♭72

煉獄杏寿郎は、真面目を具現化したような男であった。

つまらないとか、融通がきかないといった意味ではない。責任感が強く、教師としての己の責務を全うするために、努力を惜しまず。常に生徒の事を考え、彼らが健やかに学生生活を送れるよう、最善を尽くしていた。

竹を割ったような性格で、誰にでも好かれる好漢であった。常に笑顔を絶やさず、相手の機微に敏感で、優しかった。前向きで裏表なく、人としての余裕が彼の懐の深さを表していた。

だが彼は、己の職業をわきまえ、必要以上に生徒に深入りする事は決してしなかった。彼に好意を寄せる者は少なくなかったが、彼が刻んだ一線を超え、近寄れた者はいなかった。
彼は男女問わず誰かを特別扱いした事は無かった。ただの一度も。


みょうじなまえという生徒を気にかけているのも、守れなかった罪悪感と、担任である責任感がそうさせているのだと‥彼は認識していた。勿論彼女を人として好ましく思っている事は否定しないが、それは竈門炭治カなども同様であって‥二つの事象に何ら因果は無いと。

雨の日、彼女が一日外を眺めていた。いつもニコニコしている彼女の瞳が曇り、どうしようもなく胸がざわついた。手を差し伸べたくなった。‥この時、それが極めて個人的な感情であることに気付いた。教師としてではなく、自身が彼女を案じているのだと、自覚した。だがそんな事はどちらでも良かった。彼女が卒業まで、幸せに過ごせればいい。それだけだった。

彼女は、可愛げのある生徒だ。目が合えば尻尾をこれでもかと振って喜ぶし、1年間のブランクがあっても腐らず、真面目に勉学に励んでいた。その姿勢に感心した。
彼女も彼を慕っていたし、飾らない彼女といると、楽しかった。煉獄が彼女を構いたくなるのは至極当然の事だった。深く考える必要はなかった。実際、彼女の周りには常に誰かがいた。



だからこそ、煉獄は‥絶望した。

彼女の白い脚と、胸元からふわりと漂った香りに‥今まで無意識に押さえ付けてきた何かがパチンと弾けた。そして、目の前の赤い唇に‥引き寄せられるように‥

「せんせ‥」

みょうじが呼んでくれなければ、自分は何をしようとしていた?

己の浅はかさと、愚かさに絶望した。彼女は未成年だ。守るべき‥生徒だ。昔宇髄に送ったメッセージが‥己に跳ね返ってきた事に恐怖を感じた。


いつから間違った。いつから自分は彼女を、1人の女性として見ていた?‥己の行動がにわかに信じられず、呆然とした。


‥思い返せば、片鱗は至るところにあった。

ドイツから帰った彼女を一目見て、その成長に驚いた。あどけなさが残る可愛らしい少女は、幼さが抜け、大人の女性になっていた。まだ成熟しきってはいないが、彼女はもう子供ではなかった。その成長に目眩がした。

彼女が風邪をひいた日。電話越しの荒い呼吸に、何故かゾクリとした。幸せだと口にする純粋な彼女の言葉を嬉しく思う一方、己の低劣な感情に愕然とした。

夏祭りの日。初めて彼女が化粧をしていた。彼女の白いうなじと赤い舌は‥くるものがあった。男の性だと、必死に己に言い訳をした。
濃紺の浴衣に身を包み、花火を見上げる彼女は‥とても美しかった。だが彼女に関して美しいという感想を持つ事は‥周囲の評価からしても、間違ったことではないと‥目を背けた。


煉獄は、頭が良く、思慮分別のある人物であった。
それでも、修学旅行で彼女を連れ出した。それが教師として相応しい行動でない事は‥承知の上であった。ただ彼女の悩みを取り除きたかった。笑わせたかった。己の手で、彼女に幸福をもたらしたかった。
彼女の心を案じ、初めて手を握った。彼女からの敬愛の情を感じ、それを嬉しくも思った。彼女が望むなら、己の立場を捨て抱き締める事も厭わない‥‥何てことはない、千寿郎にも同じことをする。‥己を疑いもしなかった。


壇上で踊る彼女は、目を見張る程に妖艶で、美しかった。一方で、一刻も早く彼女を隠したかった。彼女がその美しい肢体を大勢の目に晒す事に、抵抗感があった。だがそれは、彼女の身を案じているからだ。

車内で彼女に、親心ではと指摘された時‥煉獄は、その通りだと即答するつもりであった。そう信じていたし、そうでなければならなかった。だが彼は正直な男だ。‥長考の末、違和感を否定できなかった。彼女も嬉しそうであったし、彼は深く考えるのを放棄した。




文化祭翌日、彼は己の浅はかな行動を、ただただ悔やんだ。彼女は、生徒だ。一時の雰囲気に飲まれ‥取り返しのつかない事をするところであったと。こんなにも、自分は節操のない男であったのかと、己を嫌悪した。これまで生徒に迫られても、ただの一度もこのような気持ちになったことは無かった。何故だ。何故彼女にこんな‥‥‥。


雷鳴轟く夕刻。彼女にペンを差し出した時。
嬉しそうな笑顔を見て‥‥知ってしまった。

‥俺は、彼女の事を。


彼は呼吸の仕方さえも忘れ、立ち尽くした。
何故考えなかった。歳の差もさほどない、明るくて可愛い女性に、惹かれる可能性を。そしてその想いは、教師と生徒という途方も無い壁で分かたれており‥許されざるものであると。


煉獄は、みょうじなまえを遮断した。教師など、学生からすれば学校生活の付属品だ。表面上取り繕っていれば、気付かれないだろう。このまま何事も無く卒業し、記憶から消してくれればいいと思った。
己の気持ちなどどうでもよかった。ただただ罪悪感に苛まれ、彼女の顔を見る事すらも憚られた。


だが。
「みょうじが俺の前で泣いた」
お前が泣かせたのだと、責める視線が煉獄を貫いた。

あれほど守りたかったみょうじを、悲しませてしまったという事実に茫然とした。彼女は相手の目をよく見ていた。人の気持ちに敏感だった。気付かない筈は無かったのだ。
今まで通り接してあげたかったが、罪悪感がそれを拒んだ。彼女は好きな人がいると言っていた。どうかその人と、笑って未来を歩んで欲しいと願った。


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