に跪いた。下から見上げられ、はっきりと‥赤い瞳と目が合った。

「言ってくれ。‥俺は、君に何ができる」
「!」

真剣な表情と、諭すような落ち着いた声にドキリと鼓動を感じた。煉獄の言っている意味はまさか‥‥。何故、どうして。

頭がぐらぐらした。優しさなどいらない。好きでもない女に、情けをかけないでほしい。同情で抱き締めてもらうなど、惨めな事は望んでいない。

「‥煉獄先生‥‥」
赤い瞳を見つめる。まだ震えは収まらない。
もう、終わりにしよう。


「‥手を握ってくださいませんか」
煉獄は、ゆっくりと瞬きをし‥なまえの膝の上に自身の手を置き、両手を包み込んだ。

「‥‥‥‥」
震えが、段々と落ち着いてくる。煉獄は、じっと触れあった手を見つめていた。
バーから漏れ聞こえるシックな洋楽が、遠く聞こえる。‥あぁ、これは恋の歌だ。叶わない恋の。




「‥好きです」




なまえの言葉が‥静寂に溶ける。

赤い瞳が大きく見開かれ、‥煉獄が顔を上げた。眉を寄せ、瞳は揺れていた。唇は薄く開き‥彼が、驚き戸惑っている様が見てとれた。

‥予想と違う表情だなぁと、煉獄を見つめたまま、なまえはぼんやり考えた。


賽は投げられた。
今はただ、煉獄の台詞を待つのみだ。入学式で聞いた、あの台詞を。


「‥‥‥」
沈黙が、怖くなかった。なまえは揺れる赤い瞳を見つめながら、遠いバーの洋楽に耳を傾けた。今かかっているのは、絶望の歌だ。明日など無いと思って生きている、と。


間接照明の淡い光が、見上げる煉獄の頬を照らした。燃えるような赤からすっと通った綺麗な鼻筋を照らし、薄い唇に影を落としている。素肌なのにきめ細かい頬から首筋のラインの陰影が、残酷なまでに美しかった。


「‥‥‥‥‥」
煉獄の瞳の炎が、ゆらりとなまえを捉えた。彼は唇を引き結んだまま立ち上がり‥‥ぐいとなまえの腕を引いた。

上に引かれた体が、煉獄の胸に倒れこむ。


「せんせっ‥」
強く抱き締められ、頭が真っ白になる。煉獄の香りと熱い体温に、くらくらした。
彼は何も言わない。背中に回された腕が熱い。男の胸板に密着して胸が潰れ、息が苦しい。
もう、廊下の向こうからは何も聞こえない。


「君を泣かせたのは‥‥‥俺か?」
肩口に顔を埋めた煉獄から、絞り出すような低い声が聞こえる。男の吐息が素肌に当たり、首筋がゾクリとした。

「‥‥‥」
誤魔化す必要もなかったが、声が出なかった。息を吸うと、肺いっぱいに煉獄の匂いが広がり‥気持ちが溢れ、じわりと涙が滲んだ。

こんな風に、抱き締められた事は無い。互いの上半身が密着し、体温が混ざり合う。


「知らなかったのだ‥!すまない‥‥」
「え‥‥?」

どういう意味だろうか。知らなかったとは‥なまえの気持ちの事だろうか。では、何故‥


「‥‥‥‥」
煉獄は、ゆっくり体を離すと、なまえをじっと見つめた。赤い瞳が再び揺らめく。そして、‥‥骨張った長い指で、乱れた彼女の前髪を軽くといた。ヒールのせいでいつもより顔が近い。男の指が額に触れ、何故か酷く緊張した。

「‥‥!」
額から下りてきた右手が、なまえの頬を包む。親指がするり、と頬を撫で‥‥なまえは体がビリビリと痺れるのを感じた。鼓動が全身を支配した。気が遠くなりそうであった。

「みょうじ‥」
なまえを見下ろす瞳は、一ヶ月前までのそれと同じ‥煉獄の感情が宿った、美しい赤だった。そこには消え去った過去の思い出と、その先にあるなまえへの親愛の情が見えた。と同時に、彼が錆び付いた重い鉄鎖の重刑から解放され、手にした自由に未だ戸惑っているようでもあった。


「俺に時間をくれないか」

え、‥と、なまえは目を丸くした。時間‥?今のはまさか、告白の返事なのか‥‥‥?

「‥‥‥」
3年間、卒業前に告白しても拒絶されると、ずっと自身に刷り込んできた。それは、今思えばなまえの勝手な想像であった。‥‥だが、対煉獄に関して、思い描いていた当たり前が根幹から覆された事が未だ理解できず、シナプスの全てが鉄の壁で遮断されたかの如く、混乱した。

「‥は‥‥ぃ‥‥」
何がなんだか分からない。頬に感じる煉獄の熱と真っ直ぐな瞳が、意識を繋いでいるようなものであった。

いつまでですか、とか、どうしてですか、とか。頭に浮かばない訳ではない。だが口にするのは憚られた。煉獄が、あの煉獄が‥‥返事を先延ばしにしてくれた、もうそれだけで十分であった。また彼が、いたずらにその様な曖昧な態度を取る人間では無いことも、なまえは十二分に承知していた。


「先生、以前、鮭大根のお礼を下さるって、仰ってたじゃないですか」

脈絡の無いなまえの発言に、煉獄はきょとんとして手を離す。

「今日のドレス、誉めてくださいませんか。凄く頑張って選んだんです」
泣かされたからか、返事を貰えなかったからか。普段なら口が裂けても言えないが、今なら許される気がした。何故だか彼を、困らせたかった。


「‥‥‥」
強張っていた煉獄の表情が、柔らかくなる。
煉獄は、上半身を屈めると‥なまえの耳に唇を寄せる。唇が耳に付き、なまえはビクリと肩を揺らした。


「とても綺麗だ。このままさらってしまいたい」


「‥‥‥!!!」
真っ赤になって耳を押さえるなまえを見下ろし、煉獄は‥眉を下げて微笑んだ。



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